夕暮れシアター
仕事帰りに映画館に行ってみようと思ったのは、ただの偶然だった。なんとなくまっすぐ家に帰りたくなくて、いつもは右に曲がる道を反対方向に曲がってしまったことがその始まり。
家に帰ってしまえば、明日の朝なんてあっという間にやってくる。何をしているわけでもないのに、ぼんやりしているだけで時間なんてすぐに過ぎてしまう。
今日はなぜだか、それがたまらなく嫌だった。
少し赤く腫れぼったい目を擦りながら、目的地もなく車を走らせる。やがて見えてきたのは大きな看板とそれを照らすまばゆい光。この田舎ではかなり大きな部類に属するショッピングモールだ。そして、数少ない娯楽施設といっても良い。ボーリング、カラオケ、ゲームセンター、映画館、それにホームセンターやスーパー、様々な専門店が複合されていて、平日、休日を問わず多くの人が訪れる。
私は普段、このショッピングモールを買い物くらいにしか利用しない。しかし、その建物を見た瞬間、なぜか私の中には映画を見たいなという気持ちが沸き上がってきていた。
こうして私は、引き寄せられるように映画館に向かったのだった。
ショッピングモールに入ると、中は閑散としていた。
この時間にもなると専門店街は閉まってる店ばかりで、まともに営業しているのは映画館とカラオケ、ボーリングくらいだ。いつもは賑やかなこの場所がこんなに静まり返っているのを見るのは初めてで、不思議な気持ちになる。
なんだか、別世界に迷い込んでしまったみたいだ。
少し落ち着かない気持ちに駆られながらも、案内板を見ながら映画館の方に向かう。未だにこの建物は広すぎて、どこに何があるのかすぐに分からなくなる。人が全然いないこともあってうっかり立ち入り禁止の場所に迷い込んでしまいそうだ。私は覚束ない足取りで映画館を目指す。シネマはこちら、と書かれた看板に沿ってエスカレータを登ると、徐々に独特の香りが漂ってきた。
キャラメルポップコーンの、甘くて芳ばしい香り。この匂いを嗅いだら、ほとんどの人は映画館の匂い、と称するだろう。実は私は今まで一度も映画館でポップコーンを食べたことがないのだが、それでもこの匂いを嗅ぐと真っ先に映画館を連想する。それだけ、この匂いのもつ印象は強烈なのかもしれない。
徐々に濃くなってくる映画館の香りと共に、エスカレーターが終点に辿り着く。
ずらりとポスターが並んだ通りを抜けて映画館に足を踏み入れると、先ほどまでの閑散とした光景からは打って変わって多くの人がいた。
平日の夜に映画を見ようとする人がこんなにいることに、私は驚く。私にとって映画とは、休日に友達と一緒に見に行くものだ。出掛けたついでに話題の作品を見てみる、みたいな。そもそも、私はさほど頻繁に映画を見るほうではない。見たいなあ、と思うものがあっても、持ち前の出不精を発揮して気がつくと公開が終わってしまっている、なんてことが多かった。特に最近なんて、日々の忙しさに追いやられて映画を見ようと思う余裕もなく、今何の映画をやっているのかすら全くわからない状態だった。
前情報が何もないので、今から上映する映画の中からタイトルと雰囲気で見る映画を選ぶことにした。いつもは話題になっている作品や、本当に気になる作品しか見ない私にとって、これはちょっとした冒険だった。楽しみと不安が入り混じったような心持ちで、券売機に向かう。
券売機の操作も、あまり使わないだけあってひどく覚束ない。空席ばかりの中からようやく席を決め、次の画面に映ったところで、思わず私の手が止まった。
画面に表示されているのは、チケットの種類。一般、学生、その他の中から、何も考えず学生を選択しそうになって、学生料金が使えないことに初めて気がついた。
よく考えてみると、物心ついてから私が学生という身分でないのは、この数か月が初めてだった。小学校、中学校、高校、大学の十数年間の間、私は当たり前のように学生だった。この数か月は、今までの生きてきた毎日とは、身分からして違うものだということを改めて感じる。
今までは当たり前のように受けていた、学割という恩恵。これが、失って初めて分かるありがたさというものか、と寂寥の念に駆られながらも、私は財布から1900円を取り出す。
学生の料金は、1600円。この300円の差が、これまでの人生と、これからの人生の違いらしい。
それが高いのか、安いのか。私にはよく分からなかった。
シアターに入ると、私以外に人の気配は皆無だった。外にはそう少なくない数の人がいたというのに、不思議なものだ。私は自分の席番を探して座る。
さほど広くもないシアターだが、こうして一人でいるとものすごく広く感じる。高さも横幅もほぼ真ん中の席を選んだので、私は空っぽのシアターの中央に、一人座っている。
なんだか、まるでこの場所の王様みたいになった気分だった。思わず足を組んで、両腕を手すりに乗せてふんぞり返ってみる。こんなことができるなんて、夜の映画館はすごいぞ、なんてバカなことを思っていたところで、入り口の方から聞こえてきた足音に慌てて姿勢を正す。
足音と共に現れた記念すべき一人目の仲間は、メガネをかけた長髪の女性だった。年代は同じか、少し上くらいだろうか。手にはパンフレットを持っていて、かなりこの作品に期待しているのが伺える。
彼女は、サクサクと手慣れた様子で席を探していく。そのまま私のすぐ近くまで来ると、なんと私の二つ隣の席に座った。
この広いシアターの中で、たった二人きり。それなのに、こんなに近くに座るとは。
私は驚いたが、彼女も同じように先客の存在に驚いたようだ。驚いた表情のままお互い目が合ってしまって、ぎこちなく会釈をする。
こういったときに、気の利く会話の一つでもできれば、人間関係の輪は広がるのだろうか。私には無理だなあ、と改めて思う。会釈しただけで、自分の顔が少し火照っているのを感じる。ここからさらに会話だなんて、できそうもない。彼女も面識のない人に積極的に話しかけるようなタイプではないらしく、荷物を降ろすと小脇に抱えていたパンフレットに目を落としていた。
再び正面に視線を戻すと、隣の女性が入ってきたのを皮切りに、段々と人が増えてきた。とはいえ、全員を数えても両手で足りる程度。ぽつり、ぽつりと各々の席に座り、席にまばらな模様ができる。
人が多いときはあまり気にしないが、これだけ人数が少ないと、ついどんな人がいるのか伺ってしまう。というより、あまりに早く席に着きすぎたせいで、正直もう手持ち無沙汰だった。
私の二つ前の席に、三十代くらいのカップルがポップコーンと飲み物をきっちり準備して席に着く。キャラメルの良い匂いが漂ってきて、私のお腹がぐう、と鳴った。
そういえば、仕事が終わってから今まで、何も食べていなかった。静かなシアター内にその音が響きそうになって、慌ててお腹を押さえる。何か食べ物を買ってくれば良かったと思いつつも、自分にはそれができないことも分かっていた。
映画館の食べ物は、高い。
コンビニならもっと安く同じものが食べられる。スーパーなら尚更だ。いっそ自分で作ってしまった方がもっと安い。そんなことを考えてしまって、どうしてもこういったところで財布の紐を緩められないのだ。お祭りとか、ライブとか、そういった非日常の場ですら、つい金額を気にして出し渋ってしまう。こういうところで妙にケチくさいのが、私の悪いところなんだろう。お金なんて使うためにあるはずなのに。
左斜め前に座ろうとしている大学生らしき女の子の二人組に、「学割を当たり前だと思うなかれ」と心の中で念を送る。その恩恵を受けられることを、今のうちは幸福に思うが良い。きゃあきゃあと楽しそうに盛り上がっている二人を前に、差額の300円があればチュロスでも買えたのになあ、なんて恨めしく思いながら。でも、多分私は買わないだろう。別に、特別チュロスが食べたいわけでもない。
そういえば、大学時代から私はこんな感じだった。
真面目に勉強して、レポートを提出して、課題をやって、研究をして。でもそれだけで。特別学びたいことも、やりたいことも、あったわけじゃない。ただ与えられるものをこなしていた。それが、私のやるべきことだと言われたから。
仕事でお金を稼いで、それを好きなことに使っている友達。
好きなことを仕事にして、仕事そのものを楽しんでいる友達。
私はいったい、何がしたかったんだろう。
ようやく上映の時間になったらしく、徐々にシアターが暗くなり始めた。私は慌てて手に持っていたスマホの電源を切り、明るくなるスクリーンに視線を移す。
最初に始まるのは、これから公開する映画のCM。どれも普段は見ようとも思わない作品ばかりだが、この大画面と大音量の迫力で見ていると、流れてくる映画全部が面白そうに見えてくる。
うわ、この映画の映像すごく綺麗。えっ、しかもあの俳優さん出てるんだ、今度見てみようかな。
映画館の策略にすっかりハマりながら、私は暗闇の中ひっそりと足を組んで、頬杖をつく。傍から見たらかなり偉そうに見える姿勢。でもこの姿勢が落ち着くのだ。もちろん人前にはなかなか晒せない姿だが、真っ暗となればそんな人目も気にせずにこの姿勢ができる。
自分が楽な姿勢。自分が楽な生き方。暗闇なら、誰の目も気にすることはない。
CMが終わり、一度画面がブラックアウトした。私は思わず生唾を飲む。
この、映画が始まる前の、一瞬の静けさ。期待と緊張感が入り混じったような、張り詰めた空気。特にこの映画への思い入れもない私でも、なんだか少し緊張してしまう。
そして、長いようで短い、90分の物語が始まった。
シアターが明るくなると、数瞬、沈黙がその場を支配する。
物語の余韻が、辺りを漂うように。
スクリーンの中に囚われてしまった心が、なかなか戻ってこないみたいに。
しばしの静寂を経て、徐々に鼻をすする音がそこかしこからし始めた。そして、小声で感想を言い合う声が少しずつ聞こえてくる。
私は茫然と、真っ白になってしまったスクリーンを眺めている。
私は帰ってきた。帰ってきてしまった。物語の中の世界から。2時間にも満たない、しかし壮大な誰かの人生の中から。
ぽつり、と誰にも聞こえない声で呟く。行かないで、と。
私はずっと、スクリーンの中にいたかった。戻ってきたくはなかった。あの世界で、彼らの人生を見守っていたかった。しかし、ただの平面になってしまったスクリーンに、再び彼らが灯ることはない。魂が抜けたみたいに呆けている私に、
「いい映画でしたね。」
と、隣から声がかけられた。
声の方を見ると、そこには差し出されたティッシュ。差し出しているのは、2つ隣に座っていた女の人だった。
私の頬には涙の跡がたくさん残っていた。タオルを持ってきていないので、溢れる涙は手の甲で拭うことしかできず、ひどい顔になっていることは想像に難くない。
彼女はそれだけ言うと、お辞儀をして去っていく。
かすれた声で、私はその背中にお礼の言葉を告げた。
外に出ると、夜はすっかり深さを増していた。パリパリに乾いた頬を、冷たい風が撫でていく。それが、なんだかひどく心地よかった。真っ赤に泣き腫らした目を拭うと、鈍い痛みが走った。
映画館に入ってからたったの二時間しか経っていないはずなのに、なんだかその間に別世界に行ってしまったみたいだった。
数時間前に起こった出来事が、もう遠い昔のことみたいだ。家でだらだらテレビを眺めているのと同じ二時間とは、とても思えない。
今から家に帰っても、お風呂に入って寝るだけだろう。寝て起きたら、またいつもどおりの日々が始まる。
でも、私の心は満たされていた。それは、きっと今だけなのかもしれないけど。
真っ暗な行く先に、一筋の光が見えたような気がした。
私はうんとのびをして、冷たい空気を思いっきり吸い込む。あんなに嫌で仕方なかった今日という日が、なんだか今ならとても良い日だったと思える気がして。
ぽつり、とつぶやく。誰もいない夜空に。
――明日からも、がんばろう。