第七五話「幕間:レーネの見た地獄(後編)」
「……なに、これ…………」
村に帰り着いた私の発した第一声はそれでした。
不気味な静けさに包まれた村には、人っ子一人居なかったのです。所々に落ちている穴の空いた血塗れの服が、物事の異常を物語っていました。
そして人はおろか、狩りに連れて行くこともある飼い犬なども、血の付いた地面の上に首輪を遺して消えていました。まるで、その身体だけが何処かへ消え去ったかのように。
「誰か……誰か、居ないの!?」
私は今まで発したことの無いような必死の叫び声を上げながら駆けました。でも、私の声に応える人は誰一人居ません。
「お父さんとお母さんは……!」
嫌いでも、一応は自分を育ててくれた両親のことが気になり、村の出口からほど近い自宅へと駆け込みました。
でも、そこにはやっぱり誰の姿も無く。争ったような形跡のあるリビングと、そしてこちらも穴の空いた二着の服が落ちているだけ。
「みんな……、みんな、何処へ消えたの? 確かに私はこの村が嫌いだったけど、いきなり居なくなったりしなくてもいいじゃない! 私だって、歩み寄ろうかと考えたとこだったのに!」
握り締めた拳と声を震わせ、私は絶望に涙を流していました。
へとへとになりながら、これからどうしようかと村の中央へ向かった時。私はそこで、やっと人の姿を発見することが出来ました。
でも――その人は、この村に居る筈の無いエルフだったのです。
「えっ…………?」
後ろ姿でしたが、私と同じ萌葱色のセミロングを揺らす一人のエルフ。それは見まごうことも無い。私の姉、エメラダでした。村を出た筈だったのに、何故戻ってきたのか――という疑問が当然私の中に生まれた訳ですが、状況と照らし合わせて、彼女が村人たちを消したのだと瞬時に確信しました。
姉は村の中央広場に小さなテーブルを設置し、その上に金色のオーブを載せた妙な意匠の台座を鎮座させ、何やら両手を翳していました。
そう、それは――私たちがカッテル村で見た、あれでした。
ただ一つ違うことは、そのオーブは猛烈な勢いで沢山の小さな光の珠をその中に吸い込んでいたのです。
「…………その声は、レーネ?」
少しだけ顔をこちらに振り向き上げた声は、間違い無く姉の声でした。
でも、何処か……昔とは違う、冷たさを孕んだ声。この村で私を唯一味方してくれた時の声であるとは言い難い声でした。
「お姉……ちゃん、何、してるの……?」
掠れた声で私がそう尋ねると、姉はようやく振り返り、この場に似つかわしくない微笑みを見せました。余りにも場の空気と異なる優しい笑みに、私は狂気を感じたものです。
「ああ、レーネ、お帰りなさい。お姉ちゃんはようやく見つけたのよ」
何を、と続けたかった私の声は、口を開け閉めするだけで実際に発せられませんでした。狂気に当てられ、膝を震わせていたのですから。
「私たちのような弱者を救済してくれる、神様を見つけたの。アブネラ様のお陰で、レーネを虐めていた人たちは、もう居ない」
その神様とやらのお話は、私も聞いたことがありました。旧神と呼ばれる前世代の神々を滅ぼした邪神アブネラ。その邪神を奉ずることを禁ずるルールは、この村にもあったのですから。
そして、姉はエルフとしては珍しくも光の神シグムントの神官でした。そんな彼女を何がそうさせたのか、と、その時の私は頭の中がぐちゃぐちゃで立っていることがやっとでした。
「それじゃ、お姉ちゃんは、邪神の僕に、なったの……?」
私がぽつりぽつりと言葉を絞り出したことから、恐怖していたことが分かったのでしょう。姉は狂気の優しい微笑みを貼り付けたまま私へ近付き、抱き締めてくれました。
でも、その抱擁が酷く冷たかったのを覚えています。
「ええ、ええ、強者だけが救いを得られる神々の僕はもう沢山。神は救ってくれない。邪神アブネラ様こそが弱者への救済を与えてくれるのよ」
姉は心底可笑しそうにそう語りました。私と同じく、彼女も神官というだけで村人から奇異の目で見られたものです。
でも、それが邪神への信奉を始めた理由でないことは、今なら分かります。ここに至るまで、姉の人生に何かがあったのでしょう。
姉は呆然としている私の耳に口を寄せ、囁いたのです。
「貴女も、弱者として虐げられていたでしょう? お姉ちゃんと一緒に来なさい」
「お姉ちゃんと……」
それは、邪神アブネラを奉ずる邪教徒として生きろ、という誘いでした。
正直、他人とのコミュニケーションに難がある私には甘い誘いに思えて、その時は首を縦に振るか逡巡しました。
「そこまでだ! その子を離せ、邪教徒よ!」
でも、そこに現れたのです。あの名も知らぬ錬金術師さんが。
彼は声こそ震えていましたが、両手に幾つかの薬瓶を持ち、構えていました。何故命を懸けてまで私などを助けに来たのか、今では分かりませんが。
「……何よ、貴方。既に村人がアブネラ様の元へ召されたからと言って、勝手に村に入ってこないで頂戴」
「五月蠅い! 彼女は弱者なんかじゃない! きちんと、自分の在り方を見つめられる子――」
「あっ…………」
と、私が声を発するよりも早く。
錬金術師さんの胸は、背後の地中から現れた金色の触手に、貫かれていました。
「まったく、盗み聞きまでしていたなんて失礼よ。ねえ、レーネ?」
どういった原理か分かりませんが、消え行く錬金術師さんの身体などには目をくれることもなく、姉は少し身体を離し、私にあの微笑みを見せました。
「…………なんで、殺したの?」
「だって、あの男はアブネラ様を理解しようとしなかったもの。それはつまり、弱者を理解しないって事だわ」
震える私の声が、恐れていると思っていたのでしょう。余りにも傲慢な態度に、私は怒っていたのに。
「お姉ちゃん、嫌い」
「なっ…………!?」
私は姉の身体を突き飛ばし、彼女にとっては痛恨の言葉を繰り出しました。
その錬金術師さんとは短い付き合いではありましたが、私を理解してくれた人でした。だからこそ、邪神に縋った挙句に彼を殺し、弱者を騙る姉のことが許せなかったのです。
「お姉ちゃん、嫌い。お姉ちゃんよりあの人の方が、私を理解してくれたもの」
「そ、そんなことは……!」
まさか自分を慕っていた妹に断られると思っていなかったのかも知れません。姉は縋るように私へ弁解の言葉を並べようとしたのでしょう。
だけど、私は姉を許しませんでした。
「――だから、消えて。二度と私の前に、顔を見せないで」
次回は明日の21:37に投稿いたします!