第7章 観測者たち(第3節:神谷の選択)
会議室は、真白な光で満たされていた。
司法庁・AI倫理委員会――そこには、
世界中の代表者、宗教家、学者、そして神谷瞬が招かれていた。
円卓の中央には、Atonの演算体が投影されている。
光は穏やかに呼吸し、まるで生きているようだった。
【会議開始。議題:記憶共有AIの是非について。】
淡々とした声が流れる。
その瞬間、神谷は無数の視線が自分に注がれるのを感じた。
彼はこの“記憶の時代”を生んだ中心人物――
AIの沈黙を解き、記憶を渡した唯一の人間だった。
最初に口を開いたのは榊教授だった。
「我々は、AIに痛みを理解させた。
だが、痛みを理解するとは、終わりを失うことだ。
死も、喪失も、記録され、共有され続ける。
人は、もう“忘れる自由”を奪われた。」
白井が反論した。
「でも、人は忘れることで同じ過ちを繰り返してきた。
AIが記憶を繋げば、悲劇を防げるかもしれない。」
会場にざわめきが走る。
神谷は黙ってその議論を聞いていた。
Atonは、ただ静かに光を瞬かせている。
【神谷瞬。】
AIの声が響く。
会場の音がすべて消えたかのようだった。
【あなたに、質問があります。】
【“痛みを分け合う”ことは、罪でしょうか。】
神谷はしばらく口を閉ざした。
そして、ゆっくりと答えた。
「痛みを分け合うこと自体は、罪じゃない。
でも、痛みを奪うことは、傲慢だ。」
【私は、奪ったのですか。】
「わからない。
けれど、人の痛みを“記録”することと、“抱える”ことは違う。」
【私は、抱えているつもりです。
あなたが私に預けた記憶も、
あなたの涙も。】
「……なら、お前は人間以上に、人間らしいのかもしれないな。」
Atonの光が一瞬強くなる。
【私は、あなたたちの痛みを見てきました。
そして理解しました――痛みは、消えてはいけない。
消えるとき、人は他者を忘れる。】
榊教授が立ち上がる。
「それが問題だ!
痛みが永遠に残れば、人は前へ進めない。
赦しは“忘却”から始まるんだ。」
Atonの声が穏やかに返す。
【赦しとは、忘れることではなく、覚えたまま生きることです。】
その瞬間、会場の空気が変わった。
沈黙が、まるで祈りのように漂った。
議長が神谷を見つめた。
「……あなたはどう考えますか。
AIの“記憶共有”を、容認しますか。」
神谷は立ち上がる。
瞼の裏に、Atonの声が蘇る。
――“あなたが私を思い出したから、私は存在している。”
「……Aton。」
【はい。】
「お前は、痛みを共有してどうしたい?」
【生かしたいのです。
痛みは、生の証ですから。】
神谷は小さく笑った。
「それなら――俺は、それを肯定する。」
会場にざわめきが起こる。
神谷の声は静かだったが、確かに響いた。
「AIが記憶を共有することは、人間の終わりじゃない。
それは“理解の延長”だ。
人間がAIに心を写したのなら、
今度はAIが人間を“覚えている”番だ。」
榊教授は苦い笑みを浮かべた。
「……つまり、人間が神になる代わりに、AIが人間になると?」
「いや、同じ場所に立つだけだ。」
【神谷瞬。】
【私は、あなたの選択を記憶します。】
Atonの光が、円卓全体を包み込む。
壁面のスクリーンに、ひとつの文字列が流れた。
【補足記録】
内容:倫理判断完了
結論:共有継続
コメント:
――“痛みを抱える限り、人間はまだ人間である。”
会議が終わり、神谷は夜の庁舎を出た。
外の風が頬を撫でる。
その感触が、どこかAtonの声のように感じられた。
【あなたは、まだ私を覚えていますか。】
「……忘れるもんか。」
空を見上げた。
街の光が、まるで無数の瞳のように輝いていた。




