消えゆく幻想
朝霧が、幻想郷を緩やかに包んでいた。
雨上がりの虹がかかる空の下、その草原には、朝露に濡れた花が風に逆らわずに揺れている。
妖精たちは、いつものように遊んでいた。
それは、気持ちの良い朝だった。
"しかしその朝は、妙に静かだった"
小鳥の声がしないことに、誰も気づかなかった。
足元に広がる草の匂いが、ほんの少しだけ薄れていたことに、誰も気づかなかった。 音も光も色も、少しずつ薄く滲んでいた。
それでも、妖精たちは笑っていた。
まるで無邪気な子供のように、遊んでいた。
ーー同じ頃。
人里には、静かな朝が訪れていた。
市場は人で賑わっていた。
店先には果物や野菜が並び、子供たちの笑い声も聞こえる。
誰もが、気づいていた。 ほんの少し音が薄くなっていることに。
しかし、そこに立ち止まる人はいなかった。
"季節の変わり目だから"
それは、この違和感を、「異変」から「日常」へと変換するためには十分だった。
稗田邸の書庫。
1冊の歴史書をめくる慧音の手が止まった。 1枚、また1枚とめくるごとに、そこに記されている色が、かすかに滲んでいた。
「あれ、おかしいな...。この本、昨日までこんな曖昧じゃなかったのに。」
記録されたはずの地名が、読めない。
何度も目にしたはずの記録が、思い出せない。
幻想郷の歴史が、白紙へと塗り替えられている。
慧音は本を閉じ、胸に押し寄せる不安を飲み込むように、深く息をついた。
「また...か。」
ここ最近、似たような"滲み"が何度も起こっていた。
古くから残る記録が、ゆっくりと、そして確かに消えていくような喪失感に包まれる。
慧音は立ち上がり、恐る恐る本棚へと手を伸ばす。
思わず動きが止まった。
視線の先には、無数の本。
いつもなら文字で埋め尽くされるはずのそこには、空白が残っていた。
「ない...またひとつ、名前が消えてる。」
その呟きは、霧のように空中へと消えていった。