02
階段を駆け下り、扉のそばで耳をそばだてる。走ったせいだけではない理由で、心臓が歪な音を立てている。
己以外の声を聞くことなど、もう長いことなかった。
キャロラインは塔より外へ出ることを禁じられているし、だからと言ってキャロラインを訪ねて塔へやって来る者もいない。婚約者でさえ、キャロラインの顔を見にやってくることをしないのだ。手紙をもらった記憶も古くなってきたもので、声だけでなく存在そのものをすっかり忘れ去られている可能性もある。
誰だろう。警戒心よりも先に、好奇心が疼いた。
声は複数。いずれも男性のものであると思われる。荒々しい声に余裕はなく、切羽詰まっているような張り詰めた音をしている。
野盗だろうか。脳裏を過ぎった疑問はすぐに否定した。野党がわざわざ扉を叩くものか。
「どうか! 聖女さまの加護を賜りたい、どうか!」
野太い声は鬼気迫っている。
「何か困りごとがございましょうか」
キャロラインは反射的に返事をしていた。救いを求める全ての者に、救いの手を差し伸べる。聖女の任を拝命して、まず初めに叩き込まれた。ひとりの乙女に与えるには大きすぎる権能。まだ幼い女神の名代が、私欲に溺れることのないように。
聖女に与えられる権力は、たったひとりで国を背負う乙女の鎧である。聖女の持つ力は、国を守り支えるための盾である。弱きを救け、強きも救ける。そんな優しい人になってほしい、と願いを込めて育てられてきた。
「わたくしに、何をお望みでしょうか」
声はすんなりと流れ出た。誰かと会話するのは随分と久し振りのことであったが、祈りの時間はずっと喋っているので発声自体にはなんら問題ないらしいとホッとする。
キャロラインの返事を受けて、外のざわめきにやや安堵の色が滲んだ。
「突然の来訪をお許しください。どうか、聖女さまのお力添えをいただけないでしょうか!」
丁寧な言葉遣いは嵩張る。時間を惜しんでか、男の言葉はひどく早口だった。
「怪我を負った者がおります。瘴気による汚染もあります。どうか、聖女さまの癒しのお力をお貸し願いたい」
「うー……ん」
さて、キャロラインは困ってしまった。
怪我を癒すことも、瘴気に汚染された傷を清めることも、問題なくできるだろう。しかしそのためにはまず、外に出なくてはならない。
聖女の住居としても機能する祈りの塔は、安全のために防御魔法がかけてある。これ自体は塔への攻撃を防ぐ機能しかなく、出入りを阻害するような仕掛けはない。しかし今、それとは別に、この塔には出入りを阻害する封印魔法も施されている。聖女が逃げ出さないように。務めを投げ出さないように。二年前、魔法省の長官が直々に封をしていった。
つまり、外へ出て救けてあげたくても、キャロラインは外へ出られない。――と、いうことになっている。
悩んだのはほんの一瞬のことだった。キャロラインは扉の正面に立ち、背筋を伸ばした。
救いを求める全ての者に、救いの手を差し伸べる。外に困っている人がいるのなら、封印を破った後の面倒などなんでもない。
「よろこんで、お手伝いさせていただきます。では扉を破りますので、離れてください」
おお、ありがた……――扉を破る?
歓声が疑念に塗り潰される様子を肌で感じ、キャロラインは心の中で謝罪した。すみません。不思議に聞こえたでしょうが、今の言葉に嘘はありませんので諦めてください。
魔力を練る。
「済みました。部隊の方々を全員集めてください。汚染の気配はなくとも瘴気の湧く場所から帰還されたのですから、念のため清めておきましょう」
事もなげに言うキャロラインに、慌てたのは部隊長であった。
「す、済んだ……? もう……?」
先程まで抱えていた焦燥が、今なお心臓に早鐘を打たせている。赤黒く染まっていく肌に、どんどん冷たくなっていく体。迅速な撤退のために先陣を切る隊長へ、ならば殿は自分が務めると快活に笑った男が今は虫の息で死にかけている。部隊で一等逃げ足が速いのは自分だからと冗談を飛ばした彼へ任せた判断は間違っていないと今でも思う。頼むから死ぬな。そう祈ることしかできない無力感で胸を掻き毟りたく衝動に駆られた。それが、今のほんのわずかな時間で済んだ、と聖女はそう言った。
アーノルドを見る。彼は穏やかな顔で寝息を立てていた。服こそ血で赤黒く染まっているが、露出させていた肩は実に綺麗なものだ。バーゲストの牙に貫かれ、引き裂かれた肉が抉れてぐちゃぐちゃになっていたのがまるで夢のよう。
済んだ。治った。もう大丈夫。呑み込むのに随分とかかって、それから部隊長は聖女の前に跪いた。
「ありがとうございます……! あなたがいてくださらなければどうなっていたか」
「間に合ってよかった。さあ、みなさまにも浄化の魔法をかけますから、全員を集めてください」
「ありがとうございます」