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プロローグ 2025.08.20〈完〉


「この娘は畏れ多くも聖女を騙り、卑しくもその恩恵を我が物としたのです」


 玉座の間に反響する声には、強い非難と深い落胆が滲んでいる。長く連れ添った婚約者の罪を暴かねばならない苦々しさと、彼女の罪深さに対する失望で、男の顔からは血の気が引いている。

 男はシュライバス王国の第三王子であった。ユージーン・シュライバス・フェザリア。3兄弟の末であり、名誉ある聖女の婚約者という立場を拝命した。10歳のときである。

 誇らしかった。父にも兄にも敵うものを持たない彼にとって、彼女の存在は絶対の盾となった。しかしそれも今日までである。

 正面の玉座に坐す国王を見据え、両側に控える官僚たちの視線を浴びながら、ユージーンは震える唇を叱咤して言葉を吐いた。


「キャロライン・ミラーは、聖女ではございません」


 聖女キャロライン・ミラーは偽物である。

 信じられない。――信じたくなかった。今この状況にあってなお、信じたくない。しかし、真実である。

 動揺した。焦燥した。落胆した。失望した。絶望した。足元が瓦解する思いだった。しかし真実は揺らがず、故に糾弾は止まらない。


「ご覧ください、この娘の貧しい姿を」


 背後を振り返り、手で示す。

 兵士に両の腕を捕らえられ跪くキャロラインの顔を隠す長い白髪はパサつき、潤いの片鱗も感じられない。婚約が決まったばかりの頃にあった、朝日に照らされた雪原のような美しさは見る影もない。

 上質な絹の衣はサイズがあっていないのか、肩口や腰の辺りで不自然に結ばれている。剥き出しの腕は枯れた枝に似ていた。裸足の爪先は土で汚れ、脚はやはり枯れ枝を思わせる細さである。身に纏う衣が襤褸(ぼろ)であれば、浮浪者と言われても信じたことだろう。

 久し振りに再会した婚約者は、キャロライン・ミラーは、まるで知らない女になってしまっていた。


「この姿が何よりの証拠です。塔に守られる聖女であるのなら、女神さまの加護を授かっているはずです。それがこうも心身を削られているということは、加護は与えられなかったということに他なりません」


 女神はキャロラインを認めていない。


「これは罰なのです。女神さまが、この偽りの聖女を罰しているに違いありません」


 罰、と責めるユージーンの言葉に、キャロラインが肩を震わせた。図星をつかれた。真実を暴かれた。恐怖する。怯える。――そういう反応であった。

 顔には出さず、しかし失望の色は確実に濃くなった。

 キャロラインの嘘、聖女の偽装。本人から告白されたも同然である。


「我々は騙されていたのです。彼女は、国を欺いた」


 陛下、と。大義名分を盾に父を呼ぶ。キャロラインという自信の盾の代替品たる正義を構え、ユージーンは訴える。


「早急に、この女を排するべきです」


 強い言葉を吐いた。

 女神はキャロラインを罰していた。それは彼女が立場を偽って、聖女を冒涜していたからである。しかし女神の怒りは、その矛は、いつシュライバス王国へ向くかわからない。偽物を本物と崇め続ける国にも、いつかは罰が下されるだろう。

 キャロラインが聖女となって十余年。ちょっとした手違いでは許されない月日が過ぎている。それだけの期間、彼女は騙し通した。それだけの時間、彼女は偽り続けた。

 誰一人として暴けなかった嘘、その代償を払う日はいつになるのか。

 今日かもしれない。明日かもしれない。

 対応すべきである。対策すべきである。正義を執行すべきである。

 過ちを正すべきだ。それも、一刻も早く。これは必要なことである。

 国のため、何よりも、民のために。


 事の顛末を黙して聞いていた国王は、我が子の訴えに険しい顔で眉根を寄せた。

 ユージーンは、この父が苦手であった。齢六十を控え、なお枯れぬ大樹のような父である。その灰の双眸はいつまでも曇りない。全てを見透かされている気になる。

 賢王として長く国を支え、民からの信頼も厚い父。ユージーンは、己が偉大な父親の欠片すら受け継ぐことができなかったような気がしてならない。

 その父の双眸が物語る。即決できない。王の心情を察してユージーンもまた、眉間のしわを深くした。しかし何かを口にする前に、カツン、と大理石の床を打つ鋭い音がした。


「なぜですか、お姉さま」


 沈黙を裂いたのは、涙に濡れた女の声だった。広間中の視線が彼女に集中する。

 キャサリン・ミラー。

 ミラー侯爵家の次女であり、キャロラインの実妹である。

 騎士に付き添われ前へ進み出た彼女は、ユージーンの隣で立ち止まった。結い上げた白髪はシャンデリアの光を受け、輝かんばかりに艶めいている。澄んだ青い双眸からはしとどに涙があふれ、頬を伝い、胸の前で組まれた両の手を濡らしていた。

 丁寧に手入れのされた肌は瑞々しく、女性らしく柔らかな曲線を描く肉体は健康的である。姉の罪を糾弾するという場面に立ち会うにあたり、ドレスは華美な装飾を控えたのだろうが、それでもあふれる彼女の美貌を隠すには至らない。

 姉妹とは思えない。二人の間にはそれほどの差があった。痩せ細り枯れ果てた姉と、美しく豊かに実った妹。

 女神の罰。姉妹の姿は広間に集まった者たちに、ユージーンの言葉に重みが加わったような、そんな錯覚を抱かせた。


「聖女はフェザリア王国の要。お姉さまだってご存じのはずです」


 古い時代、暴虐の限りを尽くした魔族の王が、1人の若き英雄によって封じられた。土地は女神により浄化され、魔王の封印を留め、王の帰還を目論む魔族の侵攻を防ぐべく国全体を覆う結界が張られた。

 王国の始まり、その祖である。


「慈悲深く寛大な女神さまは、聖女が捧げる感謝の祈りしかお求めになられませんでした。お姉さまは、そんな尊き優しさを踏み躙っているのですよ」


 天上の存在である女神は、地上に長く留まることはできない。故に神聖な魔力を持つ乙女を自身の代理として指名した。聖女が捧げる感謝の祈りを聞き国の存続を確認し、聖女の魔力を通して土地の状態を把握する。そうして民が健やかに過ごせるよう、瘴気が土地を蝕まないよう、結界を維持しているのだ。


「女神さまの結界がなければ、この国には魔族が押し寄せてくる。お姉さまは、国民が魔族に蹂躙されても構わないとおっしゃるのですか!」


 キャサリンの言葉が空気を震わせた。

 呼応するように、沈黙していた官僚たちからも声があがった。


「聖女が偽りだった……? では、この国はどうなる!?」

「結界は無事なのか!?」

「本物の聖女はどこに……?」


 不安の声が伝播し、ざわめきは次第にキャロラインを責める言葉へと変化していく。


「――魔女」


 誰かの呟きが引き金となった。


「聖女を騙るなど、神への反逆に等しい行為だ!」

「おぞましい……」

「恥を知れ!」


 燃え上がる空気の中、ぴくりとも動かないキャロラインを見遣り、王が重々しく口を開いた。


「キャロラインでないのなら、真なる聖女はどこにいる」


 ――音が消えた。

 静寂に包まれた広間に王の静かな声が低く反響する。


「キャロラインが偽りであると、どう証明するのだ」


 聖女の選定は女神の意思のみによる。代々、聖女の代替わりは神殿の神官長が夢を通じて、女神から直に神託を賜るのだ。歴代の聖女の例に漏れず、キャロラインもまたそうやって選ばれた。女神の意思に従い、聖女の地位を頂戴したはずである。それを偽りだと、ユージーンの告発はつまりそういうことであった。

 神の所業を疑うような、神の間違いを指摘するような。

 許されない。

 聖女という身分を偽ることよりも、あるいは罪深い行為である。

 キャロラインを責める言葉がそのまま、女神への暴言へと姿を変えた。静寂が肌を刺す。こめかみを伝う冷や汗の音すら聞こえるような、痛々しい沈黙が横たわる。


「真なる聖女はおります、陛下」


 ――破ったのは、ユージーンだった。

 聖女の件で、至急に報告すべきことがある。王へそう告げたときにも見られなかった自信をのぞかせる表情で、はっきりと頷いた。


「真なる聖女は、ここにおります」


 彼が手で示したのは、今なお涙を流すキャサリンであった。


「キャサリンこそ、正しき聖女に間違いございません」


 ざわめく。どよめく。

 困惑の声が広間を埋め尽くす。王もまた、険しい表情に驚愕の色を混ぜた。

 わずかに血色のよくなったユージーンが、声高に続ける。


「本来であればあり得なかった聖女の偽装。なし得たのは、キャロラインの魔力の高さに由来します」


 神官長の間違いでなく、女神の誤りでないのなら。であればそれは、キャロラインの策略に他ならない。


「魅了です。キャロラインは禁忌の魔法によって神官長を従わせ、妹が得るはずだった全てを強奪したのです」


 魅了。

 他者を意のままに操る極めて高度な、そして非常に厄介な魔法である。行使できる人間は少なく、また行使することを国は禁じている。

 共にミラー家に生を受けた娘。背格好も同じ。流れる血も同じ。顔立ちも似通っているとあれば、神官長の認識に齟齬を起こすだけでいい。あり得なかった聖女の偽装。なし得たのは、姉妹のすり替えであったから。

 ユージーンの告発が、いよいよ現実味を帯びてきた。先程のこともあってか誰も軽はずみに言葉を吐かない。しかし交わす視線が物語っていた。キャロライン・ミラーは偽りの聖女――魔女である、と。


「お姉さま……」


 小さな、震える声でキャサリンが泣いた。


「もう終わりにしましょう、お姉さま。神罰がお姉さまの魅了を解いたのです。これからはどうか、真実のみを語ってください」


 妹の言葉を受けてなお、キャロラインは何の反応も示さない。


「お姉さま、……なぜですか? どうして……そんなに私のことが憎かったのですか?」


 血を分けた姉からの拒絶ともとれる無反応に耐えられず、遂にキャサリンはその場に泣き崩れた。慌てて伸ばされたユージーンの手が、優しくその背を撫でていく。

 悲壮なすすり泣きだけが、虚しく広間の空気を揺らす。

 ややあって、痛ましく顔を歪めた王が口を開いた。


「キャロライン、何か述べることはあるか」


 返事はない。


「……わかった。キャロライン・ミラーは身柄を拘束。監視をつけ、処遇が決まるまでは幽閉とする」


 処遇が決まるまで。その言葉にユージーンの視線が尖る。しかし口を開くより先に、王が続けた。


「真の聖女だというその者の妹についても、ひとまずは王宮で預かる。処遇の決定は、少し待て」


 即決はできない。王の言葉に、そばに控えていた宰相がおずおずと声をあげた。


「陛下、それでは聖女の席が空位になりますが……」

「やむを得まい」

「しかし――」

「国が擁する聖女に間違いがあったなどと、容易く公表できるはずがなかろう。第三王子の婚約者として、キャロラインは公の場にも出ているのだぞ」

「……」

「早計な判断はできぬ。魅了の魔法が引き起こした事態であるというのなら、その真偽から確認せねばならん」


 時間が要るのだ。

 王の声に滲む焦燥を、集まった官僚たちも肌で感じ取った。余裕はない。しかし焦って事を進めるのは危険である。

 時間が要る。誰も反論できなかった。

 国の威信にかかわる事態である。魅了という禁忌によって、国が丸ごと騙されていた。国内に留まらず、外にも漏らせぬ醜聞である。


「ユージーン、娘を連れて下がれ」

「陛下――」

「下がれ」


 有無を言わせない圧に、ユージーンは渋々と頷いた。顔を覆ってしまったキャサリンを立たせ、その肩を抱き広間を出る。

 ゆっくりと閉まる扉の向こうでは、断罪された魔女が変わらぬ姿勢で跪いていた。


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