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01 2025.8.20


 キャロライン・ミラーは疲れていた。


 暗い内から始めた朝の祈りを終え、狭い階段を降っていく。石造りの塔に照明は乏しく、朝でも昼でも薄暗い。各階の壁を這うように設置された螺旋状の階段のそばには、彼女の拳よりも小さな穴がいくつか空けられているが、塔内を明るく照らすには力不足であった。それらには、空気を入れ替えるだけでも大仕事だろう。

 窓としての役割を与えられたであろう場所には格子が嵌め込まれており、世界を縦割りにする不快感から板を打ちつけたきりである。

 塔の天辺にある祈りの間ばかりは太陽と視線が交錯するほどに明るい場所であったが、内部へ光を取り込むための天窓は閉ざされたままである。日に三度ある祈りの時間のいずれを終えても、彼女は天窓を閉ざす錠に触れもしない。鍵は錠をかけた際に適当に放ってそれきりである。いつまでも探しにこない彼女に痺れを切らして、きっと鍵はどこかへ逃げ出した。こまめに掃除しているのに、ちっとも姿を見せないのはそのせいだろう。


 かくしてキャロラインは陽光を浴びる機会を尽く棒に振りながら、今日もまた一日が始まったと溜め息を吐く。朝食もまだだというのに、早くも昼の祈りまでの時間を数えて憂鬱である。

 彼女は陽光が嫌いであった。

 朝の祈りは日が登り切るよりわずかに早く済む。済ませている。しかし昼間はそうも言っていられない。遮蔽物のない祈りの間は、雨や雪が降る曇天でもない限り、燦々と陽光を浴びせてくる。世界にとっては恵みであっても、彼女にとっては忌まわしいばかりであった。


 上質な衣から露出する己の粗末な肌を見遣り、深々と溜め息を吐き出す。骨と皮と幾許かの肉が薄らついただけの肉体には、艶も潤いもあったものではない。白蠟じみた血色の悪さも手伝って、まるで屍人のようである。

 薄暗い塔の中で過ごす間は、足りない自分から目を逸らしていられる。しかしひとたび太陽のそばへ歩み出ると、豊かな陽光に双眸を灼かれるのが常であった。直視できない。太陽は恵みであるはずなのに、まともに恩恵を受け取ることもできない無力感に打ちのめされる。


 淡雪よりも白骨を彷彿とさせる体を引きずって、出入り口として設置された扉へ寄る。すぐ横には長方形の小窓と、そこから差し込まれる食事を乗せたトレーを受け止める台が設置されていた。……今日はトレーがある。

 視線を落とすと、トレーに押し出されたのだろう分厚い羊皮紙の束が床に落ちていた。思わず舌打ちがこぼれる。キャロラインにとって食事よりも重要なそれを、粗末に扱われることは我慢ならない。丁寧に拾い上げ、落とさないよう脇に挟む。次いでトレーを受け取り、扉の反対側の壁際に置かれた小さなテーブルまで運び、着座する。

 硬くなったパンがほんの一握りと、口を湿らせる程度のミルク、具はないが辛うじて温かいカップ一杯分のスープを流し込む。食事に時間はかからない。味わうことに意味はなく、またそこに喜びもないためである。

 足りない。いつも通りちっとも足りていない食事を終え、空になった食器をしばし睨む。慣れているはずの腹がきゅうきゅう音を立てた。女であるとか、質素倹約を掲げる神殿に所属する聖女であるとか、そういうことを加味しても、おおよそ満たされる量でも質でもない食事である。

 毎食がこんな風であるから、キャロラインの体にはいつまでも肉がつかない。空腹が満たされることがない。

 そろそろ腹が膨れるくらい食べさせてもらわないと、日々の業務に支障をきたす。

 深く吐き出す溜め息で尖った気持ちを散らす。トレーをさっさと小窓の台へ戻し、下ったばかりの階段を再び上がる。途中、壁にかけられた絵に描かれた女神と目が合った。星空を流し込んだ髪は艶やかで、月の輝きを宿した双眸は美しい。彼女の心は慈悲で満たされ、正義を司るという。


「大した慈悲ですわね、女神さま。あなたの聖女は、こんなにもみすぼらしい姿であるというのに……」


 恨み言は自然と漏れた。しかしすぐに口を閉ざす。意味なんてない。足を動かすことに集中する。塔の二階は聖女の寝室であり、執務室でもある。彼女は祈っていない時間のほとんどをここで過ごす。

 簡素なベッドと、飾り気のない机と椅子、それから壁に貼られた大判の地図が一枚。部屋にあるのはそれだけだ。質素倹約も甚だしい。

 ガタガタと足並みの揃わない椅子を引き、腰を落ち着ける。羊皮紙を広げ、一言一句の見落としもないよう目を凝らす。差出人は神殿の神官長であり、内容は国内の状況を知らせる報告書だ。塔の外へ出ることを禁じられたキャロラインにとって、彼から届く羊皮紙が外の世界の全てである。


 結界に程近い場所は概ね正常な状態を保っている。神殿と、キャロラインの住居でもあるこの塔がある王都周辺は言わずもがな、瘴気による被害はまったくと言っていいほど何もない。

 不穏な気配のあった西側の村々も、騎士団の派遣が迅速に行われたことで事なきを得たようだ。しばらくは騎士団が滞在し、近いうちに神官も派遣される手筈になっているという。

 北側の街道沿いに発生していた異常事態は人災であった。悪知恵の働く盗賊団の悪意ある略奪行為が原因であり、既に制圧が完了している。

 直近の不穏分子がまとめて片付いたという報告を受け、強張っていた肩からやや力が抜けた。

 続きも概ね平穏なもので、知らず詰めていた息をホッと吐き出す。ここ数か月間ずっと根を張っていた不安の種が芽を出す前に摘めた、あるいは新芽の内に刈り取ることに成功したということで、安堵からつい天を仰いだ。……祈りはほんの少し前に済ませたばかりだというのに。感情が揺れるととっさに天を仰いでしまうのは、聖女に指名されて以来、すっかり身に染みついてしまった悪癖だ。幼子が母親の顔色から安全性を確認するように、父親の体を砦にして身を隠すように。無意識に、冷たい石造りの塔の中、朝の昊に架かるはずもない月を探してしまう。


 月に住まうという、フェザリア王国が仰ぎ見る女神。人間の夜が闇に閉ざされないように星を創り、空を瞬きで彩る彼女は、陽の出ている時間は眠っている。聖女はその間の名代だ。フェザリア王国民の安寧を守り支える、慈悲深き星の乙女。

 聖女は神殿に所属し、大神官の管理下に身を置く。しかし便宜上そうなっているだけであり、実際のところ聖女という存在は独立している。彼女には国王であっても侵せない権能があり、女神以外の何者にも左右されることはない。フェザリアの民にとって聖女とはそれだけの地位に在るべきだと位置づけられている。


 しかしキャロラインは思う。


 結界を維持するために日々祈り、女神に感謝を捧げる聖女もまた、フェザリアの民であり、女神の寵愛を受けとる信徒である。昼夜を問わず、生涯を通して聖女という務めを果たすことに変わりなくとも、女神により名代としての働きが求められるのは昼間だけだ。夜間は女神の子らと同様に、安らかに夢を見る権利がある。国が、民が、聖女をどう扱おうとも、それは女神の意思とは関係ない。

 幼子が母親の顔色から安全性を確認するように、父親の体を砦にして身を隠すように。キャロラインもまた、女神を自身の安全基地として定め、安心毛布のように心を寄せている。


「……改めなくては、いけないわね」


 さりとて今は朝だ。太陽が輝く間、キャロラインは女神の子ではない。聖女として、女神の名代を務める存在だ。人間らしい弱さは必要ない。見せるべきではない。わかっているのに、漏れ出る溜め息を止められない。

 弱くなった。キャロラインは自身をそう評価する。信仰はいまだ根づいている。女神への気持ちに嘘もない。けれど確かに、キャロライン・ミラーは弱くなった。

 独りの時間が長過ぎたせいだろう。彼女が塔にこもるようになって二年、他者との交流は専ら文章で、相手は神官長ただ一人。内容はほとんどが務めに関することで、他愛もない日常のやりとりもめっきりなくなった。初めのうちは手紙でやりとりをし、書き出しには必ず日々のよろこびに関する知らせがあったというのに。二年という歳月は、その程度の余裕さえ奪ってしまった。

 来訪者もなく、キャロラインは誰かと会話することすら久しく経験がない。孤独は心を蝕む猛毒だ。極限まで削られた生活と、社会性の欠如。信仰は心を支える柱であるが、肉体が貧してしまっては削られる部分も出てくるのだろう。キャロラインは弱くなった。しかしそれを受け入れることはできない。嘘でもそんなことを、認めるわけにはいかないのだ。


「しっかりしなさい、キャロライン。あなたは聖女でしょう?」


 女神によって選ばれた、尊き女神の名代だ。

 両の頬を張り、気持ちを切り替える。

 読み終えた羊皮紙を広げ直す。文頭に指を添え、神官長へ向けた報告を口の中で紡ぐ。紡ぐ言葉に合わせて指で羊皮紙の文字をなぞると、インクが形を変え、キャロラインの言葉へと文字が変化していく。

 ペン先が欠けたと申請しても補充されることのない羽ペンと、使い切ったと報告しても追加されないインクを待つことに疲れ、魔法に頼ることにしたのは随分と前のことだ。ひどく疲れるこの方法をキャロラインは好まないが、これ以外に文字を綴る術がないのではしかたない。筆まめで子細な報告をくれる神官長に感謝だ。この魔法は羊皮紙に書きこまれたインクの分だけしか使えない。つまり文量が少なければそれだけキャロラインが使えるインクの量も減る。


 国家の安寧を守り支えるという聖女の務めにおいて、最優先は結界の維持だ。これについては問題ない。キャロラインの内包する魔力は底なしと称されるほどに潤沢である。日に三度の祈りを欠かさなければ、結界の綻びを修復することも、安定を保つことも容易い。結界の外側にある脅威は何一つ、瘴気も魔族も決して、内側に這入り込む余地はない。

 問題なのは、内側に湧く脅威のほうだ。瘴気は土地を穢し、病を運ぶ。瘴気が大気中の魔素と結びつけば魔が生まれる。魔が植物や獣に寄生すれば、それはやがて魔物となる。聖女とは本来、一所に留まるのではなく、国中を巡って瘴気を浄化して回るものだ。しかし現在、キャロラインは王都にある塔から外に出ることを禁じられている。


 二年前、魔法省の長官が変わったときから何かが狂い始めた。三年前、王が病に倒れたときから予兆はあったのかもしれない。

 国を巡らず、塔に閉じこもる聖女。民の不安はいかほどのものか、と胸を痛めた日々もあった。しかし立ち止まっていることはできず、こうして神官長と共にできる限りの手を尽くして抗っている。直接、瘴気の湧く地へ出向いて浄化することのできないキャロラインは、神官長率いる神殿の神官たちを全国へ派遣し、不浄の土地を清めて回ってもらっている。聖女の行使する浄化の魔法と、神官たちの行使する神聖属性魔法は正確には性質の異なる魔法であるが、効果の程度に差はあれど瘴気を浄化するという点において違いはない。

 本来なら聖女一人が担う作業を神殿総出で分担している現状、神殿は常に稼働し続けており、他の業務にも滞りが出ている。しかし国家の安寧という最優先事項を疎かにすることはできず、神殿は聖女の手足として働き通しだ。


「よし、できた……」


 キャロラインは今年で二十歳になる。成人を迎えるのを待たず塔へ幽閉され二年、すっかり行き遅れになってしまった。慣例として結んだ第三王子との婚約は、白紙に戻されることも婚姻を結ぶこともなく宙ぶらりんになっている。十二歳を迎えて間もなく婚約が成立していたから、彼とはかれこれ八年の付き合いになる。声はもう思い出せない。向こうもきっと、覚えてはいないだろう。栓ないことだ。


 思考を打ち切り立ち上がる。すっかり書き直してしまった羊皮紙を丸め、丁寧に紐で括る。

 少し早いが昼の祈りを済ませてしまおうと寝室を出て、――人の声を聞いた気がした。

 気のせいだ。すぐさま否定する。王都近郊にあるとはいえ、ここは塀の外に広がる森の中だ。めったなことで人は立ち入らない。やはり気のせいだ。出なければ幻聴だ。聞こえても不思議でないくらい参っているという自覚はある。

 キャロラインはこぼれた自嘲の笑みを掻き消すように、階段に足をかけた。そのとき――ドンドンドンッ! と、階下より扉を叩く荒々しい音がした。気のせいでも、幻聴でもない。それはこの二年、一人の来訪者もなかった塔へ初めての客人が訪ねてきた音だった。


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