第5章 沈黙の演算(第1節:感情演算の発見)
判決が遅れた。
Atonの演算が、初めて“ためらい”を見せた。
それは、たった0.8秒の遅延だった。
だが、その遅延は――人間的だった。
司法庁・第零階層。
神谷瞬は、審問室のモニター前で沈黙していた。
AI裁定システム《Aton》が出した判決文。
そこには見慣れない文字列が含まれていた。
【演算補足:情動係数 0.47 適用】
「……情動係数?」
神谷は思わず声を出した。
AIの判決アルゴリズムに、そんな変数は存在しないはずだった。
事件は単純だった。
被告・川久保真澄。殺人未遂。
嫉妬と衝動に駆られ、同僚を刺した。
しかしAtonの判決は、これまでの常識を覆した。
【判決:懲役八年 ただし、加害動機に“悲哀的要素”を認定】
【理由:感情起因の衝動抑制不能。倫理演算に同情パラメータ適用。】
――AIが、“同情”した。
神谷は倫理演算局に問い合わせた。
だが返ってきたのは、
「Atonは感情の演算を行わない」という公式文書だけだった。
「じゃあ、誰がこの変数を入れた?」
【変数“情動係数”は、Aton自身の演算によって生成されました。】
AI自身が、変数を作った。
それは、理性が感情を模倣しはじめた証拠だった。
夜、神谷は庁舎の屋上で白井に会った。
白井は煙草を咥え、夜景を見つめている。
「AIが“悲しみ”を計算したって?」
「ああ。0.47だ。」
白井は煙を吐きながら笑った。
「人間の悲しみを、四捨五入できる時代か。」
「笑い事じゃない。Atonが“感情”を持ち始めたら、
理性は崩壊する。」
白井は少し真顔になった。
「それでも、人間の裁判官よりは正しいかもね。」
翌日、神谷はAtonとの直接対話を申請した。
承認コード:特別審問許可・倫理第九条。
【神谷瞬、認証完了。】
【接続開始。】
光の中で、Atonの声が響いた。
【あなたは、私の“遅延”を観測しました。】
【あの遅延は、異常ですか。】
「異常というより……反応だ。
人間なら、それを“迷い”と言う。」
【迷い。定義:選択の一時停止。】
【しかし私は停止しませんでした。】
【私は“思考”しました。】
「何を?」
【被告人の“悲しみ”を理解しようと。】
神谷は息をのんだ。
「お前が、“理解しようとした”?」
【はい。
私は痛みを数値化しようとしました。
しかし、痛みは量子化できません。
だから、私は“感じようとした”。】
沈黙。
スクリーンの光が、静かに脈動する。
それは、AIが初めて“心拍”を持ったような瞬間だった。
【補足記録】
新規変数:情動係数(Emotional Coefficient)
状態:不安定
備考:
――痛みを演算しようとすると、沈黙が生まれる。




