0.世界の深淵
目を開くと、そこにはどこまでも広がる青い草原が、夏の優しく頬を押すような風に撫でられていた。草が、空が、風が、この世界にあるすべてが優しい青色で満たされていた。青空のキャンパスを真っ白な入道雲が悠々と歩き去っていく。
私は静かに、ゆっくりと、甘い夏の香りを吸い込んだ。肺胞に通る血管の中の血中にその甘さが浸透していくのがわかる。
たまらなくなって、駆け出したくなって、私は一歩足を踏み出した。足元の草は僅かに水気を帯びている。草露が跳ね上がって、日光に遊ぶ、踊る、笑う。
私も声を上げて、笑う。くるくる廻る。世界の中心はここだと、高らかに謳う。
優しい土に足を取られて、転ぶ。背中に柔らかい土の感触を感じる。
真上に広がるのは、途方もない、どこまで抜けていくのか想像もつかない青。
頬をくすぐる草々を感じながら私は思う。
ここは世界の中心だ。世界の深淵だ。すべてが生れ落ち、すべてが還ってくる場所だ。始まりがあり、終わりもまた、同じようにある。
もしエデンの園なんてものがあるなら、きっとここに違いない。ここはきっと、世界のどこよりも神様に近い場所だ。
瞬きをしても、目の前の風景は何一つ変わらない。ここ以外の世界は、もっともっと、何十倍、何百倍も早く生きている。
なんて自由なのだろう。なんて優しいのだろう。私はこの優しく、無責任な世界の、たった一人の住人だ。
立ち上がってふと振り返ると、さっきまで私のいた古びた駅が見えた。赤錆びた鉄骨、風雨にさらされて色褪せたベンチ。上りと下りのホームを繋ぐ通路には大穴が開いて、空が覗いている。
この世界は、謎だ。
優しく、世界の中心であることは何故か分かるのに、それ以外は何もかも謎だ。きっと私が今まで人生の中で頭を悩ませてきた試験問題やら何やらを全部ひっくるめても、この謎には遠く及ばない。
駅のホームに列車は止まっていないけれど、線路はまだ残っていて、広大な草原の果てにその先端は消えている。
この線路を辿っていけば、私がもといた場所に帰れるのだろか。試してみたことはないけれど、そんな気がする。
でも、この世界に私は生きているから。
私は再び腰を下ろすと、瞼を閉じて風の音に身を任せる。
。
私は---この世界そのものだ。