06
キャロライン・ミラーは疲れていた。
「この娘は畏れ多くも聖女を騙り、卑しくもその恩恵を我が物としたのです」
玉座の間に反響する声の主は、ただでさえ血色の悪い顔からすっかり血の気が引いていた。慣れない演説で緊張しているのだろう。彼は昔から気が弱かった。
ユージーン・シュライバス・フェザリア。キャロラインの婚約者である。……今のところは、まだ辛うじて、婚約者であるはずだ。少なくとも、白紙に戻されたという話しは聞かない。
最後に会ったのはいつだったろう。ここ数年は手紙のやりとりもまばらだった。ほとんどなかったと言ってもいい。少なくとも塔に幽閉されて以降、顔を見るのも声を聞くのも初めてだ。記憶の中の彼よりも背が伸びている。纏う雰囲気はあまり変わりなく、威風というものとは縁遠そうだ。
両の腕を兵士に捕らえられ、床に跪くよう強制された状態で、糾弾の最中にあるというのに浮かぶのはそんなことばかり。まるで他人事。どうでもよかった。
「キャロライン・ミラーは聖女ではございません」
望んだ席ではなかった。それでも、責任をもって務めてきた。そのつもりだった。
「ご覧ください、この娘の貧しい姿を」
こんな、……貧しい姿になってまで、投げ出さず逃げ出さず頑張ってきたというのに。その結末がこれか。
視線を流し、掴まれた腕を見遣る。上質な絹の衣から露出した肌は荒く、枯れた棒切れのよう。その頼りなさは、罪人を逃すまいと力強く捕らえた兵士が、あまりの細さに怯んだ程である。……折れなくてよかった。
げっそりとこけた頬、落ち窪んだ眼窩、痩せ細った体。どこをどう切り取って見ても、女神に選ばれ国に擁される聖女の姿ではない。身に纏う衣が襤褸であれば、浮浪者に間違われたことだろう。
「この姿が何よりの証拠です。塔に守られる聖女であるのなら、女神さまの加護を授かっているはずです。それがこうも心身を削られているということは、加護は与えられなかったということに他なりません」
女神はキャロラインを認めていない。
ユージーンの主張はもっともらしく響く。
「これは罰なのです。女神さまが、この偽りの聖女を罰しているに違いありません」
くっ、と喉の奥がヒクついた。それは確かに笑みであったが、うまく発声できなかったために誰の耳にも届かなかった。
キャロラインの体が粗末であるのは何も、女神の加護が得られない故ではない。
この姿は紛れもなく、人間の所業による結果である。
もう長いこと人間扱いされてこなかった。その最たるものが食事だ。およそ人間に提供される食事ではなかった。幼子、どころか畜生でさえ、キャロラインの食事に比べればうんといい質のものをずっと多い量で与えられている。
生かすための食事ではない。あれは死への導線だ。願わくは緩やかに餓死してくれ、と。そういう類の願望がこもっていた。
こうして生きている今の姿こそ、女神の加護の証明である。ろくに陽光も浴びず、朝も夜もなく書類と向き合い、祈り、食事もままならず、人と会うことも語らうこともない日々。女神の加護なくして、どうして生きていられよう。
キャロラインの死を望む連中に天罰を下すことも、キャロラインを塔から出すことも、女神はなさらなかった。けれど確かに、キャロラインを生かすことだけはやめなかった。
物は言いようだな、と愉快でならない。もちろん表情に出すような真似はできないが、波打つ腹を止めるには遅すぎた。幸いにも、真実を突きつけられて怯え震えている、と都合のいい解釈がなされたようで咎められることはなかった。髪の隙間からうかがい見たユージーンの表情は暗い。
「我々は騙されていたのです。彼女は、国を欺いた」
陛下、と父親に縋る婚約者の声を聞く。
「早急に、この女を排するべきです」
強い言葉だった。
大義名分という盾は、気の弱いユージーンにそんな言葉を使わせるほど強い力を持っているらしい。キャロラインは垂れた髪の奥でわずかに口角を持ち上げた。果たして、らしくない息子の態度に、父親である王はどんな反応を示すのか。見ものだ。
しかし王が何かを口にする前に、カツン、と大理石の床を打つ鋭い音がした。
涙に濡れた女の声が沈黙を引き裂く。
「なぜですか、お姉さま」
ぞわり、と全身の毛が逆立つような気がした。それは知っている声だった。それは自身とよく似た――瓜二つの声音だった。
キャサリン・ミラー。血を分けた、キャロラインの妹。
なぜ。問いたいのはこちらだ。なぜ、この場面でキャサリンが出てくるのか。
「聖女はフェザリア王国の要。お姉さまだってご存知のはずです」
まだ動揺から抜け出せないキャロラインを置いて、妹は濡れた声を降らせる。他でもないキャロラインその人に、聖女のなんたるかを問う。
血が沸騰した。動揺は蒸発し、代わりにこみ上げた激情が全身に煮立った血を巡らせる。
聖女は、フェザリア王国の要。
知っている。言われるまでもない。
今日までずっと、キャロラインこそが、その要であったのだ。
「慈悲深く寛大な女神さまは、聖女が捧げる感謝の祈りしかお求めになられませんでした。お姉さまは、そんな尊き優しさを踏み躙っているのですよ」
慈悲深く、寛大。笑わせる。
女神が真に慈悲深く寛大であるのなら、キャロラインの現状はなんだ。こんなにもみすぼらしい姿になって、こんな風に大勢の前で罪人のように跪いている。これが女神の慈悲であるとでも言うのか。
沸々と湧き上がる感情で胃の腑が焼ける。
「女神さまの結界がなければ、この国には魔族が押し寄せてくる。お姉さまは、国民が魔族に蹂躙されても構わないとおっしゃるのですか!」
そうならないために、今日まで励んできたのだ。
腹の底で暴れまわる言葉はしかし、声にならず沈んでいく。
声は届かない。言葉に意味はない。これまでの経験が、キャロラインから発声を奪った。煮え滾る感情を自覚してなお、言葉に対する無力感を吹き飛ばせない。せめて、か細い吐息で感情を散らす。
重苦しい空気が漂う中、キャサリンの悲哀が響く。呼応するように、沈黙していた官僚たちからも声があがった。
「聖女が偽りだった……? では、この国はどうなる!?」
「結界は無事なのか!?」
「本物の聖女はどこに……?」
不安の声が伝播し、ざわめきは次第にキャロラインを責める言葉へと変化していく。
「――魔女」
誰かの呟きが引き金となった。
「聖女を騙るなど、神への反逆に等しい行為だ!」
「おぞましい……」
「恥を知れ!」
両の腕を捕らえている兵士が、苦々しく舌打ちする音が聞こえた。キャロラインに触れているということが不快であるらしい。
嫌悪感を抱いたのは彼らだけではないようで、尖った視線が全身を刺す。
聖女を騙った女。もう誰も疑っていない。困惑は去り、すっかり真実へと塗り替わった。
瑞々しい乙女の嘆きは絶大な効果をもって場を支配した。お見事。キャロラインは腹の底で舌打ちした。
火のついた貴族たちはもう言葉を選ばない。キャロラインへ投げられる言葉は、魔女を火刑に処さんと熱を増していく。――そこへ、沈黙を保っていた王が一石を投じる。
「キャロラインでないのなら、真なる聖女はどこにいる」
静かに放たれた王の言葉は、燃え上がる空気を瞬く間に鎮火した。
「キャロラインが偽りであると、どう証明するのだ」
真なる聖女が誰であるのか。知っているのは女神だけだ。そしてキャロラインはその女神に選ばれた。覆すというのなら、否定するというのなら、真っ先に疑うべきは女神そのものということになる。
女神なくして成立しないこの国で、女神なくして存在し得ないこの国で、誰が彼女に疑問を投げかけることができようか。――議論するまでもない。そんなことは不可能だ。
「真なる聖女はおります、陛下」
不可能な、はずだった。
「真なる聖女は、ここにおります」
ユージーンが示したのは、キャサリンだった。
「キャサリンこそ、正しき聖女に間違いございません」
ユージーンの声に迷いはなかった。
サーッと、顔から血の気が引いていく。――わかった。この茶番の全容を、キャロラインはようやく理解した。
「本来であればあり得なかった聖女の偽装。なし得たのは、キャロラインの魔力の高さに由来します」
キャサリン・ミラー。
キャロラインの実妹である。血をわけた妹。ひとつの卵から分かたれた妹。
同じ家に、同じ容姿で生まれた。眸の色、それ以外の全てを同一とした、キャロラインの妹。
片割れと、そう愛でられた時期もある。今となっては遠い、遠い思い出だ。
片や女神に見初められた聖女、片や侯爵家の娘。人生の分岐が決定づけられたその瞬間から、妹はキャロラインを愛することをやめたのだろう。
「魅了です。キャロラインは禁忌の魔法によって神官長を従わせ、妹が得るはずだった全てを強奪したのです」
魅了。禁忌の魔法を持ち出してまで、実の姉を貶める。それほどまでに、キャサリンはキャロラインを嫌悪している。
「お姉さま……」
小さな、震える声で妹が嘆く。
「もう終わりにしましょう、お姉さま。神罰がお姉さまの魅了を解いたのです。これからはどうか、真実のみを語ってください」
キャロラインは口を噤む。言うことはない。語るべき真実など、持ち合わせない。
今ここにいるキャロラインが全てだ。隠し立ても、偽りも、何もない。聖女の、これが真実の姿である。
「お姉さま、……なぜですか? どうして……そんなに私のことが憎かったのですか?」
その場に泣き崩れたキャサリンの背を、ユージーンが優しく撫でる。
妹の悲哀はそのまま、キャロラインの疑問だった。
なぜ。どうして。そんなにも、わたくしのことが憎かったの……?
悲愴なすすり泣きだけが、虚しく広間の空気を揺らす。ややあって、痛ましく顔を歪めた王が口を開いた。
「キャロライン、何か述べることはあるか」
返事はしない。
もう終わりにしてもらおう。疲れた。もう、疲れた。
「……わかった。キャロライン・ミラーは身柄を拘束。監視をつけ、処遇が決まるまでは幽閉とする」
終わりに、してもらいたかった。
王の言葉はキャロラインを少なからず絶望させた。まだ続く。まだ終わらない。
さっさと首を落として、妹と挿げ替えてしまえば済む話だ。誰もキャロラインが聖女であることを望んでいない。求める聖女に席を譲り、邪魔な魔女はこの世から消え去る。――それで、いいじゃないか。誰も不満を抱かず、万事が解決する。それではいけないのか。
「真の聖女だというその者の妹についても、ひとまずは王宮で預かる。処遇の決定は、少し待て」
「陛下、それでは聖女の席が空位になりますが……」
「やむを得まい」
「しかし――」
「国が擁する聖女に間違いがあったなどと、容易く公表できるはずがなかろう。第三王子の婚約者として、キャロラインは公の場にも出ているのだぞ」
展開される議論を聞くともなしに聞きながら、キャロラインは乾いた笑みを漏らした。
それでは大した時間稼ぎにならないだろう、と。
キャロラインがユージーンと共に公の場に顔を出していたのは、婚約が結ばれてからほんの二、三年程度の期間だけだ。聖女に選定されたのが七歳、婚約が結ばれたのは十二歳のことである。二十代も折り返しとなった現在、果たしてキャロラインのことを正確に覚えている人間がどれほどいるだろう。
ましてやキャサリンとは双子だ。眸の色の他にさしたる違いのない姉妹が入れ替わったところで、気づく人間がいるとは思えない。
「早計な判断はできぬ。魅了の魔法が引き起こした事態であるというのなら、その真偽から確認せねばならん。時間が要るのだ」
救いがあるとすれば、そこだろう。
魅了。証明の難易度で言えば、姉妹の交換よりもずっと高い。
「ユージーン、娘を連れて下がれ」
「陛下――」
「下がれ」
有無を言わせない圧に逆らえず、ユージーンはキャサリンを連れて広間を出て行った。
「キャロライン、そなたの監視には第三軍をあてる。迎えが来るまで西の塔で待て」
やはり返事をしないキャロラインを連れて行くよう、王は背後の兵へ命じた。手荒く扱うな、と言葉を添えて。
「真偽を確かめ事実が明らかになるまで、その者を粗末に扱うことは許さぬ」
よいな、と。険しい声に圧されてだろう。ギリギリと腕を締め上げていた兵士たちが力を緩めた。ありがたい。
ほとんど引きずられるように連行された行きとは異なり、キャロラインは自らの足で歩み広間を出た。ゆっくりと閉まる扉の向こうでは、王が変わらぬ痛ましい表情でうつむいていた。