恋する吸血鬼③
なんともいたたまれない気持ちになり、早くこんなことを終わらせたいと、救いを求めてリナが粟根に縋ろうとしたとき、榊が口を開いた。
「あの、俺のこと、なんだけど、もう聞いてるかもしれないけれど、俺は、祖先が吸血鬼なんだ。よく本とか映画に出てくるの人の血を吸うモンスター。とはいっても、もうそのモンスターの血も薄れ過ぎて、日光の下でも平気だし、ニンニクも食べれるし、十字架も怖くない。同じ吸血鬼の血を引く親戚の中には、クリスチャンもいるぐらいで。でも、俺みたいにたまに吸血衝動に駆られる人が一族の中からたまに出てくる」
「吸血衝動……? それって、人の血が吸いたくなる、ということ?」
リナが恐る恐る尋ねると、榊は下を向いたまま、微かに頭を上下させた。
「高校に入って、その、佐藤さんと出会って、それから突然そういう衝動に駆られるようになったんだ。初めてのことで、戸惑って、両親に相談した。そうしたら、吸血衝動に芽生えたら、もう抑えるしかないんじゃないかって。そりゃそうだよね、普通に考えて、いきなり噛み付いて、吸い付いたりしたら、犯罪者だ……。でも、抑え方が、分からなくて、両親も分からないからって、あまり取り合ってくれなくて、それで、親戚のお兄さんに相談したら、どうしても衝動が抑えられそうになかったら、粟根先生を頼ればいいと言われて、今日きてみたんだ。そしたら、佐藤さんがいて……」
と言って、何かを堪えるように、榊はつばを飲み込んだ。
充血したような目がリナを捉えていて、リナは少しばかり身を引いた。
「佐藤さん、ごめんね。気持ち悪いと思うけど、俺、君を見てると、その、無性に吸い付きたくなるんだ。その肌に、牙をたてて血を吸いたいって、そう思ってしまう。もう牙なんて生えてもいないのに……」
榊の告白に、愕然としてリナは眉根を寄せた。
「えっと、それはその……どういう、意味? 私のことを、噛みつきたいって思うほど、嫌いって、こと?」
「俺は、初めてのことでよくわからないんだけど、さっき粟根先生に相談して……先生が言うには、それは、恋なんじゃないかって……」
「……え? 恋……? それって、榊君は、私のことを好きってこと……?」
それはリナにとって、衝撃の一言だった。
今まで生きてきて、異性から愛の告白のようなものを受けたのは始めて。
しかも相手は、学校一のイケメンと言われている榊である。
もしかしたら、何も知らなかった以前のリナならば、もう少し普通の告白だったならば、彼の告白に舞い上がって付き合い始めていたかもしれないが……。
少しばかり顔をうつむきながら、肯定を示すように頷く榊の顔をリナはマジマジと見つめた。
一体どう言うつもりなのかと、少しだけ責めるような目で。
「意味が、わからないです。榊君は好きな女の子に噛みつきたいって、血を吸いたいって思うってことですか……?そんなことを考えているんですか?」
榊の告白は、今のリナには受け入れられるものじゃなかった。
あの時の体育の授業で初めてリナの力が暴走してしまった時のことが脳裏によぎる。
下品な男子たちの声が蘇る。
「そういう、ことになる。それは、ごめん。自分ではどうにもできないんだ。気持ちってそういうものだと、思う」
と、榊は、申し訳なさそうに目線をふせてそう答えた。
リナは、そんな榊に、かつての体育の授業で聞こえてきた男子の声が重なって聞こえてきて……唇が震えた。
そしてその震えを隠すように、リナは口を開けた。
「でも、そんなの、そんなこと、勝手に思われているなんて……気持ち悪いです! すっごく気持ちが悪いです!」
思いのほかに大きな声が出た。
自分でもびっくりするほどに。
自分も口から漏れた『気持ち悪い』という言葉に驚き、そしてそれを言われた榊が、悲しそうに瞼を閉じている姿が目に入る。
「リナさん」
先ほどまで傍観者を決め込んでいた粟根が、リナに声をかけた。
その声色が、いつもと違って低くて、リナはびくりと肩を揺らした。
「なんですか、先生……」
「人の気持ちも、あやかしの気持ちも、生きているものたちの心というものは、なかなかままならないものだということ、リナさんだって、知っているでしょう?」
粟根にそういわれて、今までこの心療室で出会った人たちのことを思い出していた。
分かっている。分かっている。分かってはいる。
リナは分かっているけれど、それでも、いつも受け入れられない。
「でも、頭の中でそんなことを考えてるなんて、最悪です。卑怯ですよ! そう思いませんか? 頭の中じゃ、拒否することもできないじゃないですか!」
「では、頭の中だけではなくて、実際に行動に移せばリナさんは満足ですか?」
そう粟根に言われて、リナはハッと息をのんだ。
そういわれてしまうと、その気持ちを表に出すことなんてあってはならないことだった。
心の中で思っているだけの方が平和だ。
誰もがそう思っている
だから、みんなそうしているのだ。
ときには、そうするために忍耐が必要とされる場合もあるかもしれない。
目の前の榊と同じように。
それでも、みんな自然に振る舞おうとしている。
それが自然なことなのだ。
ただ、リナの勝手に心の中を覗いてしまうこの力こそが異質で、その自然なことに反しているだけで。
リナだって、嘘をついたことがある。
今までずっと、清廉潔白な生き方をしていたわけじゃない。
リナもそのことは分かっているのに……でも、それでも、まだ、受け入れられない。
「リナさん、すみませんが、喉が乾いてしまって。何か飲み物を用意してもらってもいいですか?」
粟根はそう言うと、リナに微笑んだ。
それはいつもの優しい粟根の顔。
どうやら、リナと榊の二人で会話をするというのは、これで終わりになるらしい。
リナは先ほど榊に言ってしまったことを思い出して、なんだか胸を痛めつつも、この場から離れられることにホッとした。
はいと小さく頷いて席を立つ。
お茶を入れるキッチンはこの心療室の奥、カーテンに仕切られている部屋。
カーテンで仕切っているだけなので、相談内容の話し声も聞こえるのだが、粟根は構わず、榊と話を始めた。
「榊さんの吸血衝動は、好意からきているのだと思います。榊さんは、特定の女性を目にした時だけ、無性にその人の血を吸いたいような気持になる。誰彼構わず、突然そういう衝動に駆られることはない。そうですよね?」
「……はい、そうです」
そう小さな声で榊が肯定を示した。
遠くから聞いてのその声が落ち込んでいるのが分かる。
その場を離れて、すこしばかり冷静さを取り戻したリナは、申し訳ない気持ちになった。
あんな風に、責めるつもりはなかった。
「でしたら、吸血衝動というのは、性的欲求と似たような衝動のように感じます。でしたら、時間の経過で落ち着く可能性が高い。人の性的欲求のピークは、10代後半から20代前半とは言われてますし、榊君はどちらかといえば人間よりなのでそれが当てはまるかなと。ですから榊君は、今までのように吸血衝動をどうにか妄想の中に収めて実行には移さないように自制していけばいいのです」
「でも、それだと、ずっと、それまで、耐え続けなければいけないってことですよね? 20代前半となると、6、7年もあるじゃないですか。その間、もし、俺が耐えられなくなったらって思うと、怖くて……」
「自制の仕方はいくつかあります。それに特に榊君の場合、吸血衝動を感じるは、好きな女の子を前にした時だけ。それなら、その対象と距離を置けばいいんです」
「距離、ですか……。確かに、彼女が……佐藤さんが、授業に来なくなってから、吸血衝動がなくなったのは、確かです」
「大丈夫ですよ。この問題は、時間が解決してくれる問題です。それに、吸血衝動が性欲と似ているものだとしたら、他の行動にすり替えて欲求を満たすこともできるかもしれない」
「すり替える、ですか?」
「はい、性欲で生じるエネルギーは、他のエネルギーに変換しやすい。榊君は、何か趣味のようなものはありますか?」
「趣味ですか? えと、そうですね、スポーツは好きですが、これといって趣味と言えるものではない気がします」
「それでは何か、他に没頭できるものをまずは探して見ましょう。性欲に当てるエネルギーを他のエネルギーに置き替えるんです。スポーツでも、絵をかくことでも、自分の中にたまるエネルギーを発散できるものなら、なんでもいいです。それと、吸血衝動を感じた時に、口寂しく感じるようならば、トマトジュースや飴などを代用することで落ち着くかもしれません。あとは、そうですね、吸血衝動が純粋に血に含まれる成分のようなものを欲している側面もあるかもしれませんので、サプリメントなどで鉄分をとってみるといいかもしれませんね。顔色は血筋によるものかもしれませんが、白過ぎるような気がします。先程も倒れていましたし」
「趣味に、トマトジュースに、サプリメント、ですか……」
「吸血衝動を抑える方法は、榊さんが思っているよりも、たくさんあるはずです。自分にあったものを見つけていきましょう。そして、必ず時間が解決してくれる問題でもあります。あまり、気を張らずに、ゆっくり構えてやっていきましょう」
その粟根の言葉を静かに聞いていた榊から鼻をすするような音が聞こえてくる。
「はい! 先生……よかった。先生に相談できて……俺が吸血鬼で、吸血衝動があるなんて、こんなこと、誰にも真剣に相談できなくて……。親だって、まともに話を聞いてくれなくて……。自分自身だって、こんな感情、本当に嫌だって思っているのに……」
裏で榊のその声を聴いて、リナの胸は苦しくなった。
榊の気持ちが痛いほどよくわかるからだ。
リナも、そう思っていた。誰にも相談できないと……。
話を聞いてもらいたいけれど、受け入れてくれないかもしれないと思うと、怖かった。
「榊さん、まあ、あまり気を負わずに。吸血衝動は確かに困った衝動ですが、それの発端である人を好きになる気持ちや、触れたいと思う気持ちは、とても健全なものですよ。恥ずかしいことじゃない」
粟根のその言葉に、榊の目にジワリと涙が浮かんだ。
「先生……! は、はいっ! ありがとうございます、本当に……!」
あの王子然としていた榊の口から、すすり泣くような声が響く。
結局リナが、お湯を沸かしている間に、榊の相談が落ち着いたので、彼は帰ることになった。
なんとなく声をかけるタイミングを逃したまま、リナは粟根と一緒に榊を見送るために玄関のところまで向かう。
いつもなら、次回の予約の受付はリナがするのだが、気を遣ったのか粟根が自ら次回の予約の話を榊にしてくれた。
なんだか、ものすごく情けない気分になってきた。
そんな思いでリナが榊を見ていると、ふと顔を上げた榊と目があった。
榊は、少しばかり戸惑うように目を見開いたけれど、ややして笑顔を作る。
「ごめんね、佐藤さん。今日は、俺、こんなので、気持ち悪い思いをさせてしまって……」
榊からも思ってもみなかった言葉に、リナはフルフルと首を横に振った。
「あ、ううん! 私の方こそ……。それに、私も、勝手に人の心をのぞいたりしてしまったり、その、どうにもならない力と言うか、エネルギーに翻弄されてしまう気持ちは分かる、から……」
「ありがとう、佐藤さん」
そう言って、少しばかり何か憑きものが取れたような顔をした榊は笑顔で去っていったのだった。
複雑な気持ちのリナを残して。
「リナさん、今日はすみませんでした。私の思いつきで、無理をさせてしまいましたね」
榊を見送ったあと、そう言って、粟根が申し訳なさそうに眉尻を下げて、リナに微笑んだ。
「先生……いいえ、私、私こそ……すみません」
何故かリナはそう言って謝っていた。
先程からずっと胸がズキズキと痛むのだ。
謝れば、その痛みが和らぐかと思ったけれど……痛みは一向になくならない。
思わず下を向くリナの頭に、ポンと、暖かくて大きな手がふんわりと触れる感触を感じた。
ズキズキと痛む胸のあたりを手で押さえながら、リナが顔を上げると、思ったよりも近くにある粟根の顔。
「いえ、リナさんが謝ることではありませんよ。それに、榊さんの近くにいても、サトリの力の暴走を抑えることもできていたじゃないですか。よく頑張りましたね」
粟根はそう言って、リナの頭を優しく撫でてくれた。