人魚の涙①
「リナ、最近楽しそうだな。粟根先生とのことで、うまくやれているのか?」
夕食時、リナの父である徹がそう語り掛けた。
リナは口に放り込んだとんかつをもぐもぐと租借してのみこんでから頷いた。
「うまくやれてるかわからないけど、少し慣れて来たかな。最初は、河童とか、ろくろ首のお姉さんとか、やっぱり見た目が奇抜なあやかしもきて、驚いたりもしたけれど、慣れて来たし……」
「そうか。それならよかった」
「うん。まだ、学校には、行けそうにないけど。やっぱり、人がたくさんいるところは怖くて……」
「まあそこまで焦らなくても大丈夫だがな。お父さんはリナが元気ならそれでいいし」
「うん……ありがとう、お父さん」
「……あ、そういえば、学校の子が、プリントとかを色々持ってきてくれたぞ」
という父の声は少しばかり機嫌が悪そうだったが、リナは気づかず「そうなんだ。後で見なくちゃ」と言って、新しいトンカツに箸を伸ばす。
自分で作ったトンカツだったが、我ながらうまくカラっと揚げることができた。
衣が薄めで、肉厚なのがリナの好みだ。
「リナ、そのプリントとかを、持ってきてくれたのは、なんか、榊とかいう、金髪で青い目のキラッキラの男子だったんだが、リナの友達か……?」
という父の言葉に思わず顔を上げた。
「……え!? 榊君が!?」
「まさか、リナ、奴は、リナの、その、か、か、か、彼氏か……?」
と見当違いなことを口にする父にリナは慌てて首を横にぶんぶん振る。
「そんなわけないよ! 榊君は、ただのクラスメイトだし! あり得ないこと言わないでよ! あ、多分、学級委員だから、多分それで持ってきてくれたんだと思う!」
「いや、でも奴は、リナのことを色々聞こうとしたり、ものすごく気にしてたんだが……」
「ないないない! ただ優しいから、気にしてくれてるだけだよ。お父さん変なこと言わないでよ!」
だいたいにして、榊というのは、金髪碧眼のリナの学校のアイドル的な存在だ。
日本人離れした煌びやかな見た目は、入学初日で全校生徒の憧れの的になった。
そんな彼を彼氏だなんて思われるのは、なんというか、おこがましいような気持ちになる。
実際そんな間柄とは程遠いただのクラスメイトなのだから。
「そうか……? それならいいが……」
と、しぶしぶという感じで、どうにか徹の追求は免れたけれど、なんだかリナはどっと疲れたのだった。
心理相談所のいつものカウンターで、榊が持ってきてくれたという学校のプリントを見ながら、昨日の父とのやり取りを思いだして、深いため息が漏れた。
榊が持ってきてくれたプリントは、英語や数学の課題のプリントだった。
リナは学校には通っていなくとも、勉強に遅れをとらないように空いている時間に家などで勉強をしているので、授業のプリントは今学校でやっている範囲が分かるのでありがたい。
リナが不登校になってから一か月ほど経過したが、今のところ勉強面での遅れはなさそうだった。
そのことに少しばかりほっと胸をなでおろして、もう一か月なのかと、リナはこれまでのことを振り返る。
これまで、あかやし心理相談所に来て、様々な妖怪たちを目にしたリナは、あやかしの世界についても、ある程度受け入れ始めていた。
自分が知らないだけで、もともとそういう世界があったのだと、やっと理解が追い付いてきた。
サトリの力の使い方に関しても、問題なく、人が近くに数人いるぐらいなら、暴走することなく力を抑えられる。
もともと心を読むのは神経を使う。
普段普通に生活しているだけで勝手に心の中を読めるようなものではないのだ。
でも……やはり、たくさん人がいるところだと、あの時のことがフラッシュバックされて、恐怖の気持ちが先行し、サトリの力を暴走させてしまっていた。
それと、同じ年の男の子を前にした時も、何とも言えない嫌悪感を抱いて、やはり力の制御ができなかった。
「リナさん、ちょっといいですか」
受付の暖簾越しに、粟根に呼ばれた。
リナは、「はい!」と元気よく返事を返すと、仕切りの暖簾をひらりとどける。
そこには、いつもと雰囲気の違う粟根の微笑みが待っていて、思わずリナは「え……」と戸惑いの声を漏らした。
そしてややして、リナは、粟根に感じた違和感に気付いた。
いつもの丸いメガネをかけていないのだ。
それだけだ。それだけなのに、印象がまったく違う。
もともと整っている顔をしているとは思ってはいたが、親しみやすいような安心感を与えるような顔の作りだった、はず。
しかし今、目の前のメガネのない粟根は、どちらかと言えばクールな印象の、非の打ち所のない美形にリナの目には映った。
「どうかしましたか?」
リナがぽーっと見つめていると、粟根が戸惑うように首を傾げた。
「あ、えっとその、先生がメガネをかけていなかったので、ビックリしてしまって……! 今日は、どうして、メガネをかけていないんですか?」
先生に見惚れていた、なんてことを言えるはずもない。
慌ててリナがそう返すと、粟根は目のあたりに手を当てた。
「ああ、本当だ。すみません、メガネを付け忘れてました」
と、眉根を寄せて、粟根が言う。
しまったとでもいうように粟根が顔を隠すのをみて、リナは首を傾げた。
「先生は、特に目が悪いわけではないんですか?」
「ええ、そうなんです。実はあれは、伊達メガネでして……目は特に悪くないんですよ」
伊達メガネ?
では、おしゃれのつもりでかけていたのだろうか。そういうものに気を遣うような性格には思えなかったが。
そんな疑問が浮かんでリナは首をかしげる。
「メガネの先生も、その、いいですけれど、メガネがなくても、良いと思いますよ」
リナはすこしばかり顔を赤くさせながらそう伝えた。
「そうですか? なら、相談者さんが来るとき以外は、外そうかな」
「相談者さんがいない時、ですか? 相談者さんがいる時はダメなんですか?」
「ダメというわけではありませんが……なんというか、メガネをかけている時の方が、色々集中できるんです。それに、メガネをかけていたほうが、頭がよさそうで、頼もしく見えるでしょう?」
「頭が良さそう……?」
「ええ、こんな小道具のようなものを頼るのも恥ずかしいのですが、やっぱりこういう仕事ですから、第一印象って結構大事なんですよ。特に、あやかしの方々は、私なんかよりも長く生きている方々ばかりですから。いかにも若造な私に対して、相談をためらわれる方もいるんです。ですからちょっとでも、頼りがいがあるようにと思って」
ふふ、と笑いながら答える粟根につられて、リナも顔をほころばせた。
「先生でも、そんな風に、普通の人みたいなことを考えるんですね」
「ハハ、私は普通の人間ですから。ただ、ちょっと相手をする方々が普通じゃないだけで」
と、お茶目に笑う粟根に、リナは微笑みながらも、あやかしの相手をしている時点で、粟根は十分普通の人間とはいいがたいような気がしたが、のみこんだ。
粟根の意外な一面に、喜んでいる自分がいたからだ。
「それで、先生、さっき私に用があって声をかけてくれたんですよね?」
「ああ、そうでした。ちょっとリナさんにおねがいがあってきたんです」
お願いという言葉は、なんだか珍しいと思いつつリナは頷いた。
「はい、なんでしょう?」
「来週のシフトの件で相談なんです。来週の水曜日は、14時に出てきて欲しいんです。いつもの時間より早いのですが、どうでしょうか?」
来週の水曜日。
リナは頭の中で来週の予定を確認する。
特に予定はない。
いや、本来なら学校にいなくてはいけない時間な訳だけど、まだリナは学校に通えていない。
おそらく来週も難しい。
そうなると、そのあたりの時間はだいたい自宅学習をしているだけだ。
時間の融通はきく。
それに何より、粟根からお願いされることなどは初めてで、たとえ予定があったとしても、彼を優先したい気持ちが強かったリナは笑顔で頷いた。
「はい、空いてますし、大丈夫です。14時ですね。でも先生がそんな風に言うなんて、珍しいですね。何かあるんですか?」
「実は、どうしてもリナさんの力を借りたい方からの予約が入りまして。覚えていますか? リナさんを雇いたいって言ったとき、リナさんに力を貸し当て欲しい案件がいくつかあると言っていたのですが、明日入った予約の方が、その、リナさんの力を借りたいあやかしの方なんです」
そういえばそんな話もあったかもしれないと、リナは、思い出した
ここで働くようになって、しばらく経過したが、正直リナのこの力が頼られるそぶりが一向になかったのでリナはすっかり忘れていた。
河童の親子の時も、自分の力が役に立てると思ったのに、役に立っているような感じは全くしなかった。
それに、あの後もちょくちょくリナは粟根に言われて、やってくるあやかしたちの心を読むだけ読むことがあるけれど、粟根は、別にその聞き取った内容をリナから聞こうとはしなかった。
ただ、たまに、あのあやかし達は、こうこうこう思ってませんでしたか? と言われて、「あ、はいそうです」と答えるだけだ。
一度粟根に、なんのためにそうさせるのか気になって聞いたことがあったけれど、笑顔でさらりと『リナさんのためです』と極上の笑みで答えるだけだった。
「リナさん? 本当に、大丈夫ですか?」
リナが今までのことを思い出してぼーっとしていると、心配そうに粟根がリナの顔を覗き込んでいた。
「あ、はい、全然! 全然大丈夫ですよ!」
とリナは慌てて答えると粟根は安心したように微笑んだ。
「よかった。それでは来週、よろしくお願いしますね」
その言葉に少しリナは嬉しくなった。
これで少しは、先生の役に立てるかもしれない、そう思って。




