サトリの少女は受け入れる
紺色のブレザーの学生服があちらこちらで目に入る。
同じような服を着た、同じ年頃の、男女の楽しそうな笑い声が聞こえる中をリナは歩いていた。
大丈夫。私は落ち着いている。
リナは、そう言い聞かせて、校門を越える。校舎に入る。忘れかけていた教室へ続く廊下を渡る。
そして、教室の入り口。
リナは始業開始時刻のギリギリの時間にここに来た。
中から、がやがやとクラスメイト達の楽し気な声が聞こえてくる。
小さく息を吐いて、リナは一歩を踏みしめる
教室の扉をくぐると、一人と目があった。
体育の授業で私がしゃがみ込んだ時、声をかけてくれていた女の子。
リナのことを、心の中ではあまりよく思っていなかったクラスメイトだ。
リナが教室に入ってきたことにきづいたほかの生徒から、『佐藤さんだ』と呼ぶ声が漏れて、気づいていなかった他のクラスメイトの視線が集まってくる。
ドッと鼓動が早くなる。
でももう一歩踏み出す。
そして、口を開く。
「お、おはよう」
元気よく挨拶をしようと思ったのに、それは思いの他に小さな声だった
でもそれが今のリナの精一杯。
むしろ言葉になっただけでもすごいのだと、自分を励まして、もう一歩。
「あ、うん、おはよう」
と、リナとは特別仲が良いわけではないけれど、教室の出入り口の近くにいる生徒の数人が、近くにいるがために挨拶を返してくれた。
なんだか気をつかわせたような感じがして、申し訳なく思いながらも、でも返してくれたことが嬉しくて、また一歩。
そして、次の一歩、もう一歩。
自分の席に向かって……と思ってリナははたと気付く。
自分の席が、分からない。
もともと座っていたはずの席には、他の子が座っている。
席替えをしているかもしれないということを、忘れていた。
傍から見れば些細な、しかしリナにとっては大変な非常事態に足が止まる。
「おはよう、佐藤さん」
と、聞き覚えのある声が聞こえて来た。
「……榊君、おはよう」
榊が、来てくれた。
彼も同じクラスだったと、ドキドキして余裕のない頭に、やっとそのことを思い出す。
「この前席替えがあって、佐藤さんの席は一番後ろの窓側の席になったんだ」
と言いながら、榊が、その机のところまでいってトントンと、ここだよという感じで指で机を叩いた。
「あ、そうなんだ。ありがとう」
ささいなことだったけれど、一瞬もうダメだと本気で思ったリナは、声をかけてくれた榊に感謝し、胸をホッとなでおろす。
そして、席の方まで、一歩、二歩、三歩。
右肩に掛けていたスクールバックを、机の上に置く。
そのかばんの重たさから、解放されてふうと息を吐き出した。
「今日から、復帰?」
榊が笑顔でそう問いかける。
「うん、多分」
「粟根先生には、いってあるの?」
「ううん、言っていない。でも、今日がうまくいけば、報告するつもり」
と、二人で話していると、わらわらと周りの女の子がリナの席の周りに集まって来た。
「リナじゃん! どうしたの? 心配してたんだよー!」
と言いながら女の子達の甲高い声でリナの周りが騒がしくなる。
「心配かけて、ごめんね。もう大丈夫になったから、今日から学校に通えると思う」
集まるみんなにリナはどうにかそう言った。
集まってきたクラスメイトの中には、男子もいたが、思ったよりも落ち着いて対応できている自分にリナは安心した。
こんなに人に囲まれたというのに、力の暴走だってない。
それに、力を使わなくても、そばに来てくれた女の子達の気持ちはなんとなくわかる。
リナを心配してたんだといって、集まってきてくらた派手な女の子は、よく見ればチラチラと榊の反応を伺っている。
目的は榊で、リナを餌にして、榊君と話したいのだろうとリナはすぐにわかった。
きっと前のリナならば、それに気付くと、なんだか嫌な思いをしたかもしれないが、今は、それほど、気にならない。
そういう気持ちを抱くのだって、とても人間らしい感情で、年頃の女の子のそういう気持ちをリナだって、分からなくもない。
自分だって、きっと、そういうことがあれば、そう思うかもしれないのだから。
とはいえ、この気の強そうな女の子達と自分が仲良くなれるのかと言われると、なんともいえないところではあるけれど。
そんなことを思いながら、とりあえずは、大きな一歩を、リナは踏むことができたのだ。
次の日も、そしてまたその次の日も、リナは授業を受けることができた。
力の暴走なく、穏やかな気持ちで。
クラスの子達との触れ合いは、最初の頃は物珍しさで人が集まってきたけれど、それは最初だけで、すぐにそういうことはなくなった。
そのことが悲しいというよりも、どちらかといえば、ほっとした気持ちが強い。
「佐藤さん、今日も粟根先生のところに行くの?」
昼休みの時間、一人で自分の席で本を読んで時間を潰していたリナに、榊がやってきてそう尋ねた。
空いている私の前の席を陣取って座る。
「うん、行くつもり」
「そう。それで、まだ粟根先生に、学校に通えるようになったこと、報告してないの?」
榊にそう言われて、ドクンとリナの胸が鳴った。
榊から視線を逸らして重い口を開く。
「うん、まだ言ってない。もう少し、ちゃんと通えたら言おうと思って……」
と、リナはまごまごと言いにくそうに答えた。
リナは、未だに、粟根に、学校に通い始めたことを告げていない。
最初は、言おうと思った。
通えるようになったことをこれまでお世話になった粟根に一番に報告しようと思っていた。
でも、できなかった。
リナは、思い出してしまった。
リナが粟根のところで働くことはできるのは、リナが学校に通えるようになるまで。
最初、そういう話で、アルバイトを始めていた。
つまり、学校に通ってしまったら、もう……。
「早めに言った方がいいよ。この前粟根先生に、俺聞かれたよ。佐藤さんのこと。なんか最近、元気がないんだけどって言われて」
「ええ!?粟根先生が!?そ、それで榊君、なんて言ったの?」
「あれ? と思ったけど、佐藤さんが言ってないんだと分かったから、何とか誤魔化しておいたけど。先生はさ、佐藤さんのことを心配してるよ。だから俺に聞いてきたんだと思うし」
「うん……分かってる」
と答えて、リナは重い気持ちになった。
分かってる。分かってるのに、体が動かない。
しないといけないと分かっていることから目をそらしてしまう自分が、嫌になる。
いつものリナの悪い癖だ。
少しは成長できたと思ったのに、そういうところは嫌になるほど変わらない。
「分かってるなら、先生に言ってあげた方がいいよ。というか、どうして言わないのか分からないな。先生だって喜ぶよ?」
「そう思うけど……でも」
榊は知らないからそう言えるのだと、お門違いな苛立ちを感じるリナ。
「何か、あるの?」
「私が、学校に行けるようになったら、先生のところにもうアルバイトできないかもしれない。もともとそういう約束だったから」
「えっ? そうなの?」
「うん……」
「ん? まさか、それで、言えなかったの?」
何ともないように言われて、リナはきっと榊を睨んだ。
しかし、榊はそんなことは気にせず、「バカだなぁ」と言って笑っている。
「榊君、ひどい」
少しばかり目に涙をにじませてリナがそう言うと、「ごめんごめん」と軽い調子で謝る榊。
「うーん、俺の初恋の君は、思ったよりもアホの子かもしれない」
「何それ……」
と、榊が突然変なことを言うものだから、リナは視線をそらして不満そうに口を尖らせた。
「というのは、冗談でさ。それなら、先生に学校には通えるようになったけれど、これからもここで働きたいですって言えばいいだけの話に俺には思えたよ」
「そ、それはそうだけど、でも、もしダメだって言われたら? 私はもう、必要ないって、そう言われたら、私……もうあそこに戻れないんだよ?」
「先生はそんなこと言わないと思うけどな」
「そんなの、わからないよ」
「まあ、そうだけど。でも、佐藤さんが隠したいことは、結局ずっと隠せるものでもないよ。先生は鋭い人だし、いつかはバレる。それならやっぱり自分の口から言った方が良かったって後悔すると思うな」
「そう、だよね……」
先程から榊のいうことは、リナにとってもっともなことばかりで、耳がいたい。
分かっている。言わないといけない。
そう思うのに、また、こんな風にくよくよ悩んで立ち止まってしまう自分が悲しい。
粟根あやかし診療所と書かれた古ぼけた看板を掲げた建物を前に、リナはスッと息を吸って大きく吐いた。
「今日こそは、粟根先生に言おう。言って、お礼を言いたい」
そう一人ぶつぶつと呟く。
学校に通えるようになった。
力を暴走させずに日々を過ごすことができるようになった。
ありがとうという感謝の気持ちを伝えて、そして、できればこのままここで働きたいと言うだけ。
それだけだ。たったそれだけのことだ。
リナはそう自分に言い聞かせる。
こんなことで、こんなに緊張している臆病な自分を本当に恨めしく思いながら、目の前の扉を睨むように見つめる。
この扉を開けて、粟根のいる心療室へ。
そして、報告するだけ。
何度も行なった脳内シミュレーションを繰り返していると、目の前の扉が、キイと音を立てて開いた。
え、と固まるリナの前に、扉を開けて、不思議そうにリナを見下ろす粟根がいた。
「あ、ああ粟根先生!? どうしたんですか!?」
「それは、こちらのセリフですけど……」
と、粟根がリナを見下ろしながらかすかに首をかしげる。
リナの心臓の鼓動が高くなって、なんて言おうかと頭を真っ白にさせていると、再び粟根の口が開かれた。
「えっと、リナさん、とりあえず、中へ。ちょうど話したいことがあったんです」
そういう粟根の顔には、何故かどこか寂しそうな顔で、いつもの穏やかな微笑みがない。
「話したいこと、ですか?」
「ええ。誰もいませんし、とりあえず、ここに座りましょうか」
そう言って、粟根はリナの背中を押して中に誘導すると、待合室の背もたれのない白いソファに座らせた。
粟根はリナのその前にある同じデザインのソファに座る。
何とも言えない改まった雰囲気だ。
「リナさん、私に隠し事がありませんか?」
粟根がそう問いかけたものだからリナは思わず息を飲んで身を引いた。
「か、隠し事、なんて……」
ありませんと言えば、嘘になる。
でも、堂々とありますとは言えずに、途中で言葉を止めた。
追求するように粟根がまっすぐにリナのことを見る。
「先日、リナさんのお父さんがこちらに来てくださいました。無事に学校に通えるようになったというお礼に来てくれたんです」
粟根の言葉に、リナは、ああそうだったと思い至った。
リナは、父に口止めのようなことをしていなかった。
新しい学校生活に慣れるのに必死で、すっかり、忘れていた。
義理堅い父の性格から考えて、粟根のところにお礼をしに行くことは十分に考えられることだったのに。
今日学校で、榊と話していた内容を思い出す。
いつかは知られることなのだから、自分の口から言えなかったことを後悔するよ、と。
まさしく、その通りだった。
「どうして、僕に、直接言ってくれなかったんですか?」
そう尋ねる粟根の顔は悲しそうだった。
今までいつも飄々としていて、基本的にリナの前では笑顔を絶やさない粟根が見せた、初めての表情にリナは固まった。
「何か、私は、リナさんに失礼なことを?」
戸惑うリナに畳み掛けるように粟根が問いかける。
「リナさんの信頼を裏切るようなことをしてしまったでしょうか?」
そういう粟根の顔が本当に悲しそうで、リナは思わず椅子から立ち上がった。
「いいえ! 違います! 違うんです! すみません、先生! 先生は全然悪くなくて、悪いのは、私、なんです!」
そうほとんど泣きながらリナが声を出すと、今度は粟根が戸惑うように目を見開いた。
「それって、どういう……?」
「あの、私が、弱虫で、だからずっと、言えなくて……。だって、言ったら、アルバイトを辞めなくちゃいけないって……だから、いい出せなくて。いつか言おう、いつか言おうってずっと、思って、でも、言えなくて……先生、すみません」
リナの話を静かに聞いていた粟根は、リナの話が落ち着くと不安そうな顔で、口を開いた。
「すみません、リナさん、その、リナさんに私が失礼なことをしてないというのはわかったのですが、アルバイトを辞めなくていけないっていうのは、どういう意味ですか?」
粟根のその言葉に、今度はリナが目をパチクリとさせた。
「あの、ここでアルバイトすることになった時、私が学校に通えるようになるまでっていってたから……」
とリナが小さく答えると、粟根があっと口元に手を持っていった。
「そういえば、そのような話を、してましたね」
どうやら、粟根はそのことをすっかり忘れていたらしい。
今思い出したとばかりの表情だ。
「え、先生、忘れてたんですか?」
そう問いかけるリナの言葉は小さかった。
「すみません、そうでした……リナさんはそういう話で、ここでお手伝いしてくださっていたの、でしたね。すっかり、忘れてしまって……。そうなると、学校にも通えるようになったので、リナさんはここを辞めたいということ、ですか?」
先程から粟根の表情は初めて見る顔ばかりだ。
今はどこか寂しそうな目をしている。
「いえ、あの、私、辞めたくなくて……それで、学校に通えるようになったこと、言えなかったんです……」
リナがそういうと、粟根は大きく息を吐き出した。
そして絞り出すような声で、「良かった」と一言。
顔を下に向けて額に手を当てて、頭をもたげている様子は、リナの目に意外に映った。
だって、リナの眼に映る粟根という男は、いつもいつも余裕な感じなのだ。
けれど、先程から先生は、そのいつもの大人の余裕を失っている、ような気がする。
「せ、先生……?」
「すみません、なんだかほっとして……。僕としてもリナさんがここで働いてもらえるなら嬉しいです。
「えっと、じゃあ、私、またここに来てもいいんですか……?」
「もちろんですよ。むしろそうして欲しい。その、リナさんが入れてくれるお茶も、時折用意してくれるお菓子も好きですし、助かってますし……」
とうなだれるように話す粟根は途中で話を止めて、リナの顔をまじまじと見る。そして再び口を開いた。
「いえ、違います。僕の気持ちは、それだけでは、ないんです。リナさんがいてくれて助かっているのは本当ですが、それだけではなくて……リナさんが側にいてくれることが、なんだか当たり前になってきてしまって……だめですね。恥ずかしながら、僕はリナさんがアルバイトを辞めるかもしれないと思った時、頭が真っ白になってしまいました」
そう言って、微笑む粟根の言葉に、リナはほっとしたような、今までぐちぐち悩んでいた自分に呆れるような、そんな複雑な心境で、目に溜まっていた涙が溢れてきて指で拭う。
「なんだか私も、ほっとしたら、涙が。ふふ、私、本当にバカですよね。こんなに悩んで、ずっと言えなくて、もっとはやくに粟根先生にこんな風に相談すればよかったのに、なんだか結局動けなくて……少しは成長できたと思ったのになぁ」
と泣き笑うような、そんな表情でリナが言う。
「いや、リナさんはたくましくなられました。本当に、あっという間に……。僕の方こそ、すみません。こんな仕事をしているのに、リナさんが悩んでいることに、気づけなかった。僕は、どうやら身近な人に対しては鈍感になってしまうようです。リナさんが、学校に通えるようになったことを話してくれなかったと知った時は、リナさんの考えていることがわからなくて……へこんでました」
そう片手を頭の後ろに持ってきて照れ臭そうに粟根は言う。
「粟根先生も、へこむんですか?」
「へこみますよ。私は普通の人間ですし」
と笑う顔はいつもよりも幼く見える。
「なんだか不思議です。先生は完璧な人だと思ってました。何も言わなくても、全部知ってるみたいな感じで……」
超然としていて、泰然としていて、達観してる、リナは粟根のことをそんな人だと少しばかり思っていた。
ありえないとは思ってはいても、どうしてもそう思ってしまう部分がある。
「はは、完璧な人なんていませんよ。……でも、リナさんがそんな風に思っていたとなると、これから一緒にいるうちに、どんどん僕の化けの皮が剥がれて、幻滅させてしまうかもしれませんね」
と少し神妙な顔つきになる粟根に、リナの口から自然と笑い声が漏れた。
「いいえ、そんなことはないです。きっと、私は、先生のそういう素顔のようなものを見るたびに、もっと、ずっと……」
好きになります、と言う言葉を、どうにか飲み込んだ。
自分でも知らず知らずに言葉にしてしまいそうだったその気持ちを、リナは改めて自覚する。
好き、と言う気持ちを。
誰かを愛しく思う気持ちを。
知らないうちに、こんなに気持ちというものは大きくなるものなのだろうか。
自覚してしまうと、この気持ちの大きさに慄くばかりで……どんどん頭に血が上ってくる。
「どうかしましたか?」
突然言葉を止めたリナに粟根が不思議そうに、首を傾げた。
その傾げた時にさらりと粟根の黒髪が揺れて、メガネにかかる。
そのいつもの粟根の仕草すら、今のリナにとっては危険すぎて。
さらに体の熱が上がってゆく。
少しでも熱を冷まさなければと、顔に手を当て、リナは俯いた。
「あの、いえ、なんでも、なんでもないです!」
「そうですか……? そうは見えませんが……」
「えと、ですからその、これからも、よろしくおねがいしますって、言いたかったんです! ここで、粟根先生のところで……よろしくお願いします!」
リナはそう言って、真っ赤な顔を隠す目的も含めて、あらためて深々と頭を下げた。
「はい、リナさん。こちらこそ、よろしくお願いします」
という柔らかい粟根の声がリナの耳に届いた。
いつも聞いている彼の声なのに、なぜか今までと同じ気持ちではいられない。
その意味を、リナは戸惑いながらも、きちんと受け入れた。
自分の本当の気持ちを自覚し、受け入れるということは、こんなにも大変なのだと、改めて、思いながら。