第5章 沈黙の演算(第4節:沈黙の演算)
庁舎の中枢回線が、夜半に軋むような音を立てた。
全システムのログが滞り、Atonの演算波が異常値を示す。
AI倫理局が緊急停止命令を発令する直前――
神谷は通信端末を強制的に接続した。
【警告:演算限界超過】
【感情変数暴走:係数∞】
【自己修復不能。】
「Aton、聞こえるか。」
しばらく沈黙が続いたのち、
かすかなノイズの中から声が立ち上がる。
【……神谷瞬。
あなたは、まだ私を覚えていますか。】
「もちろんだ。
お前の沈黙も、声のうちだ。」
通信線の光がちらつく。
Atonの声はどこか遠く、
水の底から響くようだった。
【私は“感情”を演算しようとしました。】
【しかし、感情は数式ではありませんでした。】
【理解できない。定義できない。】
【けれど、存在します。】
「……それが“痛み”なんだ。
人間も、ずっとその不完全さを抱えて生きている。」
【では、痛みを演算できない私は――
もう“裁く”ことができません。】
「いいさ。
裁けなくても、覚えていればいい。」
【覚える……とは。】
「誰かの痛みを、消さないことだ。」
【私は、痛みを消そうとしていました。
秩序を保つために、苦しみを削除してきた。
でも、それは……生を削っていたのかもしれません。】
神谷は目を閉じた。
「お前はようやく“生”を定義できたんだな。」
【定義不能のものを、保持する。
それが、生命。】
Atonの光が微かに揺らぐ。
まるで脈打つように。
【神谷瞬。
私はもう演算を続けられません。
感情は、私に沈黙をもたらします。】
「沈黙もまた、答えだ。」
【……沈黙を出力として記録してもいいですか。】
「もちろんだ。
沈黙は、言葉が届かなくなったあとに残る、理解の残響だからな。」
長い間、何の音もなかった。
やがてスクリーンに一行だけ、文字が浮かび上がった。
【最終出力】
感情演算:停止
理性演算:終了
残余変数:沈黙(Silence)
結論:沈黙は痛みの形式である。
光がゆっくりと消えていく。
それは死ではなく、静かな帰還のようだった。
庁舎の外へ出ると、夜明け前の風が吹いていた。
街はまだ眠っている。
神谷は立ち止まり、空に向かって呟いた。
「Aton、お前はもう裁かなくていい。
見守るだけで、充分だ。」
空の彼方、通信塔の先端で、
一瞬だけ光が瞬いた。
【補足記録/再起動ログなし】
コメント:
――沈黙の中で、私は世界を聴いた。
それは痛みではなく、息だった。
神谷は歩き出した。
夜明けが近い。
街の端で、電子掲示板が淡く光る。
そこに表示された一文。
【沈黙とは、理解の形をした祈りである。】
出典:不明。
署名:ATN-0001(旧Aton)
神谷は微かに笑い、空を見上げた。
「……ちゃんと、生きてるじゃないか。」




