5. ずっと会いたかった人
『はい、私がアリスですけど……』
彼女が、あのアリスだと知った時、心拍数が上がった。それでいて変な鼓動に戸惑った。
ずっと、似ているとは思っていた。風に揺れるふわふわとした薄茶色の髪。なにもかも見透かしているかのような、空を映した色の瞳。小さいのに巨漢のような存在感があって、落ち着いているのに淑やかな雰囲気ではなくて。どこか懐かしい。
昔、まだ少年とも言えた頃に、ばあやに聞いた通りだった。
*
グランウィル侯爵家は建国時から存在する名家であり、公爵家のない現在において、王家、辺境伯に継ぐ権力を持つ。当主である父はとにかく厳しく、母もまた淑女の鏡のような人だった。使用人は物音一つ立てないように気をつけ、俺もまた赤子の時でさえほとんど泣かなかったらしい。喋り始めるのも随分遅く、とうとう乳母は俺の声を聞かないまま屋敷を去ったのだとか。
そんな常に静寂に包まれていた屋敷の中で、唯一大声を張ることのできる人がいた。
「坊ちゃん! そんな家の中にばかりいると、きのこになりますよ!」
ブランシェット夫人。白髪をきっちりまとめ、勝気な雰囲気の、子守りのばあや。乳母の代わりにやってきた人。
家の中にいるのは勉学に励んでいるからで、午前中は剣術の鍛錬もしていた。だからきのこには
「……ならない」
ただそう返すと、ばあやは大きなため息をついた。ばあやは子爵家の前当主の妻で、権力があるわけでもない。どうしてばあやだけ許されるのか、本当に謎だった。
「明日からまた学園でしょう。今日は腕によりをかけてスコーンを作って差し上げますよ」
「……ああ」
中央貴族は十三から、地方貴族でも十六から通う学園は、正直苦痛だった。
「グランウィル侯爵令息」
「お側に置いていただければ、役に立って見せます」
「あの、次の舞踏会はよろしければ……」
侯爵家の嫡子である立場だけを見て、媚びへつらい、色目を使って擦り寄ってくる。
学園につくと、ロッカーに泥がついている。私物がよく無くなり、帰りには出てくる。その度に、誰かが出てきて後始末をし、手柄のように見せつけてくる。鞄には謎の瓶や食べ物が入っていて、中身が媚薬なことは容易に想像できた。
誰が犯人か、なんとなく予想はついていても、彼らは自分より下の位の貴族令息を使っていて、捕まえることも、警告することもできない。
痛かった。怖かった。辛かった。
「……」
しかし強制的にやらされていた彼らは、きっと降格になるだろう。やらせていた者たちは、少しお咎めを受けるくらいだろう。父は、母はなんて言うだろうか。そんなようでどうする、家名に泥を塗るなと怒るだろうか。
俺が我慢すれば、誰も傷つかない。俺も、これ以上に傷つかない。
「坊ちゃん、何か話すことがあるんじゃないですか?」
「何もない」
「嘘おっしゃい! 学園から帰ってくるたびにそんな暗い顔して!」
「何もないと、言っているっ!」
初めて声を荒げた。咄嗟に口に手を当てても、もう遅い。恐る恐る父の執務室の方を見た。聞こえなかったようで、何もない。あからさまにホッとする俺を見て、ばあやは問い詰めるのを諦めたようだった。
「……そう。じゃ、私の話を聞いてくれますね?」
ばあやには、アリスという孫娘がいるらしかった。俺よりも六歳下の彼女は、現在七歳。目に入れても痛くないほど可愛くて、おてんばで、ばあやでも手を焼く存在らしい。
ばあやは俺が学園から帰ると、必ず紅茶を淹れて、俺の好物のスコーンを用意した。そうして、ガゼポでアリスの話を聞かせてくれた。
「あんまりにも可愛いものだから、山で育てているんですよ」
「山……?」
可愛いだけでは生きていけないのだという厳しい環境。そんな山小屋での自給自足の生活。川で顔を洗い、仕掛けた罠に獲物がかかってないか確認し、絞めて毛を抜いて捌いて喰らうこと。火を起こし、薪を割り、採集に出かけた時の野生動物との戦いや、たまに屋敷に帰った時の王太子殿下との対峙など。
アリスは、童話の中のヒーローのようだった。孫の贔屓目で、多少脚色はあったかもしれない。それでも、強く正しく逞しくて、かっこよかった。
いじめはずっと続いた。でも、アリスならどうするだろう。学園から帰ればアリスの話が聞けるのだから。そう考えれば、頑張れた。
「坊ちゃんは優しいですね。なんだか、あの人みたい」
「優しくなんてない」
純粋に、彼らや彼らの周りの人たちを想えればよかった。だが、俺は、父や母に失望されることを恐れて、言えていないところもあるから。
「坊ちゃんのそれは強さであり美徳でもありますけどね、無理はなさらないように」
ばあやはシワだらけの手で俺の頭をくしゃくしゃに撫でる。
「坊ちゃんももう学園に入られて一年が経ちますし、子守のばあやの役目は終わり。簡単にいうと契約が切れるわけです」
それは、い
「なくなるのか」
「まだ死にませんよ。坊ちゃん、言葉が足りません」
「?」
「いつか、坊ちゃんにアリスを会わせてみたいものですね」
……それから八年後、ばあやの訃報を手紙で知った。
*
ばあや、今日実際に会ったんだ。ばあやの言った通り可愛くて、強く正しく逞しかった。思わず友達になって欲しいって言ったら、裏山に招待してくれた。あの、何度も話に出てきた裏山にだ。
「っはは」




