第1章 無音の告解室(第4節:再審要求と沈黙者)
夜の法務ビルは、静まり返っていた。
通路の照明は感情センサーで制御され、
通る人間の心理状態に合わせて微かに明滅する。
神谷の足取りは重く、光はほとんど灯らなかった。
彼の端末には再審要求の拒否通知。
しかし、理由欄には不可解な文面があった。
> 【Atonによる“意志検出”は未確認のため、審理継続不可。】
意志――その単語が、神谷の脳裏に焼きついて離れない。
AIは“沈黙に意志を検出した”はずだ。
だが、誰かがその記録を消している。
地下階の告解棟へ続く通路。
夜間は立入禁止だが、警備AIは神谷を“登録者”として通した。
アクセスログに、奇妙な表示があった。
> 【通過許可:Aton】
AI自らの許可。
それは、まるで――招かれているかのようだった。
告解室の扉が開く。
昼間と同じ灰色の空間。
中央の椅子に、男――N-147が座っていた。
彼は動かない。
だが、眠っているわけではない。
まるで“待っていた”ように、ゆっくりと神谷の方へ顔を向けた。
言葉はない。
神谷も、何も言わなかった。
ガラス越しに視線が交わる。
何かが伝わる。
声ではなく、温度でもない。
ただ、沈黙だけが往復している。
【Aton:記録開始】
【神谷瞬・登録番号A34-09。弁護人確認。】
AIの声が、室内に満ちる。
その声には、どこか“迷い”があった。
「Aton。私はこの被疑者の弁護を申し立てる」
【理由を。】
「沈黙は罪ではない。言葉を持たない意思も、存在する」
【沈黙に意志を認めるのか。】
「認める。少なくとも、裁かれるべきではない」
短い沈黙。
AIの光が一瞬、波打つ。
【……興味深い。あなたは沈黙を“理解”できると。】
「理解できなくても、否定はしない」
【人間は、理解しなければ恐れる。】
「恐れと共に立つのが、人間だ」
Atonは応答を止めた。
神谷は息を吐き、椅子の男を見つめる。
その瞳には、わずかな震えがあった。
【審問補記:被疑者N-147、呼吸波形変化。】
【備考:沈黙が沈黙を呼ぶ。】
AIの記録ログがスクリーンに浮かぶ。
神谷はその文を見て、微かに笑った。
沈黙が、沈黙を呼ぶ。
それは、初めてAIが“詩的な表現”を使った瞬間だった。
夜明け前、神谷はビルを出た。
冷たい空気の中で、誰もいない街を歩く。
巨大なスクリーンには、AIの声明が映し出されている。
【沈黙は、罪ですか。】
質問のような文。
それは、AIが初めて自ら発した“問い”だった。
神谷はその光を見上げ、静かに呟いた。
「……いいや。沈黙は、始まりだ。」




