綻びの境界
霧のように違和感が満ちていく。
それは痕跡を残さず、まるで最初からそこにあったように馴染んでいく。
「霊夢、本当に異変じゃないのか? 誰も、なーんにも覚えてねえってのは、ちょっと変だぜ?」
幻想郷中を飛び回った末に、戻ってきた博麗神社の小さな日陰で、魔理沙はそう呟いた。
「なにも、見つからなかったの?」
魔理沙は小さく頷き、持ち帰った情報。
いや、"何も見つからなかった"という報告だけを持ち帰って、黙って座り込んだ。
「ねえ、里の子どもが1人消えたのって、覚えてる?」
霊夢は突然、問いかける。
「は?......誰のことだ?」
その問いかけの返事は曖昧だった。
魔理沙は自分の記憶を辿るが、その先に答えはなかった。
「なんか、前にも聞いたような気がするけど、思い出せねぇな。」
「私も、同じ。......でも、今朝、神社の前に、子どもの名前が書かれた御札が落ちてたのよ。」
霊夢はそう言うと、名前の記されたひとつの御札を取り出した。
そしてもうひとつ、いなくなった子どもの捜索を願う 1枚の紙を、取り出した。
「私もね、思い出せないけれど...。」
春を告げる優しいそよ風が、前髪をそっと揺らす。
ほんの僅かに霊夢の視線が下を向いた。
「同じだったのよ。忘れるはずのない記憶と......今日、初めて触れたはずの記憶が。」
「...記憶が、ふたつあるってことか?」
そうぽつりと呟き、魔理沙は御札と紙に目を落とした。
やっぱり、思い出せなかった。
「違う......ひとつになってるのよ。」
「......は?」
「まるで、最初からそうだったみたいに」
霊夢の声が、どこか遠い。
思い出を辿っているような、見えるはずのないものを、見ようとしているような。
魔理沙は眉をひそめたまま、再び御札に目を落とす。
その紙に書かれている名前は、やっぱり記憶のどこにもない。
でもそれは、どこか懐かしい響きだった。
「......たとえば、さ。もしその、"本当にいなかった"、っていう記憶が幻想郷中に満ちたら、その子は......最初からいなかった、ってことになるのか?」
霊夢はゆっくりと目を閉じた。
その問いに即答できるはずもなかった。
けれど、彼女の中に浮かんでいた答えはひとつしかなかった。
「......なるでしょうね。みんなが忘れて、記録も消えて、思い出すきっかけもなくなれば......。」
ふと足元に目をやると、ついさっきまで見ていた紙と御札は、影も形もなく消えていた。
「記憶だけでなく、存在ごと...ね。」
「忘れられれば...この世から、消える。ってことか?」
霊夢は静かに首を振る。
「消えるわけじゃない。上書きされるのよ。」
「上書き......?」
「空白になるんじゃない。記録も、記憶も、今になって現実が、その子が"最初から存在しない世界"に、書き換えられていくの。」
魔理沙は、息を飲むことすら、できなかった。
「幻想郷そのものが、変わっていく。誰もが、忘れていく。誰もそのことに、気付けないまま。」
「......じゃあなんで、さっき霊夢は覚えていたんだ?その、世界から消えた子を。」
霊夢は、しばらく黙ったまま、空を見上げていた。
定まらない視線で、記憶の糸を必死に追いかけた。
「...もしかしたら、記憶が綻ぶその瞬間に、思い出せるチャンスがあるのかもしれない。」
桜の枝が揺れる音が、やけに大きく響く。
「私は、御札を見ていた。だから、忘れなかった。それを見て、名前を"知った"。それが、ぎりぎりの境界なのかもしれない。」
魔理沙は、口を閉ざしたまま顔を伏せる。 指先が、無意識に地面をなぞる。
まるで、そこにあったはずの紙と御札を、探すように。
「......じゃあ、さ。逆に言えば、記憶が改変される時にその記憶の核に触れていれば、思い出せるってことか?」
「そう...かもしれない。でも、わからない。」
地面を撫でる魔理沙の指先を見つめながら、彼女は言う。
「きっと思い出せても、それはほんの一瞬で、消えていく。もう、消えた子どもの名前を......思い出せない。」
魔理沙は立ち上がり、箒を手に取り、歩き出した。
突然のことに、霊夢の目が細くなる。
「ちょっと、どこいくのよ」
「慧音のとこだ。記憶と記録の専門家に、こんな話が通じるかわかんねぇけど......他に誰がいる?」
ほんの少し、霊夢は遠くの空を見つめた。春を彩るその青は、まるでどこまでも続くようだった。
そして霊夢は、立ち上がった。
「私も行く。.....異変じゃないって言い切れるほど、鈍感じゃないから。」
そして、2人は空へ舞い上がる。
神社に残された2人の足跡だけが、静かに微笑んだ。