雷様の夫婦喧嘩④
「じゃ、じゃあ、その方法ってなんなんだ? それをすれば、おでは光子と別れなくても、雷を鳴らさなくてすむんか?」
「ええ、鳴らさなくて済みます」
とすぐに答える粟根に吾郎が怪訝そうな顔をすると、粟根は光子の方に顔を向けた。
「光子さん、喧嘩になった時、ご主人の『へそ』についてのことは、言わないでもらいたいんです」
「へそについて? それは、言わないようにはしますけど……。それで、他には何をすればいいですか?」
「いえ、他には何もありません。それだけです」
「え? じゃあ、へそのことを言わないだけで良いんですか?」
「そうです。それだけ気をつけて頂きたいんです。実際に夫婦喧嘩の流れを見させてもらったところ、ご主人の怒りのトリガーは『おへそ』についてのことだとわかりました。その部分にさえ触れなければ、ご主人が雷を鳴らすことはなくなります。それに、光子さんは、本当は、へそのことを口にすれば、ご主人は我を忘れるほど怒ると、分かっているのではありませんか?」
粟根がそういうと、光子はハッとした顔をして、下を向いた。
「……言われてみれば、アタシ、主人がそのことを気にしているのを知っとる」
「でも光子さんは本気で、ご主人のおへそのことを悪く思っている訳ではありません。そうですよね?」
「……そりゃあ、300年連れ添った亭主のおへそよ。ブサイクだなんて思うわけないやないの」
『むしろあの形がキュートで可愛いって思ってる』
「そんなわけがねぇ! いいんだ、光子。気なんて使うな。思ってねぇなら、あんな風に口に出る訳ねぇ」
と悔しそうに、吾郎が言った。鬼の目には先ほどから涙が滲んでいる。
「いえ、本当に、光子さんはそんなこと思っていませんよ。リナさん、光子さんの心の中はどうでしたか?」
粟根に話を振られて、リナは小さく頷いた。
「確かに、光子さんはそう思っていないです。そのむしろご主人のそのおへそが、キュートで可愛いって、あの、言ってました」
とリナが先ほど聞き取った光子の心の声を素直に伝えると、光子が目を見開いた。
「ええ!? なんでアタシがそう思ってることがわかるん!?」
「すみません、紹介が遅れてしまいましたね。彼女は私の助手をしてくれいる佐藤リナさんといいまして、妖怪サトリの力を持ってます。心の声を聞くことができるんですよ」
とあっさり明かす粟根にリナのほうが嫌な汗を流した。
こんなこと普通の人間に話せば、気持ちが悪いと怖がられる。
そう思ったが……。
「そうなんか!」
「便利ねぇ」
と、リナの予想に反して、二人の鬼は感心したようにリナを見て、あっさりと納得した。
妖怪はそのあたり気にしないと以前から言われてはいたが、本当に気にしないようだ。
「リナさんがそういうのですから、確かに光子さんはご主人のおべそのことを悪くは思っていないと思います」
「じゃあ、光子、なんでそんなこと言ったんだ……」
「つい……カッとなって……」
「ついかっとなっていったちゅうことは、それが光子の本心なんじゃないんか……?」
と悲しそうに問い返す吾郎に、粟根が首を横に振った。
「いいえ、そういうことではないんですよ、吾郎さん。怒りなどで我を忘れた時に言う言葉は、その人の本心なんだと、皆さん思いがちなんですが、逆なんですよ。怒っている時に出る言葉というのは、ほとんどが本心ではありません」
「え、それって、先生、どういう意味なんですか?」
と思わずリナも話に入る。
怒っている時の言葉は本心ではない、とは言うが、夫婦喧嘩中の心の声を聞き取ったリナからすれば、思っていることと発している言葉は同じような気持ちのものだったと感じた。
そんなリナに、そして、まだ飲み込めていない鬼の夫婦に、諭すように柔らかな笑みを浮かべて粟根は口を開く。
「本当に怒っている時は、相手を傷つけたいという思いが強く働くんです。自分はこんなに怒っているのだから、相手も同じぐらい嫌な思いをしてほしいって思ってしまう。ですから、相手が一番言われて傷つく言葉を選ぶんです。自分がそう思っているというわけではなく」
そういうこともあるのかと、リナは粟根の言葉を聞いて、心の声を思い出す。
「確かに、喧嘩の時、光子さんがご主人のおへそのことを言っている時の心の声は、ただの怒りの表現でした。イライラする、とか、頭に来た! とか、そういう感じの声で、へそについてのことを言ってません……」
リナのその言葉に粟根は柔らかく頷くと、再び夫婦の方に視線をよこす。
「夫婦と言うものは、長年一緒にいるからこそ相手のことをよく分かっています。よく分かっているからこそ、相手が一番傷つく言葉も分かってしまう。300年も一緒ならば尚更でしょう。ですから夫婦喧嘩というものは、なかなか激しいものになりやすいんですよ」
「そう、なんか……。じゃあ、光子は、おでのデベソのこと……」
と言って吾郎が光子を見る、光子も吾郎を見つめた。
「怒ると雷鳴らすとこは、いやだけどね。今まで一緒にいたんだもの。アンタのデベソも含めて、愛しいと思っとる」
そう光子がその赤い肌をさらに赤くさせてそういうと、感極まった吾郎が、「光子……!」と名を呼んで二人は抱き合った。
しかし、泣きながら抱きしめ合っていた吾郎が、ふと思いついたような顔をして、体を離す。
「いや、でも、光子が怒って、おでのデベソのこと言うようになったんは、なんでや? 今までも喧嘩はしたことあるけど、デベソのことを言うようになったんは最近やし、今までそんなことなかったやろ……?」
「それは、なんか最近イライラして……。ほら、頭痛もひどいし……」
と光子もうーんと頭をひねる。どうやら本人もその原因はよくわからないらしい。
「その件なのですが、光子さん。もしかしたら、光子さん、妊娠しているかもしれません」
「「なんて!?」」
「リナさんが、光子さんの心の声を聞こうとするとき、雑音が入る時があると言ってました。もしかして、お腹の中にいるお子さんの声なんじゃないかと思うんです」
というと、鬼の視線がリナに集まった。
その視線に戸惑うようにして、リナは口を開く。
「あ、はい、確かに、光子さんの心の声には、雑音みたいな、誰かの声のようなものが混ざる感じなんです。声にはならない声、というか」
そして夫婦の視線は、ヒョウ柄の布に覆われている光子のお腹に視線が向いた。
「鬼にもよりますが、妊娠の初期には、イライラ感が強くなったり、頭痛がしたりします。この時期に喧嘩されるご夫婦は結構多いんですよ」
「た、確かに、最近月のものがきてない……!」
「ほんとか、光子!」
と言って、夫婦はわたわたと立ち上がった。
「とりあえずは、専門の方に見てもらったほうがいいでしょう」
と粟根が笑っていうと、鬼の夫婦は二人そろってうんうんと頷いた。
「ええ、そうします!」
「先生、そんじゃあ、すんませんけど、ここで帰らせてもらいます!」
そう言って、雷様の夫婦は、慌ただしく心療室を後にした。
「まさか、あの声が、赤ちゃんだったなんて……」
なんだか息ぴったりの鬼の夫婦が去って静かになると、リナは思わずそう呟いた。
「光子さんの様子を見て、もしかして妊娠されてるかもしれないと思ってはいたのですが、決め手に欠けていて、リナさんの一言のおかげで確信が持てました。本当にありがとうございます」
「いえ、そんな……私は、ただ、聞いてるだけですし……」
「それが、すごいんですよ。それに、リナさんは、お強くなりました。以前のリナさんなら、夫婦喧嘩中の心の声を聴いてほしいなんてお願いはできなかったでしょう。心の声はもちろん、表に出てくる言葉に対しても、リナさんは、誰かの声というものに怯えていましたから。でも、今のリナさんならお願いできると思って、あの場にいてもらったんです。そしてリナさんはそれをなんなく成し遂げてみせてくれました」
そう言って、眩しそうに目を細めて、粟根が穏やかに微笑む。
なんだか、認められたような気がして、リナは何故か、泣きたくなった。
「もし、本当に、先生が言うように、私が強くなったのだとしたら、きっと、それは先生や、ここで出会った皆さんのおかげです。悩みを抱えているのは一人じゃないと教えてくれて、強く旅立つ姿を見せてくれて、心の弱さを知ることができました」
リナがそういうと、粟根は少しばかり目を見開いて、そして、再び目を細めた。
「リナさんは、本当に素直な方ですね。徹さんが大事に育てたのだなと分かります。私には、少しまぶしすぎて、たまに直視できないぐらいですよ」
と言いながら、微笑む粟根はリナを見つめてくる。リナは顔を赤らめて目を伏せた。
「とかいいつつ、先生、私のこと今、めちゃくちゃ見てるじゃないですか」
自分は粟根に見つめられると、恥ずかしくなって目を伏せてしまうというのに。
「そうですね。なんだかんだで、目が離せないみたいで」
とクスクス笑って揶揄う粟根に、リナは不満そうに頬を膨らませたのだった。
後日、雷様の夫婦から、やはり妊娠していたという嬉しい報告が心療室に届いた。
300年一緒にいても、子宝を授からなかったので、諦めていたところでの妊娠で、二人はとても幸せそうだ。
あれ以来、光子さんも、ご主人のデベソのことは言わなくなって、ちょっとした喧嘩はしても雷が鳴るようなことにはならないらしい。
そして、吾郎の癇癪を治して、イクメンに仕立てて欲しいという、光子さんからの相談を受けて、吾郎さんが個別で粟根のところに通うようになった。
粟根は、「ここはイクメン養成所ではないんですけどね……」と言いながらも引き受けている。
そして吾郎さんは心療室にくると、いつも楽し気に、光子さんとそのお腹様子を話してくれる。
それを聞くと、リナはとても幸せな気分になるのだった。