赤い草
──いつまで欺いているんだ
気づかないのか──
と、声がいった。
その声がどこから響いてきたのかわからない。
けれどそれが幻聴ではないことは知っている。
その声はつねにきみを脅かしてきた。
声をきくたび、きみはじぶんの存在に不安を感じないではいられない。
目を覚ます。
薄汚れた天井にしみついたちいさな黒い汚点が、まっさきに目にはいってくる。
きみはそれをじいっと睨む。
するとだんだん焦点があわなくなり、黒い汚点はじわじわと、灰色の天井に同化し色をうすめながら輪郭をひろげていく。
汚点は
どんどん
どんどん
ひろがって、
ひろがりに限界がきた瞬間、ふくらみすぎた風船みたいに破裂する。
爆発は一瞬。
あたり一面空白になり、あまりの眩さに、きみはついに目をとじる。
ふたたび目をあけると、汚点はもとのちいさな黒点にもどってる。
そしてまた、
どんどん
どんどん
ひろがっていく……
その現象がなんどもくりかえされていくうちに、きみの心の奥底に、恐怖にも似た感情がこみあげてくる。
きみはすこしずつ、自分がどこにいるのか思いだしはじめる。
うっすらとぼやけた影のなか、ずっととじられたままのカーテンを透かして漏れる陽の光が、部屋を色あせた写真に変えている。
敷布のにおいかそれとも部屋全体のにおいか、ほのかにかびくさい。不快。同時に、懐かしくもあるにおい。
まちがいなく、ここはきみの部屋。
──怖がるなよ。おまえはおれにしたがってればいい。そうしたらすべてうまくいく──
きみは声に嫌悪を感じる。うまくいく? なにがうまくいくんだろう?
──なんだっていい。おきろ! ──
声が命じた。
全身がだるく、頭痛がし、胃はむかついて吐き気がする。
身体をおきあがらせるだけの気力などかけらもない。
このままこの場で朽ち果てられたらどんなに気持ちいいだろう。
きみはひどくそう思う。
声が命ずるのはいつも、ただ単調な一日をすごすことだけ。
記憶にものこらない無意味な一日を。
それでも、声に逆らうことはできない。強迫観念。きみの身体を鞭打つことを、声は強く激しく命令しつづける。
きみは首をねじり、目覚まし時計のパネルを見る。
それからあきらめ、身体をゆっくりおこしはじめる。
そして、立ちあがる。
眩暈。
暗い部屋全体が渦を巻き、きみに襲いかかってくる。
奈落へ落ちてゆくような、突然の喪失感。
気がつくと、動悸が激しくなっている。
きみは、自分の身体になにがおきているのかわからない。
身体と精神がまったくべつの生き物のようにふるまおうとしている。
身体の不調を精神が否定している。
息苦しい。
記憶が混乱していた。自分がだれで、いつ生まれ、どういう生き方をしてきたか、そうしたいちばん初歩の記憶はすべておぼえているようだ。
けれどそれ以上のこととなると、なにも思いだせない。
思いだそうとするたび、脳裏に黒いもやがかかる。
身体がおぼえている無意識の習慣が、きみを手洗い場へつれてゆく。
口のなかが苦く、じゃりじゃりして気持ち悪い。
鏡に写るじぶんを見て、きみはおどろく。ひどい様相。じぶんはこんな顔をしてたんだ。
ぼさぼさの髪。落ち窪んだ眼窩。青白い膚。力なく垂れさがった肩。
おそらく昨夜、着替えないまま眠ってしまったらしい、服がよれよれになっている。
きみは何度も顔をばしゃばしゃ洗う。すこしもすっきりしない。ぬれた手で髪をなでつけるが寝ぐせはほとんどとれない。
いまさら着替えるのもめんどくさい。
だからこのままの姿でいることにする。
人がどんな恰好でいようとだれが気にするだろう?
食欲はまったくない。
生乾きのタオルで顔をぬぐい、きみは溜め息をつく。
ふたたび記憶にのこらぬ一日がはじまった。
外へでると、空はどんより曇っている。
それが自分のせいのような気がして、きみはうしろめたくなってくる。心を見透かされているような気分だ。
街にはたくさんの人が出歩いている。
きみとすれちがう人ひとりひとりの顔には生気があふれている。仕事場へむかう者、学校へむかう者、どこかへあそびにいく途中の人たち……彼らがそれぞれの目的をもってどこかへ去っていく姿は、きみには苦痛でしかない。羨望を感じる。
こうして彼らにまざって歩いていても、どこかじぶんだけ異質な存在のように思えてくるのだ。じぶんにもなにか目的があったことはおぼえているが、それがなんだったのかはおぼえていない。
声の命ずるまま部屋をでてきたきみは、じぶんがどこへむかっているのか見当つかない。きみは、習慣にしたがって一日をすごそうとする声のあやつり人形。
声の調子に敵意や悪意はない。記憶をとりもどすのを阻止しようとして、きみをかき乱すだけ。それはかえってきみを守ろうとしているようにもとれる。
きみの記憶が蘇ることを、声は極端に恐れている。
いったいどれだけのあいだ、あの声をききつづけてきただろう。
昨日の記憶さえままならないのに、ずっとおなじような一日をすごしてきたことだけは感覚的におぼえている。
問題は、一日の中身なのだ。
一日が終わるたび、その日の記憶がぬぐい去られてしまう。
きみが身体を支配し、声がきみを支配する。
じぶん自身より声のほうがはるかに存在感がある。
悪夢のなかでじぶんの行動を無感動に眺めているもうひとりのじぶんのよう。
きみが歩く歩道の横を、大小さまざまな自動車がもたつきながら進んでいく。
一台の乗り合いバスが大きな音をたて、きみのそばを通りすぎる。そのなかにたくさんの人間が押しこまれているのを見て、きみはぞっとなる。
じぶんがそのなかにまざってもみくちゃにされることを想像したのではない。
多くの人間が一ヵ所に集められているという、ただそれだけの事実に対して怖くなった。
さらに歩いてちいさな公園の前を通りすぎる。
そのとき突然、草影から猫が一匹きみの目の前に飛びだしてきた。
不敵なつらがまえをした、小柄で痩せ細った黒猫。
手入れのされていない体毛はよれよれで、まるで雨にあったよう。
両目がぎらつき、鋭い瞳孔がきみを睨めつける。
そいつは、喉の奥から凶暴な唸り声をあげ、いまにもきみに襲いかからんと、身をちいさくかがめて全身の毛を逆立てた。
──気にするな。ただの気狂い猫だ。無視すればいい──
声は、この猫とかかわりあうことを極端に恐れている。
この場から一刻も早く立ち去ることを、きみに要求してくる。
けれどきみは、いわれなき敵意をしめすたかが一匹の猫にもちあわす感情などないにもかかわらず、どういうわけか足がすくんでその場を離れることができない。
しばらくして黒猫は唸るのをやめた。
なにごともなかったように踵をかえす。
いきなり、車のいきかう道路へ脱兎のごとく飛びだしていく。
きみは驚き、声にならない声をあげる。
黒猫が車に轢かれたように見えたのだ。
だが実際には、黒猫は車と車の間を巧みにすりぬけ、道路の反対側へわたっていた。
きみが、いま一瞬おきた心の動揺に対処しきれないでいると、黒猫は道路のむこう側からきみのほうへむきなおり、口元を緩めて白い牙を見せてくる。
金色の眼を細め、左の前脚を心地よさそうに舐めあげる。
そのしぐさはまるで、きみをあざ笑っているかのよう。
──ふん、性悪猫めが。あいつは人をからかって馬鹿にするのが好きなのさ。だからいったろう、無視しろって。おまえもすこし怖くなったんじゃないか? だけど気にすることはない。いまのことは忘れちまえ──
声の警告。声は怒っている。
けれどきみはきいていない。きみの耳には黒猫の甘ったるくいやらしい鳴き声が響きつづけている。
ニャーオ
その響きはしだいにおおきくなっていき、きみはとうとう堪えられなくなり耳をふさいだ。
黒猫はどこかへ消えてしまった。
空がおおきく旋回し、きみは落下していた。
風圧で顔がひきつり、ふたつの眼球はいまにも圧し潰されそうになる。
かっと見ひらかれた眼が、迫りくる地面を凝視する。
口が勝手に叫びを漏らしている。
きみは頭から激突する。
重い衝撃が全身に走り、激痛は白い光と化してきみの体内をはぜまわる。
無限の時がすぎ、きみは意識をとりもどす。
はじめは、なにがおきたのかわからなかった。
まわりがやけに騒がしい。すこしづつ周囲の様子が見えてくる。
きみの足元に、ぺしゃんこの死体が横たわっている。
四肢が折れ、潰され、奇妙なかたちに歪んでいる。
頭蓋が砕けて黒い髪のあいだから血が滲み、灰色の地面を染めていく。
かつては脚だった肉の塊が、ときどきぴくぴくと痙攣する。
きみは憑かれたように、死体から目が離せない。
死体から流れだすおびただしい血だまりが膨張し、緞帳となってきみを覆いこむ。
それは、きみのすぐ目の前でおきたのだ。
脚ががくがく震え、恐怖とも悲しみともつかぬ感情がわきあがる。
世界がぐるぐるまわり、視界が灰色になる……
声が脅えて悲鳴をあげた。
きみははっとして目をひらく。
瞼を数回しばたたき、首を左右にふる。
なにやら夢を見ていたらしい。
記憶の断片が生んだ白昼夢。
迫りくる地面も、頭の割れた死体も、ただの夢。
あまりに生々しいただの夢。
夢、
夢、
夢、
夢にちがいない。
──そうとも、どちらも嘘だ。忘れるんだ。それより現実にもどったらどうだ──
と、声がいう。
くだらない。
現実も、きみにとっては白昼夢みたいなものだというのに。
頭がずきりと痛んだ。
いまじぶんがどこでなにをしているのか、まったく思いだせない。
ここはどこかの建物のなか。
目の前に人間がひとりいる。
だれだろう?
影がかかっていて顔はよく見えない。
けれどその雰囲気にはおぼえがある。
名前を思いだすことはできない。
きみの友人のうちのだれかだ、おそらく。
きみと友人は、むかいあってテーブルについている。
友人がきみになにかを話かけてくる。よくききとれず、きみは何度もききかえす。それからようやく理解する。どうやらきみを心配しているらしい。
きみは首を横にふり、相槌を打ち、ちいさな声で大丈夫だとつげる。
友人は安心し、さらになにかを語りかけてくる。
どこにでもある日常会話がしばらくつづく。
話しているうちに、だんだんきみはじぶんがなにを喋っているのかわからなくなっていく。例の声が、きみの代わりに喋りだす。きみ自身は傍観者の立場へ追いやられてしまう。
『飛び降り自殺?』
きみはききかえす。その言葉がでたとき、声が一瞬ひるんだ。
友人がどういう理由でその言葉を口にしたのかわからない。
きみがなぜききかえしたのかもわからない。
声はその話題を避けたがっている。
数日前、とあるビルから何者かが飛び降り自殺をし、下を歩いていたきみのすぐ目の前に落ちてきたのだと、友人はいう。自殺者の顔は判別つかぬまでにひしゃげ、身分証のたぐいはいっさい所持していなかった。ために、身元はいまだだわかってない。
きみはおぼえてなかったが、そのようなことがあった気がする。
きみは思いだそうとしてみる。
はじめはなにひとつ蘇ってこないが、しだいに記憶の断片が、走馬灯のようにつぎつぎと脳裏を横切っていく。しかしなかなか定着しない。
すると唐突に、白昼夢のなかの光景が、絵画のようにきみの頭に固定された。
いきなり目の前になにかが落ちてくる。
目にはいってきたのは黒い塊と、そこから染みだす赤いなにか。
それが人間のなれのはてだと気づくのに、数秒かかった。
周囲のざわめきに耳を奪われ、だんだん気が遠くなって……
──やめるんだ。あれはなかったことなんだ! ──
声が悲鳴をあげた。
記憶の再来を恐れ、頭のなかを嵐のように駆けまわる。
友人の唇が金魚の口のようにぱくぱくと蠢いている。
けれど耳なりがして、なにをいっているのかわからない。
友人は、すべてを見透かしたようなぞっとする笑みをうかべた。
現実が幽離していく感覚が強まっていく。
頭痛がし、目の前が真っ暗になった。
つぎに気がついたとき、きみは朝きた道をもどっている。
夕刻。
あいかわらずの曇り空に西の彼方が黄ばみはじめている。
この一日じぶんがなにをしてすごしたのか、その記憶はとうに失せてしまっている。
それが当然のように思えてくるほど、きみはじぶんを見失って久しい。
いまじぶんがなにをしているかの自覚もほとんどない。
身体が惰性で脚を交互に動かしているだけ。
頭痛はずっとつづいている。
ときどき頭の割れた死体が目の前にちらつき、そのたび声が悲鳴をあげる。
声はきみへの支配力を失いつつある。
街の雑踏が息苦しい。
道路わきのちいさな公園できみはふと足をとめる。
ここで朝、なにかがあったような気がする。
なんだろう? 黒いなにかがあった。いや、いた?
──なにをしている。気にするな。こんなところになにもない──
声がなげやりにいう。
声の命ずるまま、きみはふたたび歩きだそうとする。
そのとき、猫の鳴き声がきこえ、きみは反射的に立ち止まる。
声は愕然とし、狂気にも似た調子で叫びはじめる。
──やめろ、やめろ、やめろ! そっとしておけといったのに。思いだす必要などない。なぜわからないんだ! ──
きみに、というよりなにかべつのものにむかって叫んでいる。
まるで絶叫。
声がとり乱せばとり乱すほど、きみはじぶんをとりもどせそうな気がする。
いいかげん、きみは声の支配にうんざりしていた。
懸命に、声の要求に逆らいその場に立っていると、突然、急ぎ足でやってきた通行人にうしろから突き飛ばされ、公園の草むらに手をついてしまった。
通行人はあやまりもせず、そのまま走り去っていく。
おきあがろうとしたとき、きみは、ふたつの金色に光る眼がじっとじぶんを睨んでいるのを見つけた。
軽蔑しきった冷たい輝き。
黒猫は、口をちいさくひらいて鋭い牙を見せながら、草陰から姿を現した。
敵意をしめす唸りをたてる。
それから前脚をゆっくり折って後脚をのばし、息をおおきく吐いたかと思うと、いきなりきみの顔めがけて飛びかかってきた。
鋭い爪がきみの頬をかすり、傷口から血が流れでる。
黒猫は身軽に地面に着地する。
きみのほうへむきなおってにやりと笑うと、ふたたび襲いかかってくる。
刹那、きみは黒猫を右手ではらいよけていた。
黒猫はバランスを失い、道路に背中から叩きつけられ苦痛の悲鳴をもらす。
そこへ、一台の車が通りかかって……
回転するタイヤにひきずりこまれ、黒猫は骨の砕ける鈍い音をのこしてぺしゃんこになる。
きみは呆然とその場に立ちすくむ。
じぶんがいまなにをしたのか、にわかには理解できないまま。
──だからいったろう、これは罠だ、罠だったんだ。だけどまだまにあう。このことは忘れるんだ。はやく! なにをしている。死にたいのか。はやくおれにしたがえ──
声が泣き叫ぶ。泣き叫びながら、嘆願してくる。
必死になってきみをつかまえようとする。
いまとなってはそれも空しい作業。もはや声はきみを抑えきれない。
路上の赤黒い肉塊はもうぴくりともうごかない。
きみの右手に黒猫の毛が数本からみついている。
黒猫に掻かれた頬の傷から血がつたって口にはいり、吐き気をおぼえる。
なにがおきた?
猫が一匹死んだ。
きみが殺した。
それだけのこと。
しかし。
白昼夢のなかの死体と目の前の黒猫の死骸の奇妙な符号の一致。
漆黒の塊と滲みでる血。
これまで失っていたさまざまな感情が心の奥底から一気に吹き上げてくるのを、きみは感じる。
悲しみ。戸惑い。怒り。
恐怖。
恐怖はその根源で死につながっている。
死/死/死 ……
死の恐怖。
猫が一匹殺された。
だれに?
混乱が頂点に達する。
きみ自身の混乱と、声の混乱と。
──ちがう ちがう ちがう! おまえじゃない! やめろ やめろ やめろ やめろ やめろ────────
意識が遠のくかとおもうとまた近づき、ふたたび遠ざかる。
きみはなにもわからなくなる。
身体だけが反応した。
なぜここにやってきたのか、きみはまだわからない。
夢遊病のようにふらふらと、否、声やきみ自身の意志とは異なるなにかに導かれてなにもわからないまま、この場所にたどりついたのだ。
記憶を失う前のきみは、何度かここにきたことがある。
どことなくおぼえのある場所だった。
恐怖はすでに消え、混乱だけがのこっている。
声はいまや、自閉症の子供のようにうずくまってしまっていた。
空を見あげても、星明かりひとつ見えない。
ひとすじの風が吹きつけ、きみの身体を打つ。
雨がぽつぽつ降りはじめ、きみを濡らす。
その建物は、街の繁華街の裏手のひっそりとした通りに面していた。
通りの両側に寂々と立ちならぶちいさな無人のビルのなかでも、とりわけ虚ろな雰囲気を保っている。
ビルの隙間からは、繁華街のネオンの光や人々の話し声、車の音などが漏れ、それがよけいにこの通りに孤独の影を落としている。
建物の右隅に地下に通じる細い階段があった。
その横には、蛍光灯が埋めこまれたプラスチック製の黄色くくすんだ看板。プラスチック板の表面の一部は割れ、なかの蛍光灯はときどき思いだしたかのように点灯するが、すぐまた消える。ちいさな虫の死骸が無数にこびりついている。
プラスチック板に書かれた文字は剥げかかっている。
診療所/精神科 ↓地下↓
かろうじて、そう読める。
きみは階段を降りていこうとする。
声が一瞬、ひきとどめようとちいさく叫んだ。
だがあきらめ、すぐまたうずくまる。
階段は、地の底までつづいているような錯覚をあたえ、きみは眩暈を感じる。
人ひとりがかろうじて通れる幅の、せまい階段。四方をひび割れたコンクリートにかこまれ、暗く、天井の灯は看板同様、点滅をくりかえしている。
足を踏みだすたび埃が舞い散る。
麻薬撲滅を訴えるポスターが一枚、必死に壁にしがみついていた。
一段一段数えるようにして、きみは降りていく。
つきあたると、そこに鋼鉄製の重々しい扉がある。
きみは雨に濡れた肩を手でぬぐった。
濡れた手を扉の取っ手にかけ、押す。
身体のだるさのせいでほとんど力はでなかったが、扉は軋みながらも意外に軽くひらいた。部屋のなかにはいって手を離すと、扉は巨大な不協和音を鳴らして背後でしまる。
待合室はせまく、じめじめして湿っぽかった。
だれもいない。
薄汚れた白い壁にはひびがはいり、天井の隅に、絡みあった蜘蛛の巣の残骸が垂れさがっている。なかのスポンジが飛びだした壊れかけの黒色の長椅子が壁によせてすえられ、そのとなりには奇妙な形に枝が飛びでた細長い外套掛けと木製の雑誌入れがある。
きみは服のポケットを探って診察券をとりだし、受付窓口においた。
窓口から白い手が伸びてきて診察券をとっていく。
きみは長椅子に腰掛け、順番をまった。
すると、すこしづつ精神が落ちついてきた。
だれもいない部屋で順番をまつというのはおかしな話だが、どういう訳かそうするのがいちばんいいように思われた。
それから、どうしてじぶんが診察券をもっていることを知っていたのか不思議になった。けれど、どうでもいいことのような気がしてそのことはすぐに忘れてしまった。
ただ、ポケットにあるのが当然だと思っただけで……
待合室の薄汚れた白い壁をじっと見つめているうちに、きみは遠近感を失っていく。
壁にしみついている黒い汚点がすこしづつぼやけはじめ、ひろがり、壁に同化し、きみにむかって爆発する。
きみはその現象を魅せられたように見つめつづける。
それは、きみの内にある一種の浮遊感、虚無感、あるいは喪失感を増幅する。
きみの心に、形容し難い恐怖がふたたびわきあがってくる。
そうしているうちに、きみの名が呼ばれた。
きみはうなだれるようにして診察室にはいっていく。
天井から吊りさがった裸電球がひとつ、窓のない診察室を照らしている。
奥のほうには緑と赤の警告灯のようなものが灯っている。
さまざまな薬品の奇妙なにおいが部屋中に充満している。
部屋の左側には救急寝台とついたてが、右側にはべつの部屋へ通じる扉がある。
警告灯のそばの肘掛椅子に老医師が座っている。
暗い部屋のなか、老医師のまとう白衣だけが、おぼろにうかびあがっている。
「そこへかけたまえ」
老医師がいう。
きみは老医師のそばへいき、用意された回転椅子に座った。
近くで見ると、老医師は小柄で痩せ細っていた。彫刻のような皺が顔中に刻みこまれ、真っ白な顎髭をたくわえている。
それでいて、五十才とも百才ともいえそうな不可思議な雰囲気をもっている。
いつ、どこでかはわからないが、きみは一度ならずもこの老医師に会ったことがある。おぼろな記憶が、そういっている。
声は相変わらず黙したまま。
「いつかもどってくると思っておった」
厳かに老医師はいう。
「きみの身におきた現象はじつに興味深い。わしとしても予想外のことだった。むろん、いろいろ知りたいこともあるだろう。なにも思いだせないのは、もとからきみにはなにもないからにすぎない。『声』? なるほど、それこそが、きみのオリジナルの記憶の残滓だ。きみは貴重なサンプルだ。まったくもって、興味深い」
もったいぶった口調に、きみはすこしいらつく。
老医師は自嘲めいた忍び笑いを漏らした。
「それにしても、薄くなったものだ。ほら、身体を透してきみのうしろの壁が見える。おや、その様子だと、きみ自信は気づいてなかったようだな」
さぞかし意外だというそぶり。
あいかわらず、きみにはなんのことだかわからない。
「被験者消失からの薬の持続期間十四日。その間、検体の認識力低……」
老医師はとりだしたカルテに書きこんでいく。記入を終えると、顔を上げた。
「無から有をつくりだすことは可能か。もしそれができたとしたら、それほど魅力的なことはないとわしは思う。それこそがわしの生涯をかけた研究だ。人は欲望をもっておる。その一部はかなえられるが、ほとんどはかなえられないままその者の意識に鬱積する。これほど悲しく、また、無駄な悲劇はほかにない。人はみずからの焦躁に身を焦がして生きていかねばならん。わしは、それがたまらなく不愉快だった」
警告灯の緑と赤のランプが陽炎のようにゆらゆらとゆらめいた。
老医師のいっていることはいっこうに要領を得ない。だが感情のない冷たい口調は、きみの空虚な内部に浸透し、存在を根底から覆す力をもっている。
老医師は立ちあがり、きみにも立ちあがるよううながしてきた。
立ちあがろうとしたとき、きみは自分の右手を見て、心臓が止まるほどの恐怖をおぼえた。
手のひらが透け、そこからタイル張りになった床が覗いたのだ。
あわてて左手を確認すると、それも透けて見えた。
手だけではなく、身体全体がかすみ、薄くなっている。
身体の輪郭はまだしっかりしているが、縁から離れるにつれ透明度を増してゆく。
きみは愕然となる。老医師に尋ねようとするが口のなかがからからに乾いて、でてくるのはごろごろという音だけだった。
「ある種の薬は、そうした鬱積した欲望を満たしてくれる。だがしょせんは幻。幻覚に酔いしれて現実を忘れるだけのこと」
老医師は蒼ざめるきみを無視し、きみがはいってってきたのと異なるもうひとつの扉にむかってゆっくり歩きだす。
「欲望を現実へ具現化する。それこそわしが追いもとめた永遠の課題。そしてわしはその方法をつくりだした。だが、まだまだ完全なものではない。いまのままでは幻に妥協する麻薬とおなじでしかない。悲しいことに。きたまえ」
きみは無意識に老医師についていく。
「わしの研究の成果。これを見れば、きみはじぶんがなんなのか、はっきりするだろう」
これからおこることがさぞかし楽しみだとでもいうように、老医師は顔を歪める。
老医師は扉をひらいた。
そこにあったのは、床一面にひろがる真っ赤な絨毯。
否。絨毯ではない。
それは、草だった。
燃えあがる炎のように真っ赤に染めあがった草。
しかもその燃えるような赤は、血の色さえも凌駕している。
そしてまた、闇さえも。
人は無意識のうちに闇を恐れる。
それは、感情を構成する最も根源的な部分を触発するからだ。
だがこの草の色があたえる印象は、それさえも凌いでいる。
赤い草は、きみからひとつの感情を喚起した。
もっとも、それを感情と呼ぶことができるかどうかは怪しい。それは恐怖でさえなかった。さらに恐ろしい、さらに激しいなにかだった。
きみは悲鳴をあげる。
しかし叫びは草に吸収されて響かない。
「きみは一度これを見ておるのだが、やはり耐えられんか。前のときもそうだった。そう、これは狂気の草だ。この色は人間のいちばん醜い部分をえぐりだす。だれも見たくない、知りたくない部分を。あるいは狂気そのものを増幅するといえよう。それゆえにまた、幻を具象化することができる。この草からとりだしたエキスは欲望や夢を現実に変えることができるのだ。わしはそれをきみに/いや、きみではないが/しかしながらきみにあたえた。その結果がきみというわけだ」
老医師の声がだんだん遠ざかっていく。
きみはうしろをふりかえる。扉のところにいたはずなのに、いつのまにか扉は後方へ遠ざかり、きみは無限につづく真っ赤な世界に呑みこまれていた。
足場が消え、きみはただ赤いだけのなにもない空間を漂う。
扉へもどろうとするが、手足がばたばた空を切るだけ。
扉の敷居に老医師が立ってきみを見つめている。その目。どこかで見たことがある。あの、生意気な黒猫の眼だ。あるいは、きみを笑った友人の目か。
どこからか、部屋を暖めるヒーターの不快な唸り音がきこえてくる。
生暖かい風が吹きつけ、赤い草がざわざわと音をたてる。
まるで嘲笑。
「わしのところにやってきたとき、きみは切実に死にたがっておった。その理由はいろいろとあったようだが、それはわしには関係の無いことだった。と同時に、きみは生きたがってもおった。それがかろうじてきみの自殺願望を抑制していたらしい。死への願望と生への執着が葛藤となり、きみのなかで渦を巻いていた。そこで、わしはきみにエキスをあたえることにした。ちょっとした実験のつもりだったし、きみの治療にもなると思ったのでな。なに、自殺願望を具現化してやるだけのことで……」
老医師が淡々と語るにつれて、きみはすこしづつ思いだしていく。
声が必死に隠そうとしてきた記憶。
そう、本当なら、自殺願望を抱えたきみがきみ自身から幽離し、きみにかわって死んでくれるはずだったのだ。
ところが、実際に幽離したのは生に執着するほうのきみだった。そうして、きみは抑制力を失って自殺してしまった……
「本来なら、一度具現化した幻はそのまま永久に定着せねばならん。だがいまのところ、まだそこまでは完成しとらん。残念ながらエキスの効力は、永遠にはつづいてくれんのだ。麻薬とおなじでな。服用しているあいだだけ効果が現れる」
老医師は言葉を切った。
きみはもがきつづける。扉へむかって。
「きみの効力ももう消えかかっておるようだ。まあ、生に執着する残滓が二週間ものこっただけでも今回の実験は成功と見るべきだろう。しかしまだまだ課題は多い。まだまだ、まだまだ……」
老医師は、扉を閉じた。
きみはひとりとりのこされる。
草が放つ赤い光の粒子がちかちかときみのまわりを飛びかう。
粒子が身体に浸透し、肉体を削ぎとるようにして飛び去っていく。
きみはだんだん光に同化する。
じぶんがここにいるという意識が薄れていく。いや、もともとそんなものは存在しなかった。きみはこの赤い粒子そのものであり、それだけのものだったのだ。
そして最後にきみは、赤い草のなかへ吸収されていく。
きみの存在は、もはやどこにもない。
かなり昔に書いて、個人のHPに放ったらかしにしておいた作品を加筆修正したものになります。
二人称のほかにもちょっとした実験めいたことをやってるつもりですが、どんなもんでしょう?