河童の親子と気になる黒ずみ③
「あの、粟根先生……本当にアレでよかったんですか? だって、渡したものって……ただの重曹ですよね?」
そう、粟根があの河童の親子のために用意をしたのはただの重曹だった。
主にリナが相談所の掃除などによく使うごく一般的な、磨き粉だ。
「ええ。あれでよかったんですよ」
「でも、キュリオ君のお皿に、黒ずみなんてなかったじゃないですか。それなのに、先生は、キュリオ君に、まるで黒ずみがあるようなことを言うし、重曹なんか渡すし……」
リナは、そう責めるように粟根にいうと、粟根はそんなリナを面白そうに見る。
「そういえばキュリオ君の心の中はどうでしたか? キュリオ君は大真面目だったでしょう? 真面目に自分の頭のお皿に黒ずみはあるって、思ってたと思います」
粟根に言われて、リナはうんと頷く。
最初は、お母さんをからかいたい、もしくは学校をサボりたいから、あんな嘘を付いているじゃないかと思った。
でも、心の声を聞く限り、キュリオ君は、嘘を付いているつもりはまったくない。
本気で、黒ずみがあると思って、本気でそれを嫌がっていた。
「先生のおっしゃるとおりです。キュリオ君は黒ずみがあるって本気で思ってるみたいでした」
実際に黒ずみはない。
なのに、本人は黒ずみがあると思っている。
リナは、しばらくうーんと唸りながら考えて、一つの答えを導き出した。
「も、もしかして、そういう風に思いこませている妖怪の仕業、とかですか!?」
そうに違いない! という自信を持って宣言したリナだったが。
「え、妖怪の仕業? ハハ、リナさんも、なかなか柔軟に考えるようになってきましたね。確かに、そういうことができる妖怪はいそうです」
と、粟根は笑うばかり。
どうやらリナの渾身の思いつきは、不正解のようだった。
じゃあ、一体なんだったのだろうと、リナは口を尖らせて未だに笑う粟根をねめつけるが、結局粟根は、その日はリナに重曹を出した理由を教えてくれなかった。
最初に河童の親子がやってきてから10日ほどで、河童の母親が、満面の笑みで挨拶に見えた。
「先生! ありがとうございます。無事にキュリオが学校にいけることになりました!」
もともとは経過の報告ということで、親子揃ってやってくる予定だったのだが、キュリオが無事に学校通いできるようになったので、母親一人だけである。
「そうですか。それは良かったです。どうしますか? 磨き薬は……まだいりますか?」
粟根がそう問いかけると河童の女性は、穏やかに微笑んで、首を軽く振った。
「いいえ。もう、大丈夫です。だって、先生。あれは、普通の重曹ですよね?」
特別な磨き薬と銘打って渡したものが重曹であることが、バレている!
と内心焦るリナだが、母河童は、穏やかに微笑むばかりで、薬として重曹を処方した粟根を責めるような様子は全くない。
むしろ、母河童の目には少し涙を潤ませて、感謝をしているような温かい眼差しで、粟根をみている。
「キュリオの話を聞きながら、お皿を磨いている間、先生がおっしゃるとおり、一度は息子の話を受け止めてみました。そして気づいたんです。今までの私は、息子の話を聞くとき、いつも否定ばかりしてました。何を馬鹿なことをいってるの、とか、くだらないこと考えないで、とかです。むしろ、今までは、あんな風にゆっくり息子の話しに耳を傾ける時間さえなかった。息子の皿磨きの時間は私達親子にとって、必要な時間でした。先生、本当にありがとうございます」
母河童はそうお礼を言って、粟根あやかし心理相談所から去っていた。
粟根も一仕事終わったーという様子で背中を伸ばしているが、リナは腑に落ちない。
一体、河童の親子に何があったと言うのだろう。
重曹なんかを処方して、怒られるどころか感謝されているのだ。
「粟根先生、あの、どうして、キュリオ君は学校に行く気になったのでしょうか?」
「それは、もちろん、頭のお皿に黒ずみがなくなったからじゃないかな」
「だ、だから、もともと黒ずみなんて、なかった、です! そろそろ教えてくれてもいいじゃないですか!」
リナはあの日、なかなか真相を話してくれない粟根を今だに根に持っていた。
「そうだね。でも、その目に見えない黒ずみは、キュリオ君自身も自覚していないSOS信号のようなもの、と言えばいいのかな。自分の話を聞いてほしい。分かってほしい。受け入れてほしい。キュリオ君は、もっとお母さんに自分の話を聞いてもらいたかったんだと思うよ」
「え、どうしてそう思ったんですか」
「だって、キュリオ君、黒ずみの話をしている時、嫌そうな顔をしている割には、少し声のトーンが明るかった。キュリオ君は、黒ずみを嫌いながらも、それのおかげで、お母さんの注意を引けることを無自覚のうちに分かってしまっていたんだろうね」
無自覚のうちに? とリナは目を瞬かせた。
リナには心の声を聴く力がある。
あの時も、粟根に聞いて良いと言われて聞いていた。
でも、キュリオ君は、そんな風に思っているとは、分からなかった。
それが無自覚ということなのだろうか。
「キュリオ君は、じゃあ、ただ、お母さんに構ってもらいたくて、無自覚のうちに、黒ずみが見えると思い込んでいたってことですか?」
リナにとっては信じられないことだった。
そんなことがあり得るのだろうか。
でも、実際、あり得た。
「そういうことだね。別に珍しいことじゃない。特に子供の頃には、よくあることだよ。キュリオ君はお母さんに自分の話を色々聞いてもらったり、ゆっくり過ごす時間が必要だった。今はその時間が与えられたから、わざわざ黒ずみがあるなんて思わなくても良くなったんだろうね」
「じゃあ、キュリオ君とお母さんがゆっくり一緒にいられる時間を作るために、重曹を渡したってことですか?」
そういえばとリナは重曹を渡すときに粟根がいっていた言葉を思い出す。
イライラしたり怒っていたりすると、強く磨き過ぎてしまうから穏やかに優しく磨くことが大事なのだといっていた。
「そう。子供にとって大人というものは特別な存在なんだよ。それが親ならなおさらね。大人に、自分の話を受け止めてもらえるだけで、救われる心もある」
そう粟根に言われた時、リナは、自分の力を父に打ち明けた時、受け入れてもらえたことにひどく安心したのを思い出した。
とはいえ、その後、自分でさえも信じられないこの力をあっさりと受け止めた父を疑い始めたりもしたが……。
「それなら、キュリオ君、わざわざお皿に黒ずみがあるだなんて、遠回りなことは言わないで、話を聞いてほしいっていえば良かったのに……」
「そう、その通り。でもそれが一番厄介な問題で、自分が思っていること、感じていることをいつも正確に自覚できる生き物は、なかなかいないってことだよ。人も、妖怪もね……」
そうリナに諭すように話す粟根の横顔に、窓から差し込むオレンジの西日がかかった。
リナはドキリとした。
粟根の普段の言動は、のらりくらりとしていてつかみどころがないが、こうやって真剣な顔で見つめられると、顔が整っているだけに雰囲気がある。
なんだかざわざわと胸が騒ぎだす心地に、リナは思わず頬を赤らめた。
何故いきなり、体が火照るような感覚がしたのか、リナにはわからない。
「リナさん? どうかしましたか?」
何故か一言も話さないリナに粟根がそう尋ねると、リナはびくりと肩を揺らした。
「あ、いいえ、別に! なんでもないです! あ、あの! 先生、コーヒー、飲みますか!?」
少しばかりいつもより高くなるリナの声。
粟根は、自分のカップに目を落として、それが空になっているのを認めると、頷いた。
「ありがとうございます。では、もう一杯いただけますか?」
「はい!」
リナはそう言って、逃げるように給湯室へと向かった。
どうしてこんなにそわそわしてしまうのか、リナにはまだわからない。
たしかに、人も妖怪も、自分の気持ちをいつも正確に自覚できるとは、言えないようだった。