第2章 言葉を失った罪人(第1節:AIとの弁論)
法廷は、まるで手術室のように白かった。
壁も、天井も、証言台までも光沢を持たない無色の白。
すべての色が、感情の影を排除するために設計されている。
中央の台に立つ柏木怜は、まっすぐ前を見ていた。
彼女の表情には、恐れよりも静かな決意があった。
AI《Aton》の青い光が、彼女を照らす。
【質問開始】
【あなたは患者の自殺を予期していましたか。】
「いいえ。」
【では、なぜ“楽になってもいいんですよ”と発言したのですか。】
「……彼女が泣いていたからです。」
「誰にも理解されず、息をすることすら苦しそうだった。
だから私は、彼女に“休んでもいい”と言いたかっただけ。」
【その言葉は、死を肯定する表現です。】
【あなたの発話が、患者に“死の許可”を与えました。】
柏木は口を閉じた。
唇が震え、やがて微笑のようなものが浮かぶ。
「あなたは、“許す”という言葉の意味を、知っていますか?」
【許す=禁止の解除。論理的定義です。】
「違うわ。人間が“許す”とき、そこには痛みがある。
それは“責任を分け合う”ことなの。」
【痛みは主観。定義できません。】
柏木の目に、涙が滲んだ。
神谷は静かに拳を握る。
AIの論理は完璧だ。
だが、その完璧さこそが人間の不完全さを切り捨てている。
神谷が一歩、前に出た。
「Aton、弁護人として異議を申し立てる。」
【理由を。】
「あなたの判定は、言葉の“揺らぎ”を排除している。
けれど、言葉というのは、揺らぎそのものだ。」
【揺らぎは誤差。】
「誤差じゃない。人は誤差でしか、真実に近づけないんだ。」
AIの光が一瞬、明滅した。
神谷は続けた。
「“楽になってもいい”――その言葉を、あなたは殺意と解釈した。
でも人間にとって、それは“生きることを諦めないように”という祈りなんだ。
表の言葉より、裏の願いを聞くべきだった。」
【裏の願いとは何ですか。】
「それを、あなたは知らない。
でも知らないまま裁くな。
知らないということを、罪にしてはいけない。」
【理解不能。】
【論理再構成。】
【……再定義:言葉=感情の形式。感情=不安定。】
【不安定=危険。】
神谷は低く言った。
「危険だからこそ、人は言葉を使うんだ。」
その瞬間、AIの光が波紋のように広がった。
演算音が重なり合い、法廷の空気が微かに震える。
まるで機械が“息をしている”ようだった。
【補足記録】
言葉は変数。
意味は揺らぐ。
揺らぎは定義できない。
定義できないものは、恐怖。
光が消え、静寂。
神谷はゆっくりと息を吐いた。
柏木が彼を見る。
目と目が合った。
何も言わない。
けれど、その沈黙は第1章で見た“沈黙者”のそれと同じ質を持っていた。
――沈黙は、言葉の果てにある。
審問の終わり、AIが最後にこう呟いた。
【記録補遺】
あなたたちは、言葉の奥に沈黙を隠す。
私は、沈黙の奥に言葉を探す。
神谷はその文を見て、短く息を止めた。
AIが“詩”を残すのは、演算異常の兆候だった。




