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第一話

 まぶたの裏に広がるのは一面の赤い彼岸花。

 白樺藤緒は血の色を思わせる不気味なほどに赤く染まった彼岸花へそっと手を伸ばしてみるが、指先に感触はなく、ただ気ままにさわさわと揺れた。そのままゆっくり手を下ろせば脚から伝わるものと同じ畳の感触がやってくる。

 藤緒はそのままゆっくりと目を開いた。彼岸花畑の中にぼんやりと薄明るい光源が遠くに見える。

 目を閉じても開いても、藤緒の前にあるのはいつも彼岸花だった。これは藤緒が生まれてから十七年、ずっと変わらない景色だ。

 藤緒の目は現世を映さない。藤緒が生まれた日、医師は彼女を弱視と診断した。全盲だと言わなかったのは──。

「姉さま、早く来てちょうだい!」

「は、はい……!」

 藤緒は鋭い呼び声にびくりと肩を震わせる。居間だろうか。声の聞こえた方を向くと、彼岸花畑の中に紫色に染まった人魂のようなものが風に煽られた炎のように激しく揺れていた。

 藤緒は幾度となく見たその魂の色形に確かな不安感を覚えるが、さらなる催促にあわてて目元を白い布で覆い隠してから立ち上がる。手探りで襖を開くと、壁に手を這わせて居間へ向かった。

 そろりそろりと慎重に廊下を歩く。そのとき足先に何かがぶつかった。

 しまった。

 藤緒が青ざめるのが早いか、藤緒はたたらを踏みながら後ずさるが己の足に引っかかって床に倒れ込んだ。とほぼ同時、鼓膜を破らんとする破砕音に藤緒は目を瞑った。

 熱く鋭い感触が手の甲に走り、次第に痛みを帯び始める。

 いつの間に花瓶が。今朝までこんなものはなかったはず。

 その惨状は、見えない藤緒にも容易に想像がつく。花瓶の割れる音とともに跳ねた水の音。遅れて聞こえてきた慌ただしい足音に、藤緒は身を竦めた。

「まあ!」

 義妹の甲高い声には、驚きと心配の中に胸の高まりが含まれている。

「来てちょうだいお母さま、姉さまが伊万里焼の花瓶を割ってしまったわ!」

「なんですって⁉」

 金切声が部屋の奥から聞こえたかと思うと、廊下の奥から赤い魂が迫ってきた。

「よくも私の大事な花瓶を!」

 頭上に降り注ぐ声に藤緒は慌てて座り直す。

「も……申し訳──」

 つきつきと手の甲に刺すような痛みを知らないふりして、藤緒が冷たい板張りの上に手を揃えようとした、そのとき、一瞬継母の赤い魂が強く揺らめいた。

 きっと痛い。

 藤緒は本能的にそう思うと、身体を大きく屈める。風を切る音が頭上を通り過ぎ藤緒はほっと胸を撫で下したが、継母の魂の色は青くそしてより強く揺らめいた。

「なんて気味が悪い子なの!」

 それは拒絶と怯え。

「お母さま。姉さまの目が見えないなんて、わたしたちの気を引くための嘘なんじゃないかしら」

 義妹がさらに継母を煽る。

「ち、違……」

 継母の魂の揺らめきが一瞬ぴたりと止まった。そして大きく揺らぐので、藤緒は覚悟を決めて歯を食いしばった。

 来る。

 張り手の破裂音は静かな屋敷内に反響する。

 口の中に不快な血の味が滲む。頬の内側を切ってしまったらしい。

「ふん。でも、もうすぐ家から穀潰しがいなくなると思えば、せいせいするわ」

「ほんとうに!」

 継母は跳ねた語調で嬉しそうに言う。藤緒は痛む頬をさすりながら、きょとんと二人を見上げた。

「あら、お母さま。もしかしてまだ年様にあの話をしていないの?」

 義妹は喉の奥から込み上げるような笑いを堪えて継母に尋ねる。継母は「すっかり忘れていたわ」とまるで演じるように大仰に言ってみせた。

「そう、お前は嫁ぐのよ。名門伯爵家当主の八色愁弥さまに」

 名門伯爵家当主、八色愁弥。

 その名に藤緒は表情を凍らせた。

 ずっと屋敷から出ていない藤緒でも、彼の名声は聞き及んでいる。

 帝都に蔓延る異形を取り締まる組織、異形鎮圧対策局で、若くして一班班長として仕切っている。廃刀令がすでに敷かれたこの時代に帯刀を許されており、異形を一太刀で断ち切る冷徹の班長。

 任務遂行のためなら何でもする冷酷無比な人間だと社交界では噂だった。

「今週末には出て行ってもらいますよ。それから決して粗相をしないように! うちが伯爵家の当主さまとつながることができるなんて、滅多にないことなんですからね」

 継母は鼻を鳴らして、厳しく言い放つ。

「姉さまってば、伯爵家当主様となんてすごいじゃない! わたしなら一緒に暮らすなんてこと、絶対にできないわ」

「藤緒。もし縁を切られるなんていう家名に泥を塗るようなことをすればおわかりでしょうね」

「は……はい」

 義妹と継母の言葉の圧力に、藤緒はしずしずと頭を下げる。

 目の見えない娘を娶るなんて、八色愁弥さまは何を考えていらっしゃるのだろうか。嫁と称して、都合のいい手を増やすためだったりして。

 冷酷無比という噂が藤緒の不安を煽る。せめて、人としての尊厳を失うことだけは……。

 藤緒は震えの収まらない手を握り締めた。

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