3.見知らぬ草原
言っておくが、僕は自然は嫌いではない。
木々の匂いや葉の擦れる音、波のさざめきや虫の音などは、落ち着くし寧ろ好んでいるとも言える。幼い頃、父にはよくカブトムシをとりに森に連れていってもらったものだ。
が、こんな状況ではそんなことを感じる余裕もない。
自然への感動や驚嘆よりも、生物としての生存本能の方が強く反応する。
誰もいない、名前もわからない土地、ネットはおろかGPSすらも使えない…。
目の前いっぱいに広がる草原の緑も、その上に陣取る空の吸い込まれるような青さも、そしてそれらを横目にゆったりと泳いでいく巨大な雲の白さも、目に痛く感じてイライラしてくる。
ふと、僕の頭の中に、今まで考えたこともなかった言葉が思い浮かんできた。
ーー『遭難』ーー
そうだ、これは軽い遭難だ。極地的な気候でもないからすぐにどうこうというわけではないだろうが、それでも、今手元にあるのは少しばかり水筒に残った麦茶と、弁当の残りくらいだ。数日もすれば飢え死にの可能性だって出てくるだろう。
ますます、心に焦りが生まれてくる。色褪せたベンチの周りをウロウロと回り始め、段々と平衡感覚を失い頭が痛くなってきた。
どうすればいいどうすればいいどうすればいいどうすればいいーー。
ふと乗ってきた電車が視界に入り、立ち止まる。
不可解なことは多い。電車が動いていたということは運転していた人間がいるはずなのに影も形もないし、こんな駅がある路線に乗った覚えはない。スマホが圏外になるのはわかるが、日本国内でGPSが検索すらされない地域なんてあるとは思えない。
しかし、ここは少なくとも陸の孤島ではない。「電車が通っている」のだ。公共交通機関があるということはつまり、人が立ち寄る場所であり、いざとなれば線路を辿っていけばどこかしらには出られるのだ。
そのことに気がつくと、段々と焦りもおさまってきた。時刻表もないから次の電車がいつくるかはわからないが、この駅がいつも使っている路線の延長線上だとするならば、少なくとも1時間後には同じように電車が来るのだ。もし仮に、ここがある特定の列車しか来ない場所だとしても、明日の同じ時間には列車が来る可能性が高い。その時に乗っていた人間にでも詳細を聞けばいい話だ。
僕はドサっとベンチに体を投げ出し、背もたれに体を預けた。
その勢いのまま首を上に逸らすと、憎たらしいほどに青一色の空が視界に飛び込んできた。
春の空に相応しい、見事なまでの晴天だ。こういう空の色をなんと言うんだっけ…ああ、思い出した『天色』だ。
目を閉じると、瞼の裏にあの褐色肌の少女が浮かび上がった。彼女はーーテニス部か何かだったか。
何もしていない自分とは違う、目標があってやりたいこともあって、他人とコミュニケーションが取れて。
自分とは違う世界の人間だ。人から愛されて、人を愛している人間だ。
さっきのやりとりを思い出して、両手で顔を覆った。
馬鹿みたいだった。彼女が部活があることなど、少し考えればわかったはずなのに。
自分の当たり前と、彼女の当たり前が違うことがどうしようもなく虚しかった、恥ずかしかった。それを彼女に感じ取らせたかもしれないことが一番苦痛だった。
そうだ、何もしていないのだ自分は。部活にも入らず、特段勉強をするわけでもなく、夢中になれるものがあるわけでもなく。
別に一番でなくてもいい。ただ「何者」にもなれない自分を受け入れることはとてつもなく苦痛だ。
最初のうちは、色々とやってみたのだ。両親が生きている時は、二人の意向もあって色んな習い事をやらせてもらった。
水泳に野球、サッカーに習字、ピアノと演劇、他にも沢山。結局、どれも長続きしなかった。才能もなかったけれど、一番はどれも自分から「やりたい」とはならなかったのだ。
社会で輝いて見える人たちは、程度の違いはあれど「やりたい」という夢中になる気持ちがある。それは有名人になるとかそう言うことではなくて、一介の会社員であっても仕事が楽しいとか、ニートであっても好きなコンテンツがあるとか、そういう「熱意」みたいなものの話だ。
それを、僕はどこへも向けることができなかった。向ける対象が見つけられなかった。
両親も次第に薦める習い事の数が減っていき、中学で入ったバスケ部を1ヶ月で退部したのを皮切りに、僕は何もしなくなった。
何もしないと言っても、引きこもるようになったわけではない。不合格にならない程度に勉強し、学校に行き、クラスからハブられない程度に人と話した。でも、何もしなかった僕は技術や知識などで「何者」かになることは無理だった。
だから、僕は常に一歩引いた目で見ることで「達観した何者」になることにした。部活なんて別にインターハイや全国に行けるわけでもない、微分積分なんてできたところで生活では使わない、ゲームやアニメ、他人が作った受動的な娯楽に金を使うなんて馬鹿げている…。
目線を変えただけだ。物事を批評することを身につけただけだ。ただ、みんなが考えていないことを考えるようになっただけだ。
いつしかこの考え方が僕のアイデンティティーになり、僕は端的に言えば…性格が悪い人間になった。
僕は顔を覆っていた両手を腿の上に下ろした。再び、あの青色が飛び込んでくる。
まあ、今更どうでもいいことだ。人間の人格形成は10歳までらしい。つまり、僕はそんな奴だったんだろう。
僕はベンチから立ち上がると、伸びをした。そんなことより、焦る必要がないとわかったとはいえ、一抹の不安が残っている。今は自力でも帰ることはできないか探ることの方が先決だ。僕は構内の奥の方へ向けて歩き出した。
さらに細かく調べていくと、この駅は本当にとんでもなくボロい、というか本当に廃駅のようなものだということがわかってきた。
ベンチ横の自販機は壊れているだけでは飽き足らず、中に蜘蛛の巣が張っていたし、跨線橋は上に上がるまでの階段が4段以上抜け落ちていて、そもそも上に上がれなかった。つまり、向こう側のホームに行くには一度線路に降りてからまた向こう側によじ登る必要があるのだ。
ただ跨線橋の付け根のすぐそばにあった小さな駅舎のようなものは比較的清潔で補修したような跡があった。しかも、明らかに最近置かれたであろう薄手の毛布も存在したのだ。それで一気に不安が小さくなった。どのくらいの頻度かはわからないものの、確実にこの駅は人が利用しているのだ。
あと、興味深かったのはこの駅を囲む草原の存在だ。人の手が入ったようには見えないが、春先にも関わらず草が茫々と生い茂っている感じはない。綺麗に僕の足首くらいまで、まるで刈りそろえられたかのように歩きやすかった。
草花の間からは虫の音が聞こえ、遠くの木からは鳥たちが飛び立っていくのが見えた。そして、南の方に向かってなだらかに坂になっていて、その上からは空と、それをキャンバスにして悠々と巨大な雲が泳いでいた。こんな状況でなければ、ゆっくりと深呼吸して、草むらに寝転んでこの自然を堪能していただろう。
ひとつ、当てが外れてしまったことがあった。僕のいつも使っている路線の延長線上なら1時間後には電車がくると予想していたが、これはダメだった。
日が傾いて夕方になっても、完全に暮れて星空が満天に瞬いても、電車の音ひとつ聞こえて来なかった。
しかし、ある程度予想はしていたことだ。仕方がないと割り切ることができた。
僕は駅舎の中で見つけた毛布を手に取り、もし万が一誰かが電車を動かすことがあればすぐに反応できるように、電車の中で眠ることにした。靴を脱ぎ、横並びの座席に寝転んで、毛布を被る。リンリンと虫の音だけが静かに車内に響き渡る。なかなか悪くはない気分だった。
電車の動きが緩やかになり、横に投げ出される感覚で目を覚ました。
こういう時の寝覚めは最悪だ。唇が乾いて喉が痛い気がする。渋々眠い目を擦りながら目を開くと、よく見知った最寄駅から見える海の風景が広がっていた。
海は昨日と同じように素知らぬ顔で、日差しを浴びて鈍く輝いている。車内には、昨日と同じように杖をついたお爺さんが座っていた。
寝ぼけた頭で考えを巡らす。
昨日は電車の中で寝て起きたら、急に見知らぬ土地にいて、そこで仕方なく車内で一晩を過ごして、起きたらまたいつもの場所にーー
古い電話機のようなけたたましい発車音で一気に目が覚めて、慌てて立ち上がり、電車から降りた。
目の前でプシューと音を立てて扉が閉まる。
そのまま、お爺さんだけが乗った電車を見送る。
僕はポカンと口を開けたまま、しばらく立ち尽くしていた。
「…夢?」
カラカラになった喉からポロッと言葉が漏れ出る。
訳がわからない。どういうことだ。乗っていた電車が動いてそのまま最寄駅まで来たのか。それとも本当にただの夢だったのか。
一歩後退りすると足の裏に小さい痛みが走り、手に持っていたものを落とした。
下を見ると、僕の足は裸足で、横にはあの毛布が落ちていた。
毛布を拾い上げると同時に、午後4時を知らせる鐘の音が街中に響き渡った。
家に帰ると、祖母が庭の植木の手入れをしていた。
僕が古びた鉄門に手をかけると軋むような音が出て、彼女は顔を上げた。
「あらあ、お帰りい」
「…ただいま」
1日帰って来なかった人間への反応ではなかった。
後ろ手に門を閉め、敷石を玄関戸に向けて歩いていくと、途中で祖母に呼び止められた。
「あんた、その足どうしたと?靴も履きよらんで」
祖母は不安そうな、険しい顔つきで庭作業用の軍手を外しながら近づいてくる。
「大丈夫だよ」
祖母の心配するベクトルでは嘘はついていないので、僕はそのまま微笑んで見せる。
「大丈夫なわけなか。こんな足傷だらけにして…」
「大丈夫だから、本当に」
少し強めに否定すると祖母は立ち止まり、それならええが…と呟きながら庭作業に戻って行った。
僕はそのまま玄関まで進み、家の中に入った。
僕の家は祖父母の家だ。両親が中学2年生の時に交通事故で亡くなってから近所に住んでいた祖父母に引き取られて育った。
祖父母の家は田舎によくある日本家屋というやつで、瓦造りの二階建て建築だ。廊下をのぞいて畳の部屋がほとんどで、僕の部屋はというと、2階の海側の角にある。祖父が昔仕事で使っていたという場所だ。
僕は部屋に入ると、鞄と毛布を部屋の隅に放り投げ、開けっぱなしにしてあった窓枠に腰掛ける。
頬杖をつきながら海の方を見やると、ちょうど水平線の彼方に日が沈み始めているところだった。海はもう昼のような青さはなく、太陽の周りだけが蝋燭の火のような、滲んだ橙色に染まっていて、大部分が波の形もわからないほどの黒さに変わっていた。空は段々と上に行くにつれて色が濃くなっていき、今は紺青色に染まっている。
ああ、夕暮れ時のこの色にも名前があるんだっけーー『花紺青』だったな確か。
僕は足にできた小さな擦り傷を撫でる。祖母は傷だらけと言ったが実際は別に深い傷はない。普通にコンクリートで少し擦った程度のものだ。
部屋の隅の毛布に目をやる。
結局あそこはなんだったのか。あそこで見た毛布が今この場にあるということはあれは夢ではなかったのだろう。
だが、僕はあそこで一晩を越したはずだ。眠りについたはずだ。僕はポケットの中のスマホを取り出して電源をつけてみる。
僕の感覚では昨日が4月20日で今日は4月21日。そしてスマホの時計はーー4月20日。
僕は首を後ろに倒し窓枠に体を完全に預ける。ゴンっと鈍い音がしたが痛みなど気にならなかった。
わからないことが多すぎる。あの場所は、この時間軸のずれは、一体何なのか、どうしてあの場所に行き、どうやって帰って来れたのか。
しばらく悶々としていたが、結局自分の中に答えらしい答えは出て来なかった。思いついた中で一番話として近そうだったのは神隠しだが…そんな馬鹿な。大体、僕なんかを拐かしてなんの意味があるというのだ。
気づけば日は暮れ落ちて、家々からオレンジ色や黄色の明かりが漏れ出るようになってきていた。
仕事から家族が帰ってきたのだろうか。家族団欒の賑わいも風に乗って聞こえてくる。
僕の家の下からも鍵を開けて、引き戸が開けられる音が聞こえてきた。
「お帰りい」
祖母の出迎える声がする。帰ってきたのであろう祖父の声は低くて聞き取れない。
「ご飯にするよお」と祖母の声が階下から響いた。
「はーい」
僕も返事を返すと窓枠から腰を上げ、階段を降りていく。
何にせよ、帰っては来れたのだ。理由も原因も状況もわからないことだらけだが、ひとまずそれでよしとすることにしよう。