恋する吸血鬼④
榊は、それからは、心療室に通い始めた。
粟根から、榊の治療のために、しばらく顔を合わせない方がいいと言われたので、榊が来る時間は奥にひこんで顔を合わせないように注意した。
そんな日々が10日ほど続いた頃、いつものように学校の保健室で課題を行い帰ろうとしたリナのところに、榊がやってきた。
リナはどきりとした。
会わなかった期間は10日ほどだったはずなのに、以前あった榊とは、顔つきが違っていた。
最後の彼は一生懸命衝動を抑えこむのに必死で目が充血していたし、顔もどこか疲労の色があった。
でも、今目の前の彼の顔色はとても鮮やかだ。
そんな彼はリナに声をかけると、天使の微笑みを見せた。
「ごめん、佐藤さん、急に呼び止めて」
「榊君、授業は……?」
「ああ、教室の窓から佐藤さんが保健室から出てくるところが見えたから、抜け出してきたんだ。ほら、うちクラスの教室から保健室の出入り口が見えるから」
そう話しかける榊の声もどこか晴れやかで、リナは戸惑う。
「そう、なんだ……」
「うん、それで、話しかけたのは、どうしても、伝えておきたいことがあって……。あ、あと渡したいものもあるんだけど……」
と言った榊が、ブレザーのポケットから小さな包み紙をとりだして、リナに差し出す。
リナは渡されたそれを恐る恐る受け取った。
「これは……?」
「先生が、その、吸血衝動を抑えるために何か他のことにエネルギーを使うと良いっていわれたから、刺繍を始めたんだ」
「え!? 刺繍!?」
榊君が!? 意外過ぎる!
という声はどうにか飲み込んだ。
リナも確かに何か他のことにエネルギーを使うといいという粟根の言葉を覚えていたが、運動神経抜群な彼のことなのでスポーツを始めるのだろうと勝手に思い込んでいた。
「そう、刺繍。包みを開けて見て」
榊にそういわれたリナは、渡された紙包みを開ける。
「あ、ハンカチ……もしかして、このお花のところ、榊君が刺繍したの……?」
リナの手元にある白いハンカチには、赤いチューリップの花が刺繍されていた。
素人の手で刺されたとは思えないほど綺麗な出来である。
「うん。その、佐藤さんには不快な思いをさせてしまったと思うから、その、お詫びの気持ち」
そう少し照れるように榊がいうと、リナは申し訳ない気持ちになった。
榊に、リナはひどいことを言った。
自分でもひどいことを言ったと、思っている。
気持ち悪いと、しかもそれを自覚し、気落ちしている彼を目の前にしてそのまま言葉にした。
リナは、今更ながら、いや、前々から感じていた罪悪感を一層強めた。
今まで、距離を置いていたのも、彼の吸血衝動を抑えるために仕方なくというわけではない。
彼と会わなくて済むことにほっとしていた。
それは、リナが同年代の男子が苦手だからという理由ではない。
あの時、榊に言ってしまった言葉がずっと胸に刺さっていた。
一度言葉にしてしまったものは、もうなかったことにはできない。
人を傷つける言葉と言うのは、言った人のところにも戻ってきてトゲのように刺さるのだと、リナは初めて知った。
あの時、リナは自分の感情にふりまわされて、周りを思いやることができなくなっていた。
人の心は汚いと、気持ち悪いと、そう他人を罵しって、まるで自分の心は綺麗なのだと思っているかのような自分が嫌になる。
―――全然、そんなんじゃ、ないのに。
「榊君……ありがとう。ごめん、ごめんね。私、すごくひどいことをいったよね。ごめん」
そう言って、リナはとうとう涙した。
ずっとずっと、あの時の自分の言葉が胸に痛かったのだ。
自分の不甲斐なさに、愚かさに、どうにもならない自分の心に、そしてひどいことを言葉にしてしまった自分の弱さが許せなかった。
「謝らないで、佐藤さん。俺が悪いんだし、それに、佐藤さんの気持ちもわかるよ。言ってることも当然のことだと思う」
「そんなこと、ないよ。私、ずっとずっと榊君に謝りたかった……。榊君は、私が、人の心を読めるって聞いても、普通にしてくれたのに、私は、あんなひどいことを言って……。榊君は気持ち悪くなんかないよ。優しい人だと思う。私と違って、周りをちゃんと思いやることができる人なのに、それなのに、私……本当に、ごめんなさい」
そう言って、リナは、頭を下げた。
ぽたりぽたりと流した涙が廊下に落ちる。
「佐藤さん、顔を上げて。本当に、俺が悪いんだし、でも、そんな風に言ってくれて、ありがとう。やっぱり佐藤さんは優しいね」
そう笑いながら榊は言って、リナの頭を上げさせる。
リナは先ほどもらった堺のハンカチを目元に持っていって、それに涙を吸わせた。
「それで、その、今日は、このハンカチを渡すのと一つ報告したいことがあって……」
リナが落ち着いてきたタイミングで、榊がそう口にした。
「報告……?」
「うん、その、佐藤さんに対する吸血衝動が、少しだけ落ち着いて来たんだ。それで、今日は、その確認も兼ねて佐藤さんに声をかけたのもある。ちょっと危ない時もあったけど、どうにか抑えられそう」
「そっか、よかった。粟根先生のところにこまめに通ってたもんね」
「うん、ありがとう。あの時、粟根先生に、吸血衝動は……人を好きになる気持ちというのは、自然なことだから、恥ずかしい気持ちじゃないっていわれて、すごく嬉しかったんだ。きっとあの時、あの言葉で俺はすでに救われてたんだと思う」
そう榊は言って、照れたように頬を染めた。
その顔の晴れやかな顔に、彼の問題がひと段落したのだと感じてリナも嬉しく思った。
「そっか。よかった。本当に……。それじゃあ、もう粟根先生のところには来ないの?」
「うーん、もう少し通うつもりでは、あるけど……。佐藤さんは、しばらくまだあそこでアルバイトをする予定?」
「うん……。私が学校に通えるようになるまでは、あそこでアルバイトすることになっていて、まだもう少しかかりそう」
「そっか……」
と頷いた榊が、少しだけ口を噤む。そして、大きくつばを飲み込むと再び口を開いた。
「あの、佐藤さんって、粟根先生のことが好き、なの?」
唐突な榊の質問に、リナは目を見開いた。
「ええ!? なんで、そんな話を!? べ、別に、好きとかじゃないよ! あ、もちろん尊敬はしてるよ、お世話にもなっているし……」
と、戸惑うようにリナが顔を赤らめてそう言う。
お梅にも、こんな風に、リナが粟根を好いていると勘違いをされていた。
もしかしたら、自分が気づかないところで、そんな態度を知らず知らずにうちに取っているのだろうか。
そう思うと、何とも言えない恥ずかしさが胸にこみ上げていた。
そんなリナを見て、榊は「そっか……わかった」と言って大きく一つ息をはいた。
そして、榊は真剣な目で、リナを見つめる。
思わず、どきりと胸が高鳴った。
そして彼は口を開いた。
「それなら、一つ伝えたいことがあるんだ。実は、俺、今度は、粟根先生に対しても、少しだけ吸血衝動が起きて来てて……」
と至極まじめな顔で榊は言った。
しばらく彼の言葉の意味を飲み込めないでいたリナだったが、ややして、やっと理解した。
「え、あの、それって、その……」
「そういうこと、なんだ。粟根先生は、それは陽性転移というもので、一時的なものだとは言われてはいるけれど、もしかしたら、佐藤さんと俺は、その、ある意味ライバル関係になるかもしれない……。あ、それじゃあ、そろそろ授業に戻るから! じゃあまた!」
と榊は言い捨てて、慌ただしく廊下を走って去って言った。
「えっ、えっ? えーっ!?」
と、授業中の静かな学校の廊下に、青い顔で戸惑うリナだけが残されたのだった。
粟根あやかし心理相談所に、良いことなのか、悪いことなのか、新たな常連のご相談者さんができた。
受付室にいるリナの目の前に立っている男、榊翔太その人である。
粟根との相談が終わった榊が、次回の予約を取りにリナのところに来たところだった。
「また榊君、来てたんですか」
先ほどリナはここに出勤したばかり。
どうやらリナが来る前に、彼は来ていたようだ。
時間的に見て、学校が終わってすぐにここに向かっていたことになる。
「比較的、自制しやすくなったけど、吸血衝動が完全になくなったわけじゃないからね」
と、どこか余裕の様子でいう榊をリナは不満そうに睨みつけた。
「いやだな、佐藤さん。女の子がそんな顔をするなんて良くないよ」
そう余裕そうに見える笑顔でいうものだから、リナはますます口を尖らせた。
「榊君には、自分の悩みを解決する以外に、不純な動機を感じます!」
「ひどいな。もしかして俺の心の中でも読んだ?」
「読んでません!」
自分から言ったんじゃないかと、リナは目で訴えると、榊も楽しそうに笑った。
そこに粟根が待合室に入ってきた粟根がそんな二人の様子をみて。
「あれ、結構二人、仲良くやってるみたいですね」
というものだから、リナはさらに口を尖らせて、粟根の方を見た。
「粟根先生! ちっとも仲良くなんかやってませんよ!」
「先生! 見送りに来てくれたんですか。嬉しいなぁ」
声を荒げるリナと、リナのことは置いて粟根の登場に嬉しそうに答える榊。
「二人とも自然に振る舞えてる感じがします。リナさんももう同年代の男の子に対する嫌悪感は、あまり感じなくなって来たのではないですか?」
「それは、まあ、そう、かもしれないですけれど。榊君の場合は特殊というか……」
なんというか……。
リナの言葉にできない複雑な気持ちのことには気づかず粟根はさわやかな笑顔を向ける。
「いや、それでも、少しずつ慣れていってるってことですから」
「そ、そうでしょうか」
そんな二人を見ていた榊が、不意に先生の方へと近づいた。
「あの、先生、大変です。俺の吸血衝動が、また……!」
と言って、榊が粟根を見る。
「あ、うん。落ち着いて榊さん。なんども言ってるけれど、その気持ちは陽性転移と言って、自分の気持ちをわかってくれたカウンセラーに対して、恋心を抱いているような気がする場合があるんだけど、でも、そういうものだからさ、これも時間の経過とともに、落ち着く気持ちで……。というか、榊さんは、もうその辺分かっているでしょう? 本命と親しくなりたいがための出汁にされる僕の気持ちも考えてもらえると……と言いますか、後々、榊さんが後悔をするんじゃないですか?」
と少しばかり意地悪な笑みで粟根が言うと、榊はさっと顔を赤らめた。
「べ、別に、そういうのでは……! ほんと、先生のその、なんでもお見通しなところは嫌になります」
といじけるように下を向く榊。
しかしすぐに顔を上げて、粟根を見る。
「と、とりあえず、この気持ちは本物ですから。そういうことにしてください」
「あ、うん、まあ、じゃあ、それでいいですけど」
と、諦めたように粟根はため息を吐いて、うな垂れた。
「では、先生、また。あ、佐藤さん。次の木曜日の同じ時間に俺の予約入れておいてくれるかな? よろしくね」
そう言ってなんだか一皮向けた榊は、颯爽と去っていった。
そんな榊の背中を見送ってから、リナは微かに眉根を寄せる。
「良く本や映画で『恋が人を強くする』なんて聞きますけれど、榊君、先生と知り合ってからかなりたくましくなりましたね」
リナが思わず呟いた言葉に、粟根も小さく頷いた。
「まあ、でも、彼が言っている僕への気持ちのようなものは、もうとっくに落ち着いているんですけどね。彼もそのことはとっくに自覚しているみたいですし」
「そうですか? さっきだって、先生への気持ちは本物だとか言ってましたけど」
と不満そうに口を心なしか尖らせてリナは呟く。
「はは、彼の場合は、そういうことにしたいのでしょう。というか、それは私に言った言葉ではなないかもしれませんね」
「えっ、先生に言っていたんじゃないですか?」
「いや、それは……」
と、答えようとした粟根が、途中で言葉をとめてリナの方を見た。
そのあとなかなか言葉が続かない粟根に、リナはかすかに首をかしげる。
「どうかしたんですか?」
「いいえ、なんでもありませんよ」
「でも、お話の途中でしたけど」
「そうでしたか? うーん、何を言おうとしたのか、ど忘れしてしまいました」
と粟根はニッコリと、目を細めて笑う。
この笑顔はずるいと、リナは常々思っている。
こういう笑い方をするときはたいてい知りたいことを教えてくれないのだ。
思わず梨奈は目線を下に逸らした。
それに、この有無を言わせないような余裕の笑みを見せられると、リナはドキドキしてそれ以上話を突っ込めなくなる。
少しばかりの反抗と、リナが小さく「先生はずるいです」と呟くと、粟根のクスクスと笑う声が響いた。
「ええ、本当に、私は結構ずるい大人のようです」
粟根はそう言って、未だ俯くリナを楽しそうに見つめていた。