第七二話「俺には何も答えられなかった」
目を開くと、そこには目を閉じたレーネの顔。彼女からは口移しで何かが流し込まれており、俺は為すがままにその液体を飲み込んでいた。
って、あれ? 背中の傷口から感じていたあの衝撃が無くなっている。
まさか……今のは薬、それも即効性の、魔晶の解毒剤だったというのか。何時の間に創っていたのか。
薬を流し終え、口を離したレーネは目を開ける。光の戻ったその瞳はすぐにアデリナが居るであろう俺の背後へ向けられた。まだ傷口は痛むが、俺も立ち上がって振り返る。
「レーネ様……まさか、魔晶の解毒剤を創ったというのですか!」
「その通りですよ。……しかし、その口ぶりからすると、貴女は姉と関係があるようですね、アデリナ」
狼狽えるアデリナを、もう完全に意識が戻ったらしいレーネが険しい表情で追及する。先程アデリナが言っていたことと総合すると、レーネの姉がアデリナに指示を出していたことになるんだろうな。
「レーネ、ありがとう。もう駄目かと思った」
「いえ……、元はと言えば、私が招いた窮地ですから。ごめんなさい」
先程のオーブの事だろうか。いきなりレーネの意識が覚醒したところを見ると、恐らくアレが彼女をアデリナの傀儡に変える役割を担っていたのだろう。
「さて、状況は変わって二対一だぞ。どうする?」
俺は落ちていた短剣を拾い直し、アデリナに向けて構えた。更に伏兵が居る可能性だって捨て切れはしないが、もう油断はしない。
アデリナは忌々しそうに舌打ちすると、その身を翻した。逃げる気か。だが素直にそうさせるものか。
俺たちは逃げるアデリナを追い、駆け出す。背中が痛むが構わない。
「って、えっ?」
角を曲がったところで、アデリナを追っていた筈が目の前に壁が現れ、俺はたたらを踏んだ。気配はあるが、何処に消えた!
「リュージさん! 幻惑です!」
「カッテル村のアレか! くそっ!」
レーネの指摘で気付いた俺もすぐに〈解呪の魔石〉を発動させ、幻惑を解いた。が、既にアデリナの姿は無く、曲がり角の先では港を見つめる人々の姿があった。
「逃がしたか……」
既に港からあの金色の触手は消えている。しかし、船は舳先をもがれて無惨な姿を晒していた。とんだ式典になっちまったな。
「取り敢えず、ライヒナー候に伝えられる範囲の事情を話してから家に戻るか。……それに、レーネには聞きたいこともある」
「はい……」
流石に追及しない訳にもいかない。レーネは力無く耳を垂れ下げ、頷いたのだった。
ライヒナー候には「港を狙っていた邪術師を追ったが、逃げられた」という報告をしておいた。ご丁寧に全ての事情を話してしまうと、俺たちの責任ということになりかねないからだ。
……いや、確かに狙われていたのは俺だしレーネは操られていたので責任の一端は俺たちにあるのだが、覚えの無い恨みのようなもので人生を棒に振りたく無い。上手く立ち回らねば。
「アデリナは、結構前から私の前に姿を現していたんです」
俺と共に自宅への道を歩きながら、レーネはぽつぽつと事情を語り始めた。陽は既に大きく傾いており、憂える彼女の顔を紅く照らしている。
「最初は、カッテル村から帰った翌日。リュージさんがベルを弟子に採って、それに私が嫉妬していた時です」
「…………嫉妬?」
レーネの口から余りに予想外な言葉が飛び出して、俺は鸚鵡返しをしてしまった。いつも温和な彼女にそんな感情があったなどとは思いもしていなかったからである。
「そうです、嫉妬。私はベルに、リュージさんとの二人の時間を邪魔されたく無かったんです。その感情をアデリナに付け込まれました」
「それは――」
いや、今は言うまい。今はアデリナのことだ。
「私が一人で家の外に出る度、アデリナは姿を現しました。そして段々と私の意識は朧気になっていったんです。恐らく、人心を掌握する何かの術を掛けられていたのではないかと」
「それで、最近は心ここに在らずといった様子だったのか」
「周りからはそう見えていたんでしょうね。それで、アデリナはオーブを持ち出すように言いました。それが私を動かす最後の鍵だったのでしょう。カッテル村の人々が虚ろな瞳をしていたのも、あのオーブで結界を張っていたから、でしょうね」
そういうことか。オーブはもう一つ残っていた筈だ。そいつも砕いてしまうのが吉、なんだろう。
大きく息を吐いたレーネは、立ち止まり、俺の顔を真っ直ぐ見上げた。夕陽は潤んだ彼女の瞳を輝かせている。
「……アデリナの事を黙っていてごめんなさい、リュージさん。どうしても、言えなかったんです。言いたく、なかったんです」
「……それは――」
それは、さっき言ってたレーネの嫉妬と関係があるのか?
それを隠すため、だったのか?
そう聞きたかったが、俺の口は上手く動かなかった。聞いてしまえば、その嫉妬の原因に踏み込んでしまいかねないからだ。
レーネは困ったような笑みを浮かべていた。まるで俺の想いを見透かしているかのように。
「リュージさん、意外と臆病なんですね」
「……何のことだ」
俺の口からはあくまでしらばっくれる台詞が自然と飛び出していた。この話を早く終わらせたいが為に。
そうだ、俺なんかを――そんなのは、駄目なんだ。
「ではリュージさん、私からはっきり言いますね。私はリュージさんのこと、好きなんです」
夕陽は紅い色を増し、色白のエルフを鮮やかに染めている。何処か吹っ切れたようなレーネの表情は、先程の困ったような表情でも無ければ、笑っても居ない。でも、だからこそそんな自然体の彼女を、正直、美しいと思ってしまった。
「…………そうか」
レーネの告白にも、俺はそう返すことしか出来なかったのだった。
次回は明日の21:37に投稿いたします!