恋する吸血鬼②
床に倒れそうになった榊をどうにか粟根が支えて、そのまま、榊を引きずるようにして心療室のソファの上にどうにか寝かせる。
身長180はありそうな青年をどうにか移動させた粟根は、じっとりと汗をかいていた。
「重かった……」
「あの、先生、これって、あの、どうして……榊君が、ここに……。それに……」
と思ってこっそりと心療室で話していたことを盗み聞いていたことを思い出す。
確か、吸い付きたいとか、吸い付きたいとか、吸い付きたいとか、言っていたような……。
そんなことを思い出して、リナはひやりと嫌な汗をかく。
「まさか、彼が言っていた女の子が、リナさんだったとは……」
心底疲れたとでも言いたそうな重いため息を吐いて、粟根は重労働で疲れた体を一人掛けのソファに預けた。
「榊君って、その、あやかしなんですか?」
リナは青白い顔でソファに寝ている彼を見ながらそう言った。
ここは、あやかし専門の心理相談所。ここに彼がいるということは、彼もあやかし側の人間ということになる。
「それは個人情報なので……と言いたいところですが、どちらにしろ、リナさんはカルテを見ることになりますからね。実は、彼もリナさんと同じように祖先があやかしなんです」
「そうなんですか!? 榊君が!?」
祖先があやかしと言うのは、意外にもごろごろいるのだろうか。
まさか同じ学校に似たような境遇の人がいるとは思わなかった。
そして、少しばかり驚くと、そういえばと改めて粟根に問いかける。
「あ、何のあやかし、なんですか?」
「ヴァンパイアと言えばわかりますか? 西洋の吸血鬼です」
ヴァンパイア、これまたリナでも知っている有名な妖怪の名称だった。
人の生き血を吸う妖怪。棺桶の中で過ごして、太陽の光を浴びると死んでしまったり、ニンニクや十字架に弱かったりと、色々な逸話が残されている。
「え!? では、鋭い牙とか持っていたり、私みたいに変な力が……!?」
リナが混乱しながらも、そう確認すると粟根は首を横に振った。
「いえ、血も結構薄いですし、昼間も普通に生活できてますし、牙も無ければこれといって特別な力もないみたいですね……。しいて言うのなら、この整った容姿や運動神経の良さとかは、ヴァンパイア譲りと言えるでしょうか。ヴァンパイアの男性は、若い女性の血を吸うために整った容姿をしていることが多いと聞きますから」
そう言って、粟根は眠っている榊に目を落とした。
そこには金色の髪に、同じ色をした長い長い睫毛を伏せて、天使もかくやという具合に眠っている美青年がいる。
先ほどまで、『犯罪者にはなりたくないーーーー!』と先生に縋りついていた人と同一人物とは思えないほどの眩さだ。
「容姿に、運動神経、ですか? 確かに、日本人離れした容姿の榊君は、うちの学校きってのイケメンですし、運動神経抜群です。でも、あやかしの力っていうか、なんていうか……とっても普通、ですね」
あやかしの力というと、今のところ自分のように心を読み取るというような摩訶不思議な力のことだとリナは思っていた。
確かに、榊の運動神経や顔の容姿はずば抜けてはいるが、それでも普通の人間として通る範囲内である。
「ははは。どちらかというと、リナさんみたいな方が珍しいですよ。人間社会に溶け込むことに成功し、薄まった妖怪の血で、こんな特別な力に目覚めるのは稀です」
「そうなんですか」
「はい。それにしても彼、どうしようかな。幸いにも、今日は時間もあるし」
と粟根が思案気に呟いたあたりで、先ほどまで天使の寝顔で寝息を立てていた榊の長いまつげが震えた。
そして、その瞼が開かれて、綺麗な青い瞳が顔をだす。
「ううん……あれ、ここは……」
と、話題の眠りの吸血王子がそう言って、ゆっくりと起き上がった。
「榊さん、目が覚めましたか……? 気分は、どうですか?」
「あ、先生? 俺、なんで……そうだ確か、佐藤さんの幻覚が見えて……」
と、まだボーっとしているような目で榊が言うと、視線を上げた。
そして、粟根の後ろにいるリナを見つけた。
「え、さ、佐藤さん!? なんで、そんな、ええっ!?」
久しぶりに同じ年の男性と、思いっきり視線が合ってしまったリナは、粟根の後ろに隠れるようにして一歩身を引く。
どんなに榊が天使のような美青年であったとしても、リナにとっては、同じ年の男性であるというだけで嫌悪感を抱いてしまう対象だった。
粟根がいるからなんとか落ち着いていられるが、距離が近い。
「彼女は、実はここでアルバイトをしてもらっているんですよ。ですよね、リナさん?」
突然話を振られて「ええ、まあ」とリナ自身もびっくりするぐらい固い声が漏れた。
自分でも緊張しているのが分かる。
「榊さんが、先ほど僕に相談していた例の女の子というのは、リナさんだったんですね?」
粟根がそう確認すると、榊が一瞬ちらりとリナを目で捉えてから、気まずそうに視線を外す。
それから榊は、顔を下に向けたまま小さく「はい」と答えた。
「例の女の子って、吸い付きたいとかの……?」
とリナは眉間にシワを寄せながら、震える声で粟根に尋ねる。
「おや。リナさん、その話はどこで?」
「お茶を運ぼうかどうかで、迷っていた時に、漏れてきた声を聞いてしまって……」
「そうでしたか。なるほど……」
と粟根は顎の下に右手を置いて、考えるような仕草をすると、ややして閃いたとばかりに、リナと榊に向き直った。
「せっかくの機会ですし、どうでしょう。しばらくお二人で話をしてみませんか?」
突然の粟根の提案を理解するのに、リナも榊も数秒かかった。
「二人でって……俺と、佐藤さんで、ですか?」
と、やっと榊が粟根に確認すると、粟根はにっこりと頷いた。
「もちろん、二人きりにはしませんよ。私も同じ部屋にいます。でも、二人で色々話し合ってもらいたいんです。昔は、ショック療法と言うのもあったし、これもその一環みたいな感じでうまくいけばいいなと思いますが……二人は、どう思いますか?」
「ど、どう思うって、先生、俺にとっては正直、拷問ですよ……! 一生懸命、その、抑えようとしていたというのに……!」
と言って何かを堪えるような充血した目で、ひたすら床をじっとにらみつけている榊。
苦しそうである。
一方、リナはリナで、この状況にぶるぶると震えていた。
「先生、本当に、ひどいですよ。私が……同年代の男子が苦手なのを知って……!」
リナはリナで、この状況で思わず力が暴走しそうになるのを必死に抑えていた。
ちょっと男子とすれ違ったり、挨拶したりする程度なら構わないが、密室で、同じテーブルに座るような距離感だとやはり身構えてしまう。
「まあまあ。僕はこれ、結構いいんじゃないかなって思ってきてるんです。ちょっと二人で会話してみてください。それぞれ気になることもあるでしょう?」
そう言って、粟根のメガネがキラリと光に反射する。
まるで悪魔もかくやと言わんばかりの意地の悪い笑みに、リナには見えた。
こんなの先生らしくない。
いつも、先生は、私が本当に嫌だと思うことはやめてくれるのに……と、不満そうにリナが思っていると、「そういえば……」と言って、榊がリナの方に顔を向けた。
「あの、佐藤さんがここにいるというのは、もしかして佐藤さん、あやかしだったの?」
ふと気づいた、そういう仕草で榊はリナに話しかける。
が、ちらりとリナを見た榊はすぐに視線を下に向けた。
彼は彼で、吸血衝動と対峙中なのだ。
あまりリナを見つめることはできない。
少し顔を赤らめて視線を逸らすその仕草は、顔が整っている分、悪魔の笑みの粟根の比べれば天使的である。
でも、それでもリナは、嫌悪感を拭いさることはできない。
あの授業にいなかったのだから、あの時の嫌な声は榊のものでないのは理解しているつもりだ。
それでもやはり、同じ年頃の男子と言うだけで、ダメだった。
しかも、先ほどまで吸い付きたいというような話を、盗み聞いてしまっていたのだから、なおさらだった。
だからと言って、話しかけて来ているのに、このまま彼の言葉を無視できるような度胸も、リナにはない。
「……はい、私は、サトリと言う妖怪の血を引いていて……」
「サトリ……? ごめん。聞いておいて、あれだけど、俺は、あんまりあやかしのことは明るくなくて……」
「あの、サトリというのは、日本の妖怪で……人の心を読む妖怪、なんです」
人の心を読む、その言葉を言う時リナは少し言い淀んだが、何とか口にした。
そしてリナのその言葉に、先ほどから視線を下に向けてリナを視界にあまり入れないようにしていた榊だったが、呆然とリナの方を見た。
「えっ!? ……ということは、俺の、心も……!?」
「あ、いえ! 一応今は力をコントロールできているので、そうやたらと読んだりはしません! でも、その、同じ年頃の男子が近くにきたり、たくさんの人に囲まれたりするとパニックになって、その、無差別に心を読み取ってしまうんです……」
「ああ、それで、学校にこれなくなったんだね……」
そう思いのほかに、あっさりと受け入れてくれた榊にリナはほっと胸をなでおろした。
「はい。あの時の榊君が休みの時の体育の授業中に突然この力が目覚めて、何も知らない私はその力に翻弄されて、そのまま、皆の声を聴いて……それで……」
人と言うものが、怖くなった。
その笑顔の裏に、その笑顔とは思いもよらないことを考えているということを知ってしまった。
リナは珍しく、裏表をいうものを知らないまま健やかに育っていた。
環境に恵まれ、優しい人に恵まれ、人の悪意に気付くことなくここまで生きて来たのだ。
友達が言う言葉は、その人の本心なのだと、信じていた。
自分が、そうだったから。
でも、現実は違った。
口にする言葉は、必ずしもその人の本心ではないのだ。
綺麗で、耳障りの良い言葉を言っている人も、蓋を開けてみれば真逆のことを思っている。
人の口から出る言葉が全て、信用できなくなった。
だからと言って心の声を聴く気にもなれなかった。
あまりにも聞くに耐えない言葉だと、知ってしまったから。
「それで、父に連れられて、粟根先生のところに来たんです。もともとあやかしのことも全然知らなくて、この自分の力のことも、妄想か何かだと思ったりしてて、先生にこちらの世界について慣れる必要があるって言われて、アルバイトをしています」
「そうなんだ……。それで、佐藤さんは、ここにいたんだ」
と、榊が応じると、しばらく二人は口を閉ざした。
二人の会話はやはり弾まない。
気まずい空気だけが流れ、二人とも床の下を見つめる作業に入った。