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自然状態の問題点とそれを解消するための政府の設立方法について考察する。

次は、なぜ、そしてどのように政府ができたのかについて考察する。

 この自然状態には、社会的分業が一切成立しないという根本的な弱点があった。社会的分業とは、各人が特定の作業に特化し、その成果を交換することで、全体としての生産性を高める仕組みである。

 分業を成立させるためには、所有物の譲渡が可能でなければならない。しかし自然状態では、契約を執行する制度が存在しないため、譲渡は法的に機能しない。たとえ当事者間で合意があっても、それを保証し違反を罰する仕組みがなければ、約束は守られる保証がない。

 したがって、社会的分業を成り立たせるためには、契約を執行する制度、市場、およびこれらを管理する主体としての政府が必要である。

 ここで重要な問いが生じる。なぜ人々は、生存権がある程度保障されていた自然状態を離れ、リスクを伴う政府設立に同意するのか。

 答えは、自然状態の限界が明白だからである。第一に、契約執行制度の不在により分業が一切不可能であるため、人々は基本的生存を超える豊かさを得られない。医療、複雑な道具、多様な食料など、分業なしには実現不可能な便益が存在する。第二に、自然状態では紛争解決が私刑に頼らざるを得ず、冤罪や過剰な報復のリスクが常に存在する。第三に、知識や技術の蓄積・伝達が限定的であり、文化的発展が阻害される。

 人々は、これらの限界を認識し、以下の条件付きで政府設立に同意する。すなわち、自然状態で保障されていた自己所有権、生存権などの権利は政府設立後も維持されること、政府が創設する市場、司法などの新しい制度から生じる利益が、そのリスクを上回ること、である。

 この条件付き同意こそが社会契約の本質である。人々は無条件に政府に服従するのではなく、自らの権利保護と生活向上のために、限定的な権限を政府に委ねるのである。

 故に人々は社会契約を結び、政府を設立した。この時、人の自由を侵害したものを裁く権利は政府に委ねることとなった。

 政府設立により、契約執行制度が整備された。これにより、理論的には物々交換による分業が可能となった。しかし物々交換には二重の欲望の一致という根本的な問題がある。すなわち、Aが魚を持ちBが果物を持っている場合、AがBの果物を欲し、かつBがAの魚を欲するという二重の条件が満たされなければ交換は成立しない。参加者が増えるほど、この条件を満たすことは指数関数的に困難になる。

 さらに、物々交換では価値の測定と保存が困難である。魚と果物と布と道具などの異質な財の交換比率を都度決定しなければならず、取引コストが膨大になる。また、腐敗しやすい財は価値保存手段として機能しない。

 これらの問題を解決し、複雑な社会的分業を可能にするためには、共通の交換手段すなわち通貨が必要である。通貨は、交換の媒介、価値の尺度、価値の保存という三つの機能により、取引コストを劇的に削減し、複雑な分業を可能にする。

 故に政府には通貨発行を行い通貨を管理することが求められた。

 また、政府は技術革新促進のために優れた発明をした人に対しその発明の知的財産権を認めた。

 そして、政府は、誰のものでもない土地を政府が優先的使用権を持っているものとし、一部の土地の優先的使用権を政府が売りに出すとともに、土地の優先的使用権を持っている人に対して土地の使用料すなわち土地の固定資産税を求めた。土地の優先的使用権は土地の所有権ではないため土地の固定資産税を国家が人々に要求する行為は権利の侵害には当たらない。

 ここで土地の優先的使用権という概念を詳しく説明する必要がある。この概念は一般的な土地所有権とは異なる。

 自然状態において、土地は労働によって生産できないため、労働に基づく所有権の対象とはならない。したがって、誰も土地に対する絶対的所有権を主張できない。しかし、土地を使用しなければ人間は生存できないため、土地の使用に関する何らかの権利が必要である。

 自然状態では、誰もが同様に十分で良質な土地が残されているという条件の下で、各人は自由に土地を使用できた。しかし政府が設立され市場が創設されると、一部の人々が広大な土地を独占使用する可能性が生じる。この状況では、もはや誰もが同様に十分で良質な土地が残されているという条件が満たされない。

 そこで政府は、誰のものでもない土地について優先的使用権を設定する制度を創設した。優先的使用権とは、以下の特徴を持つ権利である。

 第一に、排他性を持つ。優先的使用権を持つ者は、その土地を他者に邪魔されずに使用できる。

 第二に、有期性を持つ。土地の絶対的所有権とは異なり、優先的使用権は政府が定めた条件すなわち継続的な固定資産税の支払いを満たす限りにおいて維持される。

 第三に、譲渡可能性を持つ。市場制度の下では、土地の優先的使用権は市場において譲渡可能である。これは土地を最も効率的に使用できる者に土地が配分されることを可能にする。

 第四に、条件付き性を持つ。優先的使用権の保有者は、固定資産税を支払う義務を負う。なぜなら、土地は本来誰のものでもなく、政府が配分権を管理しているものだからである。固定資産税は土地の絶対的所有に対する税ではなく、土地の優先的使用に対する使用料である。

 この制度により、土地の効率的配分と、誰もが同様に十分で良質なものが残されているという条件が満たされなくなったことへの補償すなわち生存権の保障の両立が可能になる。

 なお、相続に関しては、優先的使用権の相続を認めることで、長期的な土地利用計画と世代間の継続性を確保する。ただし、相続にあたっても固定資産税の支払い義務は継続する。

 また、政府は、通貨を介して自身の労働力や所有物を譲渡したり売ったりする人や法人に対して、そのことで発生する利益や収益に対して消費税や所得税、法人税、相続税などの税金を課した。そしてこの税金は政府が発行する紙幣で支払われる必要があるものとした。

 さらに、政府が発行する通貨の偽造は重罪とした。

 そして、政府は、人の自由と権利を守るために警察官を雇った。その警察官には政府が発行する通貨が支払われた。そうすることで政府は人の自由と権利を侵害した人を裁くことができるようになり、また私刑は冤罪を生むリスクがあったので禁止された。ここに人の自由を侵害した人を裁く権利は政府にゆだねられた。

 また、生存権保障のため、国民には一定額の通貨が配分された。これにより、市場制度から排除される危険を軽減する。また国家は市場を運営するための法律を制定することになった。なお、労働の産物に対する所有権と土地の優先的使用権と一定期間の労働サービスの提供権と自分の個人情報に他者がアクセスすることを許可する権利(同一の個人情報について複数の相手に許可を与えることが可能)と知的財産の利用許可権と知的財産権のみが、本人の完全な自由意思に基づき、市場において分離・譲渡可能とした。他のいかなる権利も、市場において分離することは不可能である。市場で分離できる権利の分離・譲渡は、本人の完全な自由意思に基づき、政府が定めた市場ルールの範囲内で行われる。

 ここで市場に参加する権利と商取引の自由の違いをより明確にする必要がある。この区別は単なる言葉の問題ではなく、人権保護の根幹に関わる。

 商取引の自由とは、何でも自由に売買できる無制約の自由を意味する。この自由を認めると、以下の問題が不可避的に生じる。貧困や病気により、人が自己の身体や自由そのものを売らざるを得ない、江戸時代の身売りなどの状況が生まれる、詐欺や強迫により、本人の真の同意なしに取引が行われる、情報の非対称性により、一方が著しく不利な条件を受け入れる、将来世代や環境など、市場に参加できない存在の権利が侵害される。

 これに対し、市場に参加する権利とは、政府が定めた法的枠組みの中で、特定の財やサービスを取引する制度的権利である。この枠組みには以下が含まれる。まず第一に、取引可能な対象の限定である。人身、臓器、特定の危険物などは取引不可である。第二に、契約の有効要件という枠組みである。この枠組みの下で、詐欺や強迫が排除され未成年者保護などが行われる。第三に、情報開示義務である。これにより消費者保護が行われる。第四に、外部性の内部化である。これにより、環境規制や労働基準などが行われる。

 具体例で考えよう。友人にリンゴを無償で譲渡する行為は、市場参加権の行使であり、食品衛生法などの規制を受ける。リンゴを市場で販売する行為は、市場参加権の行使であり、適切な納税と食品表示などの規制遵守が求められる。自分の腎臓を売ろうとする行為は、商取引の自由の主張だが、市場参加権の範囲外であり、法的に禁止される。

 この区別により、人々は市場の恩恵を享受しながら、市場が人権を侵害する道具になることを防ぐことができる。市場に参加する権利は、ただの自由ではなく保護された自由なのである。

 市場を政府が開設したことで、土地を利用したい人とそうではない人たちとの間で、また単純に人の所有物が欲しい人たちの間で所有物や労働力の売買が行われるようになった。こうして政府が市場制度を創設したことにより、政府は人々がこの制度に平等に参加できる権利を保障する義務を負うことになった。市場に参加する権利は政府が創設した制度から生まれる積極的自由であり、制度の創設者たる政府がその実現に責任を持つのは当然である。この時初めて、人々は市場に参加する権利を得ることができた。例えば、政府が市場制度を作って初めて、税制の枠内でリンゴを売れるようになった。商取引の自由とは自由にものを売買・譲渡・処分する無制約の自由を意味するが、市場に参加する権利とは政府が定めた市場ルールに従って取引を行う制度的権利を指す。前者は無秩序と人権侵害の危険を孕むが、後者は制度的保護の下で安全な取引環境を提供する。

 ところで、市場制度の創設により、人々の生存権が脅かされるという新たな問題が生じた。きわめて多くの土地を独占使用する人が現れ、その結果、誰もが同様に十分で良質なものが残されているという自然状態の条件が満たされなくなったのである。

 ここで根本的な問いに答える必要がある。もし市場制度が生存権を脅かす可能性があるなら、なぜ人々はそもそもそのような制度に同意するのか。

 答えは、社会契約の本質にある。人々が政府設立に同意するのは、自然状態で保障されていた権利が維持されることを条件としている。したがって、政府が創設する制度が生存権を脅かす場合、それは社会契約違反である。政府は、制度創設による利益すなわち社会的分業による豊かさを提供する一方で、その制度から生じる不利益すなわち貧困や格差から人々を保護する義務を負う。この義務を果たさない政府は、社会契約の条件を満たしておらず、正当性を失う。

 より具体的に言えば、人々の同意は次のような黙示的契約を含んでいる。私たちは市場制度に参加し、その恩恵を享受する。しかし、この制度が私たちの生存を脅かす場合、政府はその制度を調整し、生存を保障する義務がある。この義務が果たされない場合、私たちは政府への服従義務を免れる。すなわち抵抗権を行使する。

 では、なぜ政府は人々の生存権を保証する義務を負うのか。それは単に政府が原因を作ったからではない。より正確には、制度の創設者は、その制度から生じる外部性(externalities)を管理する責任を負うという制度論的原理に基づく。

 説明しよう。政府は人々の社会契約に基づき、社会的分業を可能にするために市場制度を創設した。この制度創設は人々の同意に基づくものであり、多くの利益をもたらした。しかし同時に、この制度は予期せぬ負の外部性も生み出した。すなわち、富の集中と貧困の発生である。

 制度設計の一般原理として、制度の創設者は、その制度がもたらす負の外部性を内部化する責任を負う。これは不法行為責任とは異なる。不法行為であれば、人のものを壊した人がものを弁償するという加害・被害の関係が明確である。しかし市場制度の場合、政府は人々の同意に基づいて制度を創設したのであり、一方的な加害者ではない。

 それでも政府が責任を負うのは、以下の理由による。第一に、制度の創設者として、政府は制度の全体的な機能を監督する立場にある。第二に、市場制度への参加は事実上強制的である。なぜなら、完全な自給自足は不可能だからである。故に、この制度から生じる不利益を個人の責任に帰すことはできない。第三に、自然状態では保証されていた生存権が、政府が創設した制度によって脅かされる場合、政府は代替的な保証手段を提供する義務を負う。

 したがって、政府の生存権保障義務は、不法行為責任ではなく、制度創設者としての制度管理責任に基づく。市場制度という道具を作った者は、その道具が適切に機能し、人々の基本的権利を侵害しないよう管理する責任を負うのである。

 なお、通貨発行の主体が政府であるか民間であるかは本質的問題ではない。たとえ民間銀行が通貨を発行する制度であっても、通貨価値を最終的に保証し市場制度全体を維持する責任は政府にある。なぜなら、法的強制力を持つのは政府のみであり、市場のルールを定め執行する権限も政府にあるからである。したがって、市場で生じる問題の最終的責任は政府に帰する。本稿では議論の簡明化のため、通貨発行主体を政府としたが、これは本質的な論点ではない。

 また、国家が司法制度を創設したことにより、国家は国民が公正な裁判を受ける権利を保障する義務を負う。司法を利用する権利もまた、政府が創設した制度から生まれる積極的自由である。このことで国民には司法を利用する権利が認められた。

 また、政府が国民の権利を奪わないようにするために、政府は民主的に運営されるべきである。すなわち参政権は認められるべきである。ここで注意すべきは、歴史的に人々が常に民主的政府を選択してきたわけではないという事実である。むしろ、多くの社会で権威主義的体制が長期間維持されてきた。

 しかし、この文章は歴史的事実ではなく規範的理論を展開している。問題は人々が実際に何を選んだかではなく、自由で平等な個人として、どのような政府に合理的に同意できるかである。 

 この観点から見ると、権威主義的政府への同意は合理的ではない。なぜなら、権威主義体制では、権力者の恣意により人々の権利が侵害されるリスクが構造的に存在するからである。権力者が道徳的で有能であれば権利が守られるが、そうでなければ守られないという状況は、権利の保障とは言えない。権利とは、特定の個人の善意に依存せず、制度的に保護されるものでなければならない。

 民主的政府には固有の欠陥、例えば衆愚政治のリスク、多数派による少数派抑圧の危険などがあることは確かである。しかし、これらの欠陥は制度設計、例えば司法の独立、少数派の権利保護、憲法による権力制限など、により緩和できる。一方、権威主義体制の根本的欠陥、すなわち権力の恣意性は、制度的に解決不可能である。

 したがって、自由で平等な個人が合理的に同意できるのは、民主的に統制された政府のみである。さらに、民主制が十分に機能しない場合に備えて、国民には政府を倒す最終的権利すなわち抵抗権が認められる必要がある。

 ところで、民主的な政府が成立するためには教育が必要不可欠である。文字が書けない国民がいたら選挙が成り立たないし、有権者が政治的な知識を知らなければ選挙の候補者の言っていることがわからないためまともな選挙が成り立たないからだ。故に政府には国民の教育を施す義務が発生した。国民にとっては、教育を受ける権利が発生した。

 ここで重要な問いが生じる。納税の義務は国民の権利を侵害していないのだろうか?

 結論から言えば、納税義務は国民の権利を侵害していない。その理由を表券主義に基づいて説明する。

 表券主義によれば、通貨の価値は徴税によって保証される。政府が通貨を発行し、税金はこの通貨でのみ支払わなければならないと定めることで、人々はその通貨を必要とするようになり、通貨に価値が生まれる。つまり、徴税システムこそが通貨価値の源泉である。

 このことは、通貨システムと徴税システムが不可分であることを意味する。通貨を使用することは、徴税システムへの参加を本質的に含意している。通貨なしの徴税は無意味であり、徴税なしの通貨は価値を持たない。この二つは同一システムの両面である。

 したがって、市場に参加する権利は、徴税システムへの参加を前提条件として含んでいる。市場に参加する権利を行使しながら納税義務を拒否することは、論理的に矛盾している。それは通貨システムの恩恵を受けながら、そのシステムの維持に貢献することを拒否することだからである。

 では、市場に参加しない人はどうか。市場に参加しない自給自足の生活を選択する人には、原理的には納税義務は発生しない。

 しかし現実には、完全な自給自足は極めて困難である。その理由は三つある。第一に、土地そのものが政府の優先的使用権の管理下にあり、土地を使用する限り固定資産税という形で通貨システムと関わらざるを得ない。第二に、現代社会では多くの財とサービスが高度に専門化しており、個人が医療、複雑な道具の製造などの全てを自給することは技術的に不可能に近い。第三に、政府が提供する司法、警察、インフラなどの公共財から完全に独立することは事実上不可能である。

 したがって、完全な市場不参加を選択することは理論的には可能だが、実践的にはほぼ不可能である。事実上すべての人が何らかの形で市場システムに参加するため、納税義務も事実上すべての人に及ぶ。

 さらに、自然状態の権利に照らしても、納税義務は権利侵害ではない。第一に、土地に対しては所有権ではなく優先的使用権しか認められていないため、土地の固定資産税を課すことは権利侵害にならない。第二に、所有物の所有権には譲渡の権利が含まれていないため、市場で取引する権利は自然権ではなく、政府が創設した制度的権利である。したがって、この制度的権利に納税義務という条件が付されていても、自然権の侵害にはならない。

 したがって、納税義務は国民の自然権を侵害するものではなく、市場制度という人工的システムに参加するための制度的条件である。通貨を使用する者は、通貨価値を保証する徴税システムの維持に貢献する義務を負う。これは権利侵害ではなく、制度的権利に伴う論理的帰結である。

 では、なぜ人々は徴税によって価値が保証される通貨という一見複雑なシステムに同意するのか。

 表券主義的通貨システムには、金本位制や商品貨幣などの他の通貨システムと比較して、重要な利点がある。第一に、通貨供給量を経済の必要に応じて調整できるため、深刻なデフレやインフレを回避しやすい。第二に、貴金属などの希少資源に依存しないため、経済規模の拡大に対応できる。第三に、徴税義務と通貨使用が結びついていることで、通貨価値の安定的な需要が保証される。

 重要なのは、このシステムにおける税は単なる収奪ではなく、通貨価値を保証する仕組みの一部だという点である。人々は市場制度の恩恵すなわち社会的分業による生産性向上を享受するために、その制度の維持コストすなわち税を負担することに合理的に同意する。ただし、この同意には条件がある。税の使途が人々の権利保護と福祉向上に向けられること、そして税率や税の種類が民主的に決定されることである。

 この条件が満たされる限り、表券主義的通貨システムは、物々交換や商品貨幣よりも優れた選択肢となる。

 ここで、市場に参加する権利が統制経済と両立しないことを明確にする必要がある。

 統制経済とは、政府が生産、流通、価格などを中央集権的に決定する経済体制を指す。この体制は、以下の理由により社会契約に違反する。

 第一に、市場参加権の侵害である。人々は社会契約により、政府が創設した市場に参加する権利を保障された。この権利には、譲渡可能な権利の範囲内で、何を生産し、何を誰にいくらで売るかを自ら決定する自由が含まれる。統制経済では、政府が生産品目、数量、価格を決定するため、この権利が実質的に空洞化する。

 第二に、自己所有権の侵害である。自己所有権には労働の自由が含まれる。統制経済では、政府が職業選択や労働配分を決定する場合があり、これは自己所有権の直接的侵害である。たとえ形式的な職業選択の自由があっても、生産手段の配分を政府が独占すれば、事実上の労働の自由の制限となる。

 第三に、情報問題による生存権保障の失敗である。政府は市場制度を創設したことにより、生存権を保障する義務を負う。しかし、中央計画当局は、無数の個人の多様な需要と能力に関する情報を把握することができない。この情報の欠如により、統制経済は慢性的な非効率と物資不足を生み出し、結果として生存権を脅かす。これは歴史的に実証されている。

 第四に、権力の恣意性である。統制経済では、経済的決定権が政府に集中する。この集中は、民主的統制を困難にし、権力の恣意的行使を招く。どの産業を育成するか、誰にどれだけの資源を配分するかという決定が、技術的・経済的合理性ではなく、政治的恣意によって行われる危険が高い。

 ただし、これは政府の経済的役割を否定するものではない。福祉国家は統制経済とは異なる。福祉国家では、市場は基本的に分権的に機能するが、政府は以下の役割を果たす。第一に、政府は市場の外部性(環境破壊、独占など)を規制する必要がある。第二に、政府は生存権保障のため、累進課税と再分配を行う必要がある。第三に、政府は市場が提供できない公共財(インフラ、教育、医療など)を提供する必要がある。第四に、政府はマクロ経済の安定化(デフレ・インフレの回避)を図る必要がある。

 これらの政府の役割は、市場の廃止ではなく、市場が社会契約の目的すなわち人々の権利保護と生活向上に貢献するよう調整するものである。

 重要なのは、政府の役割の範囲が、社会契約の論理から導かれるということである。政府は市場制度を創設した責任主体として、その制度が適切に機能し、人々の権利を侵害しないよう管理する義務を負う。しかし、市場そのものを廃止し、経済的決定を政府が独占する権限は、社会契約から導かれない。なぜなら、人々が政府に委ねたのは、市場を管理する権限であって、市場を廃止する権限ではないからである。

 したがって、この文章の社会契約論は、統制経済を否定し、規制された市場経済すなわち福祉国家を支持する。

 通貨に関しては、各国が独立した通貨システムを持つ。通貨間の価値関係すなわち為替レートは、各国の徴税能力、経済規模、政治的安定性などを反映して、主に市場メカニズムによって決定される。ただし、各国政府は自国の経済政策の一環として為替レートに介入する権限を持つ。

 国際関係における権利と義務の構造は、国内とは異なる原理に基づく。各国政府は自国民との社会契約に基づき成立しており、他国民に対して直接的な社会契約上の義務を負わない。したがって、国家の第一義的責任は自国民の権利保護にある。

 ただし、これは国際的な無秩序を意味しない。各国が自国民の権利を適切に保護している限り、国際関係は各国の利益に基づく協力関係として構築される。貿易、投資、環境などの分野での国際協定は、各国が自国民の利益を守るための合理的な調整メカニズムである。

 重要なのは、この文章で展開した社会契約論は、各国内部の政治体制の正当性を論証するものであり、国際秩序全体を直接規定するものではないという点である。国際関係は、各国の社会契約を前提とした二次的な調整の問題として扱われる。

 さらに、国際関係の基本原則として、不干渉の原則が重要である。

 各国政府は自国民との社会契約に基づき成立する。この社会契約は、各国の歴史、文化、価値観を反映したものであり、国ごとに異なる内容を持ちうる。したがって、ある国の政治体制や政策が、他国から見て最善ではないと思われる場合でも、それは当該国の国民と政府の間の問題であり、外部から干渉すべき事項ではない。

 不干渉の原則は、以下の理由により重要である。

 第一に、各国の自己決定権の尊重である。社会契約の当事者は各国の国民であり、その国の政治のあり方を決定する権利は、第一義的にその国の国民にある。外部からの干渉は、この自己決定権を侵害する。

 第二に、介入の基準の不確定性である。「適切な権利保護」の基準は主観的であり、どの国が介入の権限を持つかも明確ではない。この不確定性は、強国による恣意的な干渉を招く危険がある。

 第三に、介入自体が引き起こす問題である。歴史的に、人道的介入や「文明化の使命」の名の下に行われた介入は、しばしば被介入国の状況を悪化させ、新たな紛争を生み出してきた。

 ただし、不干渉の原則には限界もある。大量虐殺のような極端な人権侵害が行われている場合、国際社会が完全に無関心であることは道徳的に問題がある。しかし、この場合でも、介入は国際連合などの多国間の枠組みを通じて、明確な法的基盤に基づいて行われるべきであり、個別の国家が一方的に介入することは認められない。

 また、不干渉は無関心を意味しない。外交的な働きかけ、経済協力、人的交流などを通じて、各国の状況改善を促すことは可能であり、望ましい。重要なのは、これらが強制ではなく、説得と協力に基づくべきだという点である。

 したがって、国際関係の基本的枠組みは以下のようになる。各国は、不干渉の原則を相互に尊重し、各国の自主性を認める。その上で、貿易、投資、環境保護、安全保障など、相互利益となる分野での協力関係を構築する。この協力は、各国の主権を尊重する形で、合意に基づいて行われる。

 この枠組みにおいて、各国政府の第一義的責任は自国民の権利保護にあり、他国の内政に干渉する義務も権限も持たない。同時に、各国は自国の利益と国際社会全体の利益が調和する範囲で、国際協力に参加する。


政府があることで成立する権利は以下のものがある。

・知的財産権

・市場に参加する権利

・土地の優先的使用権

・参政権

・抵抗権

・教育を受ける権利

逆に、政府に委ねられた権利は以下のものである。

・人の自由を侵害した人を裁く権利

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