プロローグ
温めていた話をようやく形にできました。読んでいただけたら幸いです。
その建物は、『戻らずの城』と呼ばれていた。
一年のほとんどが固く冷たい雪で閉ざされる、キルシュ王国。
大陸北東部に位置するその国の中でもさらに最北端に位置するその城は、非道く陰鬱な建物だった。鉄製の城門は所々がさび付き、巨大で見るからに頑丈そうなかんぬきで固く閉ざされている。周りに這わせた堀は寒さに寄って所々が凍り付き、また氷が張っていないところも汚泥のようなものがたまっている。それらの背後にそびえる城は、三つの尖塔を抱く堅牢な石造りで、所々石が崩れていた。壁面に絡まるツタは寒さで茶色く枯れ果て、時々雪の上に力なく落ちる。すっかり朽ち果てた廃墟のようなその城には烏ですら近寄らず、また、周囲の雪が音を吸い込んで消していくので恐ろしいほどに静まり返っていた。常識的なキルシュの民であれば決して近づこうとはしないその城には、見た目以上に恐ろしい話が存在している。
曰く__その城には、暖かさを忌むバケモノがいるのだと。
城がある雪原の側に、ネージェという小さな町がある。ガラス細工が特産で、多くのガラス職人が暮らしているその町には、そのバケモノの噂話や伝承が数多く残されている。バケモノは巨大な竜の姿をしている、だとか、世にも恐ろしい魔物の姿をしている、だとか、夜な夜な子供を攫っては鍋でぐつぐつ煮込んで食べてしまうのだ、というものまで様々だ。
だが、どれも信憑性が薄いその話の中には一つだけ、キルシュの民であれば子供でも知っているような有名な話がある。
それは、キルシュ王国を建国し、初代女王として国の礎を築き上げた聖女に関する話だ。
彼女にまつわる伝説や伝承は数多あるが、その中で最も有名なのがこの戻らずの城に住まうバケモノとの戦いの話__彼女の最期の話である。
話の内容はこうだ。
かつて美しい四季があったキルシュ王国。そこに、あるとき暖かさを忌み嫌うバケモノが現れた。バケモノは春を喰らい、夏を飲み込み、秋をなぎ倒し、そしてキルシュに冬をもたらした。人々は寒さと飢えに苦しみ、聖女に助けを求めた。聖女はそれに応じ、キルシュの最果てにあった城に巣くうバケモノを退治するために出陣する。
しかし、優秀な剣士でもあった聖女もバケモノの強大な力には及ばず、彼女は紙一重でバケモノに敗れ、その命を散らしてしまう。
聖女は二度と戻らず、嘆き悲しむ国民だったが、そのうちの一人がふと気が雪の中に咲いている一輪の白い花を見つけた。
不思議なことにその花の周りには雪はなかった。______溶けていたのだ。
人々はその不思議な白い花を聖女の生まれ変わりであると信じて大切に育てた。花は徐々に数を増やし、辺りの雪をどんどん溶かし、ついには国に春をもたらした。
以降、その花は春を告げる花として時々咲いては咲いた地域に春をもたらすようになった。
聖女の祈りと尊い犠牲によって僅かな春を手に入れた国民は、以前よりもずっと春を愛し、そして聖女を奪ったバケモノと、そのバケモノが好む冬を忌むようになった。
だから、バケモノに冬など怖くない、と見せつけるためにキルシュでは暖を取るための器具を作る技術が発展していったのだ___
寝物語として、教材として、様々に利用されるこの物語にあるように、今から500年前のある日、聖女は唐突にその姿を消したとされている。
その理由は実のところ定かではないのだが、陰鬱な城が戻らずの城と呼ばれるようになったのはその話が原因だ。
聖女ですら戻ってくることが出来なかった恐ろしい城。
その城の少し手前に今、一台の馬車が停まっている。それは、立派な荷台がついた大きな馬車で、その荷台からは次々と巨大な麻袋が下ろされていた。荷台から雪原に麻袋を下ろす作業をしている男達の表情は非道くおびえていて、一刻も早くこの城から離れたい、という思いがその雑な作業からも伝わってくる。
麻袋を全て下ろし終えた男達は、最期に荷台から一人の人間を落とした。下ろす、ではない。まるで、ごみをくずかごに放り投げるような粗雑さで、男達は冷たい雪原に一人の人間を投げ捨てた。
そして、それも終わると城や先ほど下ろした荷物、そして放り投げた人間には目もくれずに馬にむち打ち、すぐさま馬車を出発させ、一度も振り返ることなく吹雪いてきた雪原の奥へと消えていった。
真っ白な雪原には、大きな麻袋が5つと、一人の人間だけが残された。人間は、その小柄な身体に美しく豪華な衣服と装飾品を身につけていた。しかし、後ろ手に回された両手と投げ出された両足には鉄で出来た頑丈な枷がはまっている。氷点下の気温の中無造作に放り投げられた人間はもはや動くことすら出来ないようだった。
そんな人間にも、無慈悲な雪は容赦なく降りかかる。
♢ ♢ ♢
静まり返った雪原。何もかもを飲み込むかのような一面の白の中で___不意に、空気がゆらりと揺らめいた。
微かに揺らいだ空気。その向こうから、まるで紅茶に砂糖が溶け出すかのように現れたのは、例えるとしたら夜のような青年だった。
夜空のような青みがかった深い黒色の髪に、奇妙なまでに整った顔。一見すればただ美しいと表されるのであろうその青年の異常性を表すのは、こめかみ付近に存在する角だ。雄羊の角のように渦を巻く大きなそれは、黒光りしながらその頭にしっかりとついていた。黒に彩られた衣装を身に纏ったその青年は、全ての色素が塗りつぶされたようなその姿の中で唯一異色である夕焼け色の双眸で、自分の足下に転がる5つの麻袋と、一人の人間をじっと見下ろす。数秒が過ぎた時、いっそ冷たいほどに美しいその顔の夕闇が、ふっと閉じられる。形の良い唇が、小さく動いた。
「_______」
小さな小さな、吐息のようなその声は、全てを飲み込む雪の中にしみこんで、意味を作る前に消えていった。