過ぎし主、今の主、御側にありて 1
ーーーグライヒアリト国、王宮内
従者の朝は早い。
朝日が王宮内を照らし始める前に、静かに目を覚ます。ゆっくりと体を起こし、肩を回すように腕を上げて伸びをする。
ベッドから足を下ろし、洗面室へ。冷たい水で顔を洗い、濡らしたタオルで首筋から胸元まで軽く拭って身を清める。そのまま鏡の隣にある小さなクローゼットへ向かい、棚の引き出しから一つのチョーカーを取り出す。金糸が織り込まれた上質な革に銀の留め具がついた、抑制具だ。
私はオメガだ。
王宮に住まう主人はアルファ性を持つゆえ、頸を噛まれることがないように、このチョーカーを常に装着していなければならない。
それがこの身に課せられた、従者としての義務──いや、“王族のそばにいる者”としての最低限の備えだ。
喉元にそれを巻き、しっかりと固定し、外れないことを確認する。一瞬だけ、鏡に映った自分の姿を見つめる。目に宿るのは、従者のまなざしだ。従者服に袖を通し、髪を整え、前後左右から身なりをチェックする。乱れも抜けもないことを確かめたリアンは、隣室のサービングルームへと歩を進めた。
まずはお湯を沸かす。その間に、整髪用の櫛と二種類の香油、タオルを銀盆に並べ、朝の支度用のセットを整えていく。さらに茶葉とティーセットを同じく銀盆にのせ、モーニングティーの用意を始める。
湯が沸いたら、ティーポットとティーカップに湯を注ぎ、器を温める。
続いて、豪奢な金の洗面器にお湯と冷水を注ぎ、やや熱めの温度に調える。これは、なかなか起きない“あの方”がようやく目を覚ます頃に、ちょうど良い湯加減となるように計算されたものだ。
温めておいたティーポットの湯を捨て、茶葉を入れ、新たなお湯を注ぎ、静かに蒸らす。
すべての準備を終えると、銀盆を丁寧にサービングカートに並べて載せる。サービングルームを出て廊下を進み、主人の部屋の前へと足を運ぶ。
コン、コン。
軽やかにノックの音が響いた。
「アレクサンドル皇太子殿下。ご起床のお時間です。」
返事はない。
しばし待っても気配がないため、小さく息をつき、再びノックをする。
「……失礼いたします。」
そう静かに告げると、そっと扉を開けた。
大きな窓のカーテンを静かに開けると、淡い朝日がゆっくりと部屋に差し込んだ。黄金の光が床を照らし、静かな寝室に、ようやく一日の始まりを告げる。
しかし──その気配を感じたのか、ベッドの中の主人は、かけ布団を頭まで引き上げ、顔をすっぽりと覆ってしまった。光を嫌がるように身を丸める様子に、小さくため息をつく。
「……やはり、今日もこの調子ですか。」
仕方なく、蚊帳の裾をそっと持ち上げ、乱れた部分を丁寧に整える。その手元が落ち着くと、主へ向けてやわらかく声をかけた。
「アレクサンドル皇太子殿下、朝でございます。」
返ってくるのは、規則正しく穏やかな寝息のみ。一瞬だけ迷ったが、覚悟を決めたように腰を下ろす。
「……では、強行いたします。」
宣言と同時に、掛け布団を勢いよく引き剥がす。
ばさり──。
あっという間に、黄金の陽光が主人の顔に降り注ぐ。柔らかな寝顔に、朝の光が淡く反射して美しく照らすが、その眉間には小さな皺が寄った。
「……まぶしい……っ」
ようやく、小さく唸るような声が聞こえたので三度目の呼びかけを、やや強めの語調で届ける。
「おはようございます、アレクサンドル皇太子殿下。朝の支度のお時間です。……いい加減、目をお覚ましくださいませ。」
すると、寝台の中で主人がようやく体を起こし、大きくあくびをして伸びをする。
「リアン、おはよう。」
「おはようございます。」
「今日も朝から険しい顔をしているな。」
「……殿下の寝起きが良ければ、こんな表情にはなりません。」
淡々とした口調に、僅かな呆れが滲む。それでもすぐに動き出し、用意していた銀盆を静かに化粧台の上へと運んだ。銀盆には、お湯を張った金の洗面器、整髪用の櫛、香油が並べられている。タオルを腕にかけ、主人がいつ手を伸ばしてもいいように待機する。椅子をすっと引き、ベッドから立ち上がる主人の動作に合わせて控えめに誘導した。
主人が椅子に腰を下ろし、洗面器の湯で顔を洗う。やがて、濡れた手をこちらへ差し出してくるので黙って、その手にふわりとタオルを添えた。その所作には一切の無駄がなく、朝の支度は静かに、そして自然に進んでいく。
主人がタオルを化粧台に置いたのを見計らい、肌用の香油を一滴、手のひらに垂らす。指先を合わせてそっと温めるように擦り合わせ、わずかに立ちのぼる香りを確かめると、主人の前にひざまずき、小さく告げた。
「失礼いたします。」
額から頬、顎のラインへと、丁寧に香油をなじませていく。肌に自然な艶が戻るまで、無駄のない指の動きで整えると、続いて櫛を手に取り、髪を梳く。まだ微かに寝癖が残る髪を丁寧に整え、仕上げに髪用の香油を毛先へ軽くなじませる。ふわりと香る上品な香気が空気に溶け、寝室の空気が一段と清らかになる。
「お着替えに参ります。」
そう告げると、主人がゆっくりと立ち上がる。
主人に軽く会釈をし、先にクローゼットへ向かい、今日の予定に合わせて選んでおいた衣服を手際よく取り出す。着替えを補佐する合間、リアンは主人が背を向けた隙を見計らい、脱ぎ捨てられた寝巻きを素早く手に取った。畳んだ布を薄手の香紙で包み、音を立てないよう所定の位置に置く。シャツ、ベスト、装飾の施された上着、肩章に至るまで一つひとつ丁寧に手渡し、必要に応じて着付けを補佐する。
着替えが整い、主人がソファに腰を下ろしたのを見届け、先ほど脱がれた寝巻きへと手を伸ばす。すでに薄手の香紙で包まれたそれを音も立てずに持ち上げ、サービングカートの下段にそっと滑り込ませる。主人の目に触れることなく、あくまで静かに、さりげなく──それが従者である私の流儀だ。
続いて、カート上段に置いていたティーカップを手に取り、温かい茶を注ぐ。湯気の立ちのぼるカップを皇太子の前のテーブルへ静かに置き、一礼する。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ。」
主人がティーカップを手に取ると、リアンはわずかに間を置いて姿勢を正し、朝の静けさを壊さぬよう、穏やかな声で告げた。
「本日のご予定をお伝えいたします。」
落ち着いた口調で、予定を一つひとつ簡潔に読み上げていく。主人は静かに耳を傾けながら、香り立つ茶をゆっくりと味わっていた。読み上げが終わる頃、主人はティーカップをそっとテーブルに置き、すっと立ち上がる。
私はすぐに朝食の場へご案内しようと、扉へ向かおうとした──その時。
「……リアン。」
静かな声に呼び止められ、歩みを止める。
「はい。なんでしょう──」
言い終える前に、背後から温もりが包み込んだ。肩越しに回された両腕が、迷いなく自身を引き寄せる。
「……っはぁ……リアンの匂い、落ち着く。」
低く漏れた吐息と共に、額が肩に預けられる。主人は、時折こうしてリアンを抱きしめてくる。甘えるように、安心を求めるように。
そのたびに、リアンの中で“従者の理性”と“オメガとしての性”がぶつかり合う。
──平静を装っていても、反応してしまう。抗おうとすればするほど、肌が熱を帯びてしまう。
「殿下。……お戯れは、ここまでにしてください。朝食のお時間です。」
精一杯、いつもどおりの声色を保ちながら告げると──すん、と離れるかと思ったその瞬間。
首元に付けていたベルトの上へ、皇太子の唇がふわりと触れた。
「……っ」
その柔らかな感触に、息を呑む。まるで、そこが“頸”であることを分かっているかのように。
それとも──ただの無邪気な甘えなのか。どちらにせよ、その一瞬が、心と身体に波紋を広げていく。首元に触れた唇の感触が、まだ皮膚に残っている気がする。理性は冷静を保とうとするのに、身体が追いつかない。心臓の鼓動が速い。
そんな私の様子を、まるで見透かしたかのように、主人はどこか満足げに微笑んだ。
「リアン、行こう。」
そう言って、当然のように先に歩き出す。
私は反射的に一礼し、その背を追った。足取りは整っているはずなのに、胸の奥はまだざわついている。
(……驚くから、本当にやめてほしい。)
そう思いながら、静かに扉を開ける。
まだ湯気の余韻が残る室内に、扉の外に控えていた侍女たちが一礼し、すぐに片付けの準備を始める気配が背後で動き出す。私は振り返らず、そのまま主人の数歩後ろを歩く。廊下に差し込む朝日が、今朝はやけに眩しく感じられた。




