プロローグ
市民革命には未だ遠い時代。
その地を収めるガランツェ公の甥・ファウエルは、ひとりの女性を助ける為に炎の中へ
飛び込もうとしていた。
彼女の名はハルミナ。
ファウエルの幼馴染である彼女は、しかし「反逆者の娘」として、
ガランツェ公からその身を捕えられる筈であった。
彼女の父であるローゼングリン卿は、主君の圧制に苦しむ人々を救おうと、
公に反旗を翻したが失敗。自害を遂げていたのだ。
無事彼女を救い出したファウエルであったが、公の企みにより、
ハルミナを公の手に奪われてしまう。
動乱の時代にあってもなお互いを想い続け、幼い恋を貫こうとしたふたりの物語。
「君は……」
突然開けた視界に驚きながら、彼は永遠にも似た思いで目の前にある彼女の顔を見つめた。
それは、彼が数ヶ月ものあいだ望みながら、目にすることが出来なかった美しいブラウンの瞳と、同じ色をした柔らかな巻き毛。記憶にあるよりも幾分やつれてはいたが、美しさだけは彼の記憶そのままに、形良い小さな唇が、彼の名を形作った。
「気分はいかが……? ファウエル」
―― 二年前 ――
市民革命の足音は遠く、未だ多くの人々が一握りの階級によって支配されていた時代。
”ガランツェ公国”。後にそう呼ばれる国の中心において、今まさに落ちようとする、ひとつの館があった。
「ハルミナ! どこだ、ハルミナ!」
火の粉を散らして倒れかかる壊れた柱を幾つもくぐりながら、ファウエルは必死に彼女を探す。その頬には無数の汗が流れ落ち、常ならば柔和な面持ちを崩さない筈の顔には、明らかな焦りが浮かぶ。それでも彼は、諦める様子は露ほども見せない。所々に立ち上る煙と迫り来る炎の中を突き進んでいく彼の姿は、もしそこに見る人が居たならば異形のものと錯覚しそうなほどの、苛烈さである。
(どこにいるんだ、ハルミナ……君は、君だけは生きていてくれ。ああ、神よ、今こそアナタに願う、どうか彼女を私から奪わないでくれ)
祈るにも似た気持ちで神の名を呟けば、遠くで女性のものらしい、泣き声とも取れる悲鳴が聞こえた。
「あそこか?」
半ば傾きかけたドアを思い切り蹴破れば、中にいた二人の女が驚いたようにこちらを見つめる。ひとりは、この館に仕える侍女。幾度か見かけたことがある。もう一人は……。
「ハルミナ! ああ、無事だったのか。さあ、私と一緒に……」
〝行こう〟と差し伸べた手を、思いがけぬ程強い力で押し戻された。驚いて顔を見返せば、その小作りな顔の中で、きらきらと光る瞳が宿すのは拒絶。
よもや差し出した手が拒まれるとは到底考えてもいなかったファウエルは、己の顔が青ざめていくのを感じながら、彼女の言葉を待った。
「いいえ」
「……! 何故、そのような事を」
彼女の瞳は、冬の湖水を思わせるが如くに静かなままだ。しかし、何故、どうしてと言葉にならぬ苦悶に満ちた顔つきで見つめるファウエルを前に、やがて堰を切ったかのように涙が溢れ出した。
「私は……罪人の娘です。到底、貴方とは行けない」
「ハルミナ、馬鹿なことを!」
「いいえ、ファウエル。どうかこのまま、ここで死なせて下さい。お父様と共に……!」
キラリと、何かが炎を反射させた。
あろう事か、ハルミナは己の喉元に短刀を向けている。貴族の娘として、有事の際には自ら命を絶つように言い含められて来たのだろう。
握る手は白くなるほど強く、僅かに震える切っ先は、今にも彼女の喉を突かんばかりの位置にある。
「何を言っているんだ、ハルミナ。私が、伯父上に君の助命を願い出る。だから、そんな事は言わないでくれ!」
目の前で、愛する女をむざむざ死なせる訳にはいかない。
ファウエルが咄嗟に短刀を叩き落そうと体を動かした時、遠くで轟音が響いた。重く堅い物が折れる際の揺れに混じり、ガシャリとガラスが割れる衝撃音がする。ああ、玄関に吊るされた巨大なシャンデリアが落ちたのだ、とファウエルは瞬時に判断した。
「すまない、ハルミナ!」
ファウエルは音に身が竦んだように動きを止めたハルミナの体に、鋭い一撃を加える。
咄嗟に抵抗らしい抵抗も出来なかったらしい彼女は、そのまま彼の腕の中に崩おれた。ファウエルの狙い通り、彼女は気を失ったらしい。元々の白い肌が更に青みを増し、そのくったりと力の抜けた彼女を、ファウエルは肩に担ぎ上げる。
「付いて参れ!」
ぶるぶると震えるばかりの侍女を叱り付けると、ファウエルは己の剣をしっかりと握り締めた。
「絶対に、死なせはしない。ハルミナ……!」
そのまま火の燃え盛る館内を、どうにか形を保ったままのエントランスに向けて走り出す。炎と熱さが喉を焼くようだ。尋常でない量の汗が、彼のまろやかな頬を伝って流れ落ちる。それでも世に名高い”傭兵隊長”の血を引く彼は、微塵の躊躇いも見せずに火の中を駆け抜けて行く。
思った通り、階段を降りた玄関ホールには、この館の象徴とも言うべき見事な細工が施されたシャンデリアが、無残な姿を見せていた。
「卿……。私は何があっても、ハルミナを護ります」
呟く先は、姿なき主の居室。ハルミナの父が常にゆったりと迎えてくれた部屋は、今はひっそりと静まり、炎の侵食を待つのみだ。
傾いた玄関扉をこじ開け、戸外の新鮮な空気を喉元に吸い込んだ時〝首都の宝石なり〟とも謳われたローゼングリン邸は、炎に包まれ、瓦礫と化す所だった。