04
「キャロライン、聖女の任をキャサリンへ譲りなさい」
浮かべているのは穏やかな、人畜無害な笑みであるのに。キャロラインの背を怖気が駆け抜けた。
この人は一体、何を言っているのだろう。
理解できない。父親の言葉を受け取ることを、頭が拒んでいる。
まずは娘の、この痩せ細った体に対して言うことがあるだろう。身を案じる心はないのか。
浮かんだ不信は腹の底に沈めた。わかりきったことだ。両親は昔から今に至るまでずっと、キャサリン以外を娘と認めていない。
『これはとっても名誉なことなのよ』
母の声は喜びに満ちていた。
『これは素晴らしいことなんだよ』
父の顔は喜びに満ちていた。
キャロラインを見つめる両親からは、重たい荷物を下ろしたときのような、深い安堵が感じられた。
やっと、これでやっと、楽になれる。
そんな言葉が聞こえてくるようだ。……実際に聞こえていたのかもしれない。
キャロラインが聖女の資質を見出され、教会に迎えられることが決まった朝のことだった。その日は珍しく、キャサリンよりも先に挨拶の言葉をかけられた。
おはよう、キャロライン。とてもいい朝ね。
どんよりと重たい雲に覆われた空を背に微笑んだ母を見て、キャロラインはすぐに察した。何かあったのだ、と。両親にとって都合のいい――キャロラインにとって不都合な、何かが起こったのだ、と。
そしてやってきた教会からの迎えが、答えだった。
厄介払いできる。ようやく、いなくなる。
キャロラインが自分たちの元を去ることが、両親にとっての朗報であったのだ。
今の両親には、あのときと同じ安堵の色が窺えた。
何かあるのだろう。キャロラインの地位をキャサリンに譲り渡すことで生じる利益が。
「長い間ひとりで大変だったろう。そろそろ休んでもいいんじゃないか?」
「聖女の務めに休みはありません、お父さま」
「あなただけに背負わせたこと、とても後悔しているのよ」
「女神さまのご意思です、お母さま」
眉を下げ、いかにも案じているという雰囲気を醸しているが、その顔を彩る喜色までは隠し切れていない。……まだキャロラインが邸にいた頃、姉妹が同じ邸で育ったあの頃。あのときから、両親は何も変わっていない。
見えていない。見ていない。見る気がない。
そこにいてもいなくても、キャロラインを通して二人が見ているのはキャサリンだ。
「お前が休んでいる間の代理はキャサリンが務める。いいね?」
「聖女に代理など存在しません、お父さま」
聖女はひとり。代理も、予備も、存在しない。
頷かないキャロラインに腹を立てたのか、父の表情が険しくなる。
「聖女に選ばれたのはミラー家の娘だ。どちらでも構わん」
「ミラー家の長女です、お父さま」
「キャサリンだったかもしれない!」
破綻している。会話として成立していない。
ミラー家の長女として生を受けたのはキャロラインである。それは覆らない。何年でも、何時間でも、何分でも、何秒でも。先に生まれたほうが長女。キャサリンはそうではなかったから、長女はキャロラインだ。
双子であること。
女神が聖女を選ぶ、絶対の条件である。
同質同量の魔力を持つ乙女であること。姿形に違いを持たない双子であること。それが条件。
この世に生を受けたその瞬間から特別な存在である双子の片割れを、女神は自身の代理に選ぶ。
「わたくしは聖女としての務めに不満はございません。長く努めたという誇りもあります」
同質同量の魔力を持つ乙女。姿形に違いを持たない双子。――それでも、どちらでもいいなどということは絶対にないのだ。女神に指名されたひとりだけが聖女で、指名されなかった片割れはどうあっても聖女にはなれない。
「どちらでも構わないというのなら、わたくしがこのまま続けても構わないでしょう」
お引き取りください。
明確な拒絶に、両親はいよいよ表情を取り繕うことをやめた。
「それが父親に対する態度か! 私は憐れなお前を労ってやっているんだぞ!」
労う? ――これが、我が子を労う親の態度であるものか。
痩せ細った娘を見て、一切れしかないパンを齧っている娘を見て――変わり果てた姿になった娘を前に、案じるよりも労わるよりも先に、真っ先に妹の名を出したくせに。
ぎょっとした顔に塗りたくられていた感情は確かに、嫌悪や侮蔑の色をしていた。見逃すはずがない。実の両親から向けられる残酷な感情に、気づけないほど鈍い娘ではない。
「ひとりでは辛かろうとわざわざ出向いてやったというのに、感謝の言葉もないのか!」
「お心遣い感謝します。お気持ちだけで十分ですわ」
お引き取りください。
キャロラインに引く気はなかった。
どうせキャサリンのためなのだ。キャサリンの我儘を叶えるため。彼女の幸福の果てに巡ってくる甘い蜜を吸いたいがため。そのためにキャロラインが邪魔なのだ。
奪われてなるものか。この場所だけは絶対に。
たとえ食事もままならない環境であっても。たとえ衣食住の全てが粗末であっても。さっさとくたばれ、と望まれる人生であっても。
この場所にいる限り、キャロラインは孤独ではない。
「聖女の地位は譲渡できるものではありません」
女神が選ぶ、女神の代理だ。選ぶのは女神であり、新たな聖女の指名はすなわち代替わりを意味する。聖女の選出に『譲渡』などという項目はない。
きっぱり拒絶してなお、父の顔は変わらなかった。
「できるさ!」
はつらつとそんなことを言う。
「選ばれたのはミラー家の娘だろう? キャサリンもそうだ」
「いいえ、お父様。ミラー家の長女ですわ」
「キャサリンだったかもしれない!」
そんなわけがない。そんなことはあり得ない。
「女神さまは『ミラー家が長女キャロラインを新たな聖女に任命する』とおっしゃったのです。お父さまも覚えておいででしょう?」
「間違えたのだろう」
「っ――!?」
息を呑んだ。
女神は全知であり、全能だ。間違えることはない。それがこの国の常識である。空に架かる月よりこの国の端々まで見ておられる彼女は決して間違えず、すべてが正しい。