2.僕という人間
4月20日。春。暑すぎず寒すぎず、気温がちょうど良く、街中には草花があちらこちらで色鮮やかに咲き誇り、いつもの生活に少しだけ差し色が入ったような気持ちになる季節。
僕はこの季節が比較的好きだ。今の時期は流石に散ってしまったけれど、特に春特有の瑞々しい空に、桜が舞う姿には毎年心打たれる。その度に日本人らしい感性とはこのことなのかもしれないなどと考える。
昼休みの教室は、今度の文化祭の準備やらでみんな外に出たりしていて、僕以外には2、3人がいる程度だ。
皆手元のスマホを見ているか、学生らしく単語帳らしきものを読んでいるか、とにかく下を向いて何かしている。
僕はといえば、頬杖をついて、何をするでもなく、ただ窓の外の景色を見つめていた。
平日の午後の日差しは優しく室内に差し込み、心地よい暖かさで眠気を誘う。風が頬をくすぐり、思わずあくびが出そうになる。
窓の外にはポツポツと立ち並ぶ家々と、その先に茫漠とした海が広がっている。太平洋沿岸に位置するこの地域の海はどちらかというと黒に近く、南国のような透き通る水色ではない。でも、陽の光にあたって穏やかな風景を作り出していた。
平和で平穏で、活力の溢れる高校生にとっては退屈にも思える景色だ。同級生たちがこぞって都会の大学に進もうとするのは、こういう田舎の呑気さが気に食わないのだろう。
トタン屋根の家、錆びた道路標識、いまだに定期券と現金でしか乗ることのできないローカル線、人よりも多い畑の数、道端のコンクリートは裂けていて、その間から雑草が元気に顔をのぞかせる。スーツの人間とすれ違うことはほぼなく大人たちは皆古びた作業着かよくわからない紋様柄の服を着ていて、特に名産品があるわけでもなく観光客も来ない。スマホの電波は5Gが通らず、流行のモノも電車で1時間乗らなければ手に入らない。
それもこれも全てこの土地が悪いのだ、と言わんばかりに若者たちは皆この街を出ていく。実際そういう土地なのだから仕方ないのだが。
そういうわけでこの街は過疎化が極端に進み、僕たち高校生世代の親と年金頼りの年寄りしか残っていない。まあ、よくある話だ。
僕も大学は都内に進もうと考えている。
この土地はいろんな意味で狭すぎる。見ず知らずの年寄りから挨拶され、全員が幼稚園から高校まで一緒であいつの家はどこだとか、家族構成はどうだとか、好きな相手に至るまで全部筒抜けになってしまうのだ。
匿名性が重要視される社会でこんなにも生きづらい世界もない。こんな土地はさっさとおさらばして誰も自分のことを知らず、誰も自分を見ていない気楽な世界へと旅立ちたい。
日々、僕はこんなことを考えながら時間が過ぎるのを待っている。
文化祭と言っても秋口の話で、クラスの出し物の準備なんかはまだ当分先の話だ。
今同級生たちが取り組んでいるのは部活でやる方の出し物だ。どこの高校でも一緒かもしれないが、たった一年しか一緒にいない奴らと作るクラスの出し物よりも、3年間苦楽を共にする仲間たちと作るものの方が熱が入るのは当たり前だろう。
だから、帰宅部である僕はこうして珍しく喧騒のない教室で穏やかに過ごせているわけだ。
今、教室にいるのはあぶれ者たち…受験第一優先のガリ勉、他人と全くコミュニケーションを取ろうとしないオタク、そして僕。当然友人はなく、こうした休み時間に話す相手もいない。
そのことを気にすることはないが、行事に極端に非協力的だと周囲からの顰蹙を買うことになる。クラスの出し物が決まったら最低限参加だけはしておこう。
予鈴が鳴って同級生たちがバタバタと教室に駆け込んできた。戻ってきたいつも通りの喧騒に物思いから引き戻され、僕は一つため息をついた。また、いつもの退屈な時間が始まる。
「ねえ、消しゴム貸してくれない?」
昼休み後の5限目が始まるとすぐに、隣の席からチョンチョンと肩をこづかれた。ふと見やると健康的な褐色に染まった肌が目についた。
「ごめん、私が昼休みに友達に貸してた分回収するの忘れちゃって」
肩まである髪を後ろ手に無造作に縛ってポニーテールにした彼女は、申し訳なさそうな顔をしながら手刀を切る。名前は確かーー加藤とかいったか。
「いいよ、はい」
僕は筆箱の中から予備で持っていた新品の消しゴムを彼女に手渡した。
「え、新品じゃん。いいの?」
「いいよ、別に」
「やった、ありがとうね。今度買って返すね」
「だからいいって」
またまた手刀を切る彼女に僕は無愛想に返す。
ーー自分で予備くらい持っておけよ。ーー
喉まででかかったその言葉を飲み込んで僕はまた前を向く。
性格が悪いのは自覚してる、でも口に出さなければ伝わることはないのだ。
人は言葉で動く生き物だ。考えていること、感じていることは、言葉に出さなければ良いも悪いも伝わらない。衝突を避けるのならば何も口にしないことが一番なのだ。
「この小説の中には『青色』にまつわる言葉が多く登場しています。その中でも特に空の色の表現である『天色』が印象的なシーンで使われているわね。…加藤さん、212ページの右下、『天色』の注釈にはなんて書いてあるかしら」
加藤は急に当てられて、一瞬ピクリと体を震わせたが、すぐに注釈を読み始めた。
「晴れた日の澄んだ空のような、鮮やかな青色…デス」
「そうね、ありがとう」
まだ20代前半に見える現国の教師は、黒板に「天色」と書き、矢印を引いた横に「晴れ」「ハレ」「ポジティブな気持ち」と書いた。
「この小説の終盤では、友人を失って今まで何もやる気が起きなかった主人公が、仕事を探したり他の友人と交流するシーンがありますよね?行動だけでも立ち直ったのかな、傷が癒えたのかな、と推察することはできますが、人によっては友人の死を仕方のない事として諦めた、忘れようとしている、というネガティブな受け取り方もできるわけです。そこにーー」
彼女は一瞬間を置いて、カッとチョークを黒板に突き立て声を大きくする。
「『天色の空を見上げて歩き出した』という一説があるだけで、ああこれはポジティブな気持ちなんだな、と読者が受け取ることができるわけです」
声の大きさに対して生徒たちの反応は薄く、静まり返った教室にほんの少しだけ彼女の声が反響する。
風の音、波のさざめき、木の葉の擦れる音…、3秒だけ空白の時間が生まれ、彼女は再び話し出した。
「…つまり空、海、地面、なんでもいいですがモノの色の描写は、登場人物たちの気持ちを暗喩していることが多い。テストなどで小説文が出題されたときは注意して読み進めてください」
心なしか先ほどよりも小さい声で話す彼女に、センセイ、ちょっと恥ずかしくなったんでしょ、と誰かがボソッとヤジをいれ、教室が静かな笑いに包まれた。
彼女もはにかみながらそうですね、と口にする。
ここで聞き慣れたチャイムが鳴り、授業が終わった。今日も退屈な授業だった。
僕の通う高校は海沿いの小高い丘の上にある。たぶん津波が来てもこの高さなら大丈夫だろう。
周囲は森に囲まれていて、道路で鹿を見ただのたぬきとすれ違っただのという話が後を経たない。また、窓を開けっぱなしにしていると蜂やらアブやら蝿やらが入ってくる。だから席替えで女子が窓際になるとどれだけ暑かろうと窓が閉め切りにされる。迷惑な話だ。
6限目も終わり、午後3時を回った頃、僕は下駄箱に上履きを投げ入れ、そんなやたらと自然に満ち溢れた校舎を後にした。
学校から続く坂道を下っていると、後ろからパタパタと走ってくる音がして、グイッと肩を掴まれた。
「待って!」
振り返ると、褐色の肌の少女ーー加藤が荷物も何も持たずそこに立っていた。
「何?」
「…これ、今日はありがとう」
手を差し出され、僕も差し出し返す。
ポトリと新品の消しゴムが手のひらに落ちてきた。なんだ、そんなことか。
「いいって言ったのに」
「私がそれじゃ納得いかないの!別にいいでしょ、減るもんじゃないし」
彼女はニカッと笑って体を傾けてみせた。屈託のない魅力的な笑顔だ。これが俗にいう「男女共に愛される女子」というやつなのだろう。
「分かった。ありがたく受け取っとくよ…それよりも荷物はどうしたんだ?」
僕が聞くと彼女はキョトンとした表情をして一瞬固まったのち、答えた。
「え?だってこの後部活あるもん」
しまった、馬鹿なことを聞いた。それが「当たり前」だ、「普通」なのだ。それが当たり前じゃないのは僕とあのガリ勉とオタクくらいのものだ。
「そう」
僕はそれだけ答えて、踵を返した。足早に階段を降りる。
彼女の視線を背中に感じた。でも、振り返らなかった。
電車に乗り込むと一番端の席に座った。車両と車両の連結部分側、壁に体を預けられる位置だ。
平日の昼下がりの車内には杖をついた爺さんと、僕と同じ高校の生徒が二人だけだ。過疎地域らしい顔ぶれだ。
乗り込んで早々に古い電話機のようなけたたましい発車音がホームに鳴り響き、プシューと音を立てて扉が閉まる。一瞬の静寂の後、ガタン、と音がして体が横に引っ張られる感覚が生まれてーー電車が動き出した。
窓の外には学校の窓から見たのと変わり映えしない景色が広がっていた。
歴史を感じられるまではいかないボロいだけの家々、観光資源にはならない海、無秩序に散乱する緑の木々。
ここの大人たちは、よくこんな退屈な世界で暮らせるな、と改めて思いながらボーッと流れる景色を見ていると、唐突に眠気が訪れた。
最寄り駅までは30分ある。このチンタラ走るローカル線の唯一のいいところだ。居眠りができる。
僕は眠気に任せて目を閉じ、瞼の裏の闇に吸い込まれていった。
電車の動きが緩やかになり、横に投げ出される感覚で目を覚ました。
こういう時の寝覚めは最悪だ。唇が乾いて喉が痛い気がする。渋々眠い目を擦りながら目を開くと、先ほどまでの海の風景は消えて、地平線までひたすら緑の草原が広がる、見知らぬ風景だった。
ーー降り過ごしたか。
僕はため息をついて立ち上がった。電車はそのまま速度を落として廃駅かと思うほど古びた駅に乗り入れた。
「…ここ、どこだ?」
扉が開いて、僕は駅のホームに降り立った。
廃駅かと思った駅は、実際にそれ認定でいいんじゃないかというレベルでボロく、清涼飲料のマークが書かれたベンチは落ち葉で埋まり、こちら側と反対側のホームをつなぐ頭上の跨線橋は床に穴が空いている。あげくホーム構内も所々コンクリートが崩れ落ちていた。
いくら過疎地域のローカル線だからといってここまで杜撰な管理でいいのだろうか、などと考えつつ僕は駅の名前が書かれた標識を探した。
5分ほど探しただろうか。駅の標識はどこにもなかった。
それどころか、駅員は当たり前のようにいない上に、電車を運転していたはずの運転手さえ見つからない。
スマホの電波…圏外、GPS…検索不可。調べようがない。
そもそも、僕が普段使っているこの路線はずっと海沿いを真っ直ぐ走っているのだ。その路線上の駅から海が見えないはずがない。
乗る列車を間違えたーーいや、あの駅から出ているのはいつも使っているあの路線一本だ、間違いようがない。
訳がわからない。僕はストンと地面に座り込んだ。
名前もわからない、見覚えもない土地にいきなり放り出されてしまった。
目の前にはただひたすらに、ただ静かに、緑に埋め尽くされた草原だけが広がっていた。