主役のはずだった吾輩
吾輩は桜である。
春になれば主役になる。
少なくとも、そう聞いていた。
冬のあいだ、吾輩はじっと耐えていた。寒いのは毎年のことだが、だからといって慣れて愉快になるものではない。枝先は冷え、風は遠慮がなく、空はだいたい白い。派手さのない季節である。目立つのは常緑の者たちばかりで、こちらはひたすら黙って、来たるべき時に備えるしかない。
だが吾輩は知っていた。
春が来れば、状況は一変する。
桜前線なる言葉まであるのだ。日本では花見文化が広く親しまれており、春になると各地で桜を眺める人々が集まると紹介されている。つまり吾輩は、季節を告げる華やかな存在であり、春の中心人物であり、言ってしまえば主役である。
そして実際、咲いた。
見事に咲いた。
枝いっぱいに花をつけ、淡い色を空へひろげ、風が吹けばやわらかく揺れる。うむ、悪くない。いや、かなりよい。遠目にも近目にも映えるし、まとめて咲けば景色ごと春にしてしまう力がある。主役とはかくあるべしである。
やがて人が来た。
来た来た、と思った。
ついに吾輩の季節が始まったのだと胸が高鳴った。
見上げよ。
愛でよ。
語れ、この枝ぶりを、この花つきを、この淡き色合いを。
だが、どうも様子がおかしい。
人々はたしかに吾輩の下へ集まってくる。
写真も撮る。
空を見上げる者もいる。
よろしい。そこまではよい。
しかし、そのあとがいけない。
「ひさしぶりだね」 「お弁当こっち置く?」 「ちょっとそこ動いて、写真撮るから」 「花びらついてる、うける」
話題の中心が、吾輩ではない。
いや待て。
おかしいではないか。
背景として使うな。
吾輩は舞台装置ではない。主役である。はるばる冬を越え、満を持して咲いたのである。もっとこう、一本の木としての気概とか、枝先の努力とか、蕾の頃から積み上げてきた忍耐とか、そういうものに思いを馳せてもよいではないか。
だが人々は遠慮なく酒をひらき、菓子を広げ、笑い、座り、再会を喜び、別れを惜しみ、ときどき思い出したように吾輩を撮る。撮るには撮るが、それもたいがい人物が真ん中で、吾輩は後ろでぼんやりしている。主役とは。
吾輩は少し考えた。
もしや人は、吾輩そのものを見に来ているのではなく、吾輩のある場を使いに来ているのではあるまいか。
その疑いは、じわじわと胸にしみた。
認めたくない。
だが、否定もしにくい。
もちろん、まったく見られていないわけではない。
時おり、ほんとうに花を見上げる者もいる。
息をのむように立ち止まり、ただ静かに見ていく者もいる。
ああいう者を見ると、吾輩も少し救われる。分かる者には分かるのだ。そう、吾輩はやはり春の中心であり、景色の核であり、言ってしまえば主役である。
ただ、その割合が思っていたより少ないだけで。
しかも困ったことに、吾輩は一人では話を完結できぬ。サクラ属には自家不和合性を示すものが多く、ソメイヨシノも自分の花粉だけでは実をつけにくいと説明されている。つまり華やかに咲いても、仕組みの上では案外ひとりで完結しないのである。
主役のくせに、ひとりでは決めきれない。
何ということだ。
吾輩は少し複雑な気持ちになった。
満開で、注目されて、春の象徴だなどと言われて、それでいて実際には人の思い出の背景にされ、自力でも全部は成し遂げられぬ。ずいぶん都合のよい扱いではないか。
風が吹いた。
花びらがひとひら、またひとひらと舞う。
すると人々が、おお、と声をあげた。
「きれい」 「散るのまでいいね」 「やっぱり桜って特別だなあ」
それを聞いて、吾輩は少し黙った。
なんだ、と思った。
ちゃんと伝わっているではないか。
全部ではないにせよ、少しは。
酒や写真や再会のついでかもしれぬ。背景扱いもされるかもしれぬ。だが、その中でふと見上げた時に、人はたしかに吾輩を見ているのだ。
主役とは、ずっと視線を独占する者のことではないのかもしれぬ。
誰かの時間の中に、春として入り込む者。
一年に一度、ちゃんと待たれる者。
その場をまるごと、少しだけ特別にしてしまう者。
そういうのも、主役と言ってよいのかもしれなかった。
もっとも、できれば次は弁当を吾輩の根元にこぼさぬよう配慮していただきたい。
主役にも、いろいろ事情があるのである。




