10. 謎な人
つらい。怖い。寂しい。どうして。なんで。怒ってしまった。どうすればよかった。傷つけてしまった。傷つけたくなかった。俺は侯爵家の人間だ。ノブレス・オブリージュ。グランウィル家に相応しい行動を……。
『私がきたから、もう大丈夫』
過去と今の感情に囚われて、ぐちゃぐちゃになっていた中、あの中庭の茂みでそう言われた時、救われたと思った。もう随分と経つのに、あの頃の冷たい気持ちがふわっと昇華された気がした。
アリスは眩しい人だ。ふわりと軽くて、軸があって、なんだかキラキラしている。
『ぺっ……ぺっぺっ!! まずぃ』
ある時は鶏の飼料を撒きながら、自分で食べてみて吐き出していた。なんでも、主人の威厳を見せてやろうと思ったとのことだった。主人は使用人の飯を食わないのではと聞いたら、確かにと一人頷いていた。そして鶏を抱きかかえて、丸々太って美味しいご飯になれと声をかけていた。
『よし!』
学園に用事がある時、なんとなく目で追っていた。年を重ねた教員のカツラが強風で落ちた時、迷いもなく拾い、まるでブーメランのようにカツラを投げ、綺麗に頭に乗ったら拳を握りしめて喜んでいた。
そんな様子を職員棟の最上階から見ていたら、グラウンドにいたアリスが視線を感じたようにこちらを見た時はその鋭さに驚いた。
『お金があるなら拾うのが人間というものでしょう』
王都では湖に投げ込まれた硬貨を迷わず拾おうとする。迷子の子供に遭遇した時には大声で叫ぶか、屋根の上に登って探せば早いと謎の助言をしていた。真似しては危険だと子供を肩車してやると、少し笑った。侯爵が見ず知らずの子を肩車する様子がおかしかったのかもしれない。だが、俺からすればアリスの方がおかしい。
これでいて自分は常識人だと思っているのだから、可愛らしい。
どこにいてもアリスはアリスで、自分のやりたいことをする。だが他人の迷惑にはならないように、大切にしたい人のことも考えている。
一度、アリスが学園に通っている間にブランシェット子爵が訪ねてきたことがあった。
『アリスは今、見合いの話が多くきておりまして……』
『嫌なのか?』
『アリスが、また嫌な思いをするかも知れないので』
『断ることはできないのか』
『母の世代に陞爵し、子爵になったばかりの我が家は、上の身分の方からの申し出を断れません』
子爵は確かに、アリスに結婚相手を持って欲しいようではあった。だが、アリスを傷つけるような者しかいないのならば、家に置くつもりだとも言っていた。その上で、自分でいいと思った人をアリスは断るのだと。弱ったような顔だった。
『(幸い、俺はアリス嬢からいつ来てもいいと言われている。) 俺がいる(からと言って断ればいい) 』
『えっ……その、よろしくお願いします?』
子爵はなぜか頬を赤く染めて帰っていった。俺は仕事を詰めて、毎週末のようにアリスの元へ行くようになった。
アリスは本当は今以上にやらかす人なのだと思う。今思えば、学園のいじめだってその時に対処できたはずだ。でも、しなかった。
『アリスは、強いな』
そんなアリスが、俺の光だ。俺のヒーローだ。アリスが俺を救ってくれたように、少しでも俺もアリスの助けになりたい。
なのに最近、その人に避けられている。
謎に目が合わないことが多いのは最初からだが、それでもここまでじゃなかった。山に行ってもこっちを見てくれないし、学園でばったり会っても脱兎の如く逃げていく。一週間、二週間ときて、門前払いされかけた時、つい手を掴んでしまった。一番尊敬する人に避けられるというのは心にくるものだと知った。
「……俺は何かしてしまっただろうか」
自分でも弱々しかったと思う。アリスはパクパクと口を開けては閉じて、目をぎゅっと瞑った。
「は、恥ずかしいんですよ!!」
何故。思いもよらない言葉に驚く。アリスに恥ずかしいと思う心なんてあったのか。意外だ。でもそんなところも魅力的だ。
「口に出てないからわからないのでしょうけども、可愛いとかかっこいいとか、そんな気軽に言うことじゃないんです!」
ギャン! と吠えるように言う。顔は真っ赤で、目が少しうるんでいる。なんだかとても、
「かわいい」
言ってしまったと思っても、もう遅い。アリスは頬を膨らませ、こちらを睨みつける。身長差も相まって、上目遣いのようになり、これもどうにも……
「かわいい」
アリスはムキーと怒った。その様子もまた可愛らしかった。
しばらくするとアリスは諦めた様子で、もう知らない、とだけ言った。知らない、とは?




