恋する吸血鬼①
「先生、あの私、来週のシフトの件で、ご相談があって……」
と、心療室にきたリナは、もじもじと粟根に声をかけると、粟根はああと言って頷いた。
「他の生徒と時間をずらして学校に通うことにしたんですね? いいですよ。シフトの時間を遅くしましょう」
「ええっ!? なんで分かったんですか!? 私まだ保健室登校始めるって言ってないですよね!?」
と言って、リナは驚きで身を引いた。
粟根の言う通り、リナは近々保健室登校をしてみようと決めていた。
というのも、先日の人魚のお梅の話を聞いて以来、リナの中で変化があったのだ。
少しだけ、ほんの少しだけだけど、同年の異性に対する恐怖心が薄らいだ。
それは、きっとお梅の純粋な恋する気持ちが、リナの心に響いたからかもしれない。
とはいえ、あの時、聞いてしまった男子生徒の下卑た声を許せるかと言えばそうではないし、近くに同年の異性がいると、怖いという感情は感じるが、なんとか、一定の距離を保ちつつの挨拶程度なら、同年の異性を前にしても力を暴走させずに済むようにはなった。
リナはその変化を認めて、まずは保健室登校と言う形で、授業には出ず、他の生徒と時間をずらして学校に通ってみようと決めた。
でも、粟根にはまだそれを伝えていなかったはずだ。というのも、そう決めたのも、今日の朝なのだから。
しかし粟根はそんな驚くリナの前で、平然と微笑む。
「リナさんの様子を見ていれば分かりますよ」
なんて言いながら。
「そ、そんな!? だって、そんな、どうして……あ、やっぱり先生って、サトリの力を持ってるんじゃないですか!?」
「いえいえ、前も言った通り、私は普通の人間ですよ」
「信じられません……」
と疑いの眼差しでリナがまじまじと粟根を見ると、突然粟根が身をかがめてクククとかみ殺すような笑い声を響かせた。
「リナさんは本当に、素直な人ですね。反応が、面白くて……」
と言う、粟根の眼もとには笑い過ぎたのか目が潤んでいる。
「先生、笑い過ぎですよ……! 先生って、たまにちょっと意地悪です」
と、なんだか恥ずかしくなったリナは顔を赤らめて抗議の言葉を口にした。
「すみません、リナさん、機嫌を直してください」
と言いつつも、未だに頬が緩んでいる粟根を見て、リナは不満そうに目を眇めた。
そんなリナをみた粟根がさらに顔をほころばせ、
「そんな顔をすると、せっかくの可愛らしい顔が台無しですよ」
なんてことをさらりと言ってのけたので、リナはさらに顔を赤くした。先ほどとは別の意味で。
「せ、先生! そ、そ、そんなこといって、私の機嫌をなおそうとしたってなおりませんからね!」
「いえいえ、そう思ったので言っただけですよ。機嫌をなおしてくれたらなんていう打算はほんのちょっとしかありません」
「ほんのちょっとはあるんじゃないですか! もう、やっぱり先生は、たまにちょっとどころじゃなくて、結構意地悪です」
「そんなことを言われるのは、初めてですね。これでも僕は、隠世界隈では、とっても優しい粟根先生で通ってるんですけど」
なんて、いつもの余裕の笑みで粟根がいうので、リナは不満そうに唇を尖らしたのだった。
学校の保健室で自習中に、ふと、先日の、粟根とのやり取りを思い出したリナは、ノートにペンを走らせる手を止めた。
あの時は、粟根にからかわれているような感じがなんだか恥ずかしくて不満だったけれど、最近粟根とのああいう何気ないやり取りを、楽しんでいる自分がいる。
粟根は、最初リナに対して壁のようなものがあった気がするが、それが少しずつ無くなってきているようなそんな感覚で、そう思うと、リナはなんだかそわそわと気持ちが弾むような心持がした。
そんなことを思い出すと、自習勉強中ではあるが、どうにも心が落ち着かなくなって、リナはこのまま家に帰ろうと、席を立つ。
カバンに持ってきた筆記用具や教科書を詰め込むと、保健室から廊下へと出た、その時。
「あれ、もしかして、佐藤さん?」
横から話しかけられた。振り返れば、知っている顔。
「榊君……」
同じクラスの榊の姿を見て、少しばかりリナは眉根を寄せた。
以前のように、年の近い男子を前にしてすぐに力を暴走させるようなことはないが、それでも苦手意識は残っている。
「体調が悪くて、学校に来れないって聞いていたけれど、もう大丈夫そうなの?」
と、榊は整った顔を傾げて心配そうに問いかけた。
その仕草は、あまりにも洗練されている。
まるで物語の中から飛び出てきた王子のように。
日本人にしては彫りの深い顔、綺麗に整った眉、日本においてはなかなかお目にかかれない青い瞳は、長い睫毛で縁取られている。
彼は、白人系のハーフで、我が校のアイドル的存在だ。
あの事件が起きる前は、リナも少し憧れていた。
白馬の王子というのは、絵本の中でしか知らないが、きっとこういう人なのだろうと、思ったことがある。
「……体調は、まだ本調子ではないけれど、なんとか大丈夫そう」
リナは少し彼と距離をとりながら、目線を合わせないようにしてそう答えた。
力が暴走しないように、自分は冷静だと、言い聞かせる。
「そっか。俺が、ちょうど学校を休んでいた時の体育の授業で倒れたって聞いて心配してたんだ。大丈夫そうなら良かった。でも無理はしないでね」
と榊に言われてリナは思い出す。
そういえば、あの時の体育の時、榊は欠席だったのだ。
周りの女子たちが、そういう話をしていた。
あの出来事はいまだによく悪夢で見る。
どんなに忘れようとしても、あの時の、男子生徒の声が忘れられない。
胸の、リナの胸の事ばかりだった。
同年代の男子というのが、あんなにも女子の身体的特徴を意識しているということを、初めて強制的にリナは意識させられたのだ。
それに、リナは、少しばかり自分が他の女子よりもふくよかな体型であることを気にしていた。
もちろん、男子生徒に罪はない。
ただ、彼らは心の中でそう思っていただけ、なのだから。
実際に口にしたわけではないのだ。
リナもそれはもちろん分かってはいる。
むしろ、無遠慮に人の声を聴いてしまった自分のほうが、罪が重い。
でも、それでも、分かっていたとしても、受け入れられるものではなかった。
あの時の、リナの胸の事ばかりを気にする男子達の中に、少なくとも榊はいないというのは、なんとなくリナの心を軽くし、そして今まで学校のプリントを榊がリナの家まで届けてくれていたことを思い出した。
「あ、そういえば、榊君、学校のプリントとか、持ってきてくれてたんだよね? ありがとう」
リナがそういうと、彼は王子然とした完璧な笑顔を向けて、「どういたしまして」と答えた。
学校から下校して、家の洗濯や掃除、それに、今夜の夕食の仕込みなどを行うと、いつもの提灯を使って、粟根診療所へと向かった。
そしていつも通りのボロい看板をぶら下げている相談所の扉を開ける。
「あ……相談者の方が来てる」
玄関先に、知らない人の靴が置いてあり、スリッパも一束使われていた。
昨日の時点では、この時間の予約は入っていなかったはずだった。
飛び込みで入ってきたのだろうかと、リナはいそいそと受付カウンターから予約表を覗き込んだ。
「予定入ってない。ということは、やっぱり突然きたんだ……」
基本的には事前予約をお願いしているけれど、たまに飛び込みで相談しにやってくることもある。
その時間空いていればそのまま対応したり、時間が空いてなければ少し待ってもらったりと、臨機応変に対応をしてはいるが。
「珍しい……」
意外にもあやかしというのは、約束事には几帳面とも言える繊細さで必ず守ることが多い。
事前予約が必要となればかならず連絡するし、予約の時間になればほぼぴったりの時間に訪れる。
「コーヒーをお出しした方がいいのかな……」
と、リナは少しばかり悩んだ。
いつも、ご相談者が来た時、リナは飲み物やお茶菓子を用意して振舞っている。
今回の場合はどうしようか。
もし先ほど来たばかりというのなら、飲み物を差し入れる隙があるかもしれないが、相談が始まっていたら気がひけるし、邪魔になってしまう。
それにもしかしたら粟根先生が自分で飲み物を用意しているかもしれない。
少しばかり迷って、リナは、はしたないとは思いつつも、飛び込みの相談者と粟根がいるはずの相談室の扉の前に立って耳をすませた。
話の内容によっては、まだ入り込める隙があるかもしれない。
「先生、俺、どうしたらいいでしょう……。衝動を抑えられなくて……! あの子を見ると、どうしても、どうしても、牙を立てて、吸い付きたくなるんです!」
扉越しだというのに、若い男性の声がはっきりと聞こえてきた。
すでに相談は始まっているらしい。
「そうで……。なら……すれば……」
一方、粟根の声は扉越しだと内容まではよく聞こえない。
「そうです。彼女だけ。彼女だけなんです。入学式で初めて彼女を見た瞬間から……可愛いなって思って。同じクラスで……物静かな子なんですけど、なんだか目が離せなくて……ずっと目で追ってしまって……そう思ったら、無性にその子の血が飲みたいって思い始めて……! 柔らかそうな白い肌が晒された日には、きっと俺は耐えられないです! 」
「なら、それは……す。その子だけということで……こ……」
「今日だって、本当に危なかったんです。思わず話しかけてしまった……。しばらく彼女、学校を休んでいるんです。それで、ずっと心配していて。でも、彼女が学校に来なくなってきたら、この衝動も落ち着いて来て、もしかしたらその方が良かったのかもしれないって、あのままだときっと俺は彼女に吸い付いてしまうだろうって、そう言い聞かせて。でも、今日、彼女が学校に来ていたんです。保健室の先生に聞いたら、最近保健室に通うようになったって……。もうダメです。俺、俺……今まで衝動を抑えていた分、耐えられそうにないんです!!」
本日のご相談者は、大変にエキサイトしている様子だった。
吸い付くってなんだろ、怖いな……と、リナは思いながら、なんだかこの男性の声に聞き覚えがあるような気がした。
そしてまさか……とリナは一つの心当たりにたどり着いて、少しばかり顔色を青白くさせた。
しかし、ややしてそんな自分の考えを首を振って追い払う。
そんなこと、あるわけない。
リナはそう結論つけて、なんとなく飲み物などを用意する気になれなかったので、受付の席に戻ることにした。
「うん、ありえないよね。相手はうちの学年の、いや学校のアイドルのような男の子だ。そんなこと有り得るはずがない。むしろそんなことを想像している自分が恥ずかしいレベル」
静かな受付室で一人座りながら、小さく呟く。
改めて冷静になって考えてみると、やはりありえないという考えしか浮かばない。
どうして先ほど、あの声が、彼の声と似ていると思ったのか。
バカな考えを一瞬でもよぎらせた自分を鼻で笑うと、いつも通りの雑務をするために手を動かすことにした。
リナがいない時に心療相談所にきた妖怪達のカルテを整理してたり、帳簿をつけたりと事務作業で忙しくしていると、例の方の相談が終わったらしい。
微かに扉が開く音が聞こえてきて、こちらに向かってくる二人の足音が聞こえてくる。
先ほど感じた嫌な予感のことはすっかり忘れていたリナは、おそらく
次回の診療時間の予約をとるためにここによるだろうと思って、受付のところで待っていると待合室の扉が開いた。
「ああ、リナさん、いてくれて良かった。こちらの方の次回の訪問時間の予約の件で相談したくて、いつ空いてますか? あ、もしくは、今日まだ時間が空いているようでしたら、このまま続きをしたいのですが、この後の予約はどうでしょうか?」
と受付を覗き込んで、珍しく少し疲れた顔をした粟根がそうリナに話しかけてきた。
「あ、はい! わかりました! えーと、まず、今日これからの予約は……あ、大丈夫です。ないみたいですよ!」
と答えて、リナは予約票から顔を上げて、絶句した。
粟根の後ろからこちらに顔を向けた男の人に覚えがあったからだ。
「榊、君……?」
リナが思わずそう呟くと、同じクラスメイトで、学園のアイドルでもある榊は、人よりも色白なその顔色をより一層青くさせた。
そして、隣にいる粟根の胸ぐらを掴むと、ガクガクと揺らした。
「ああああああああ、先生! 俺はもうダメです! とうとう幻覚まで見えるようになりました! あの子が、ここにいるように見えるんです! もうダメです! 助けてください!! 僕は、犯罪者にはなりたくないのにーーーー!!!」
と青白い顔で悲痛な叫び声をあげた彼は、そのまま貧血でも起こったかのようにくらりとその場で倒れたのだった。