ママについて
「ママの悪口について話しましょう」
「どうしたんだいきなり」
「たまにはママのことを思い出してあげないと、こんな私たちにもママがいたことを忘れてしまう。私たちが何もできない幼子だった頃、きちんと死なないようにお世話をしてくれた誰かがいる。その事実は、この世界が私という存在を受け止めてくれたんだってことを気づかせてくれると思うの」
「なのに、悪口なのか?」
「ええ、そっちの方が盛り上がるでしょ? 先行は私ね。ママは料理が全くできなくて、沼地の水みたいな濁ったスープとゴムみたいに嚙み切れないパン(脚注1)しか食べさせてもらえなかった。はい、次はイーサンよ」
「ママは感情的なところがあったな。相手が子供だろうが、自分の思い通りにならないと頭をかきむしって、奇声を上げていた。昔は別にそんなもんだと思ってたけど、今振り返ってみるとあれはママの悪いところだな」
「次は私ね。ママは指の爪の間にいつも垢みたいな汚れが溜まっていたわ。本人は気にしてなかったかもしれないけど、傍から見たらおぇーっていつも思ってたわ」
「ママは片付けもできなかった。物を捨てるという概念を義務教育で教えてもらえなかったのか、要らないものが家の中にあふれていて、足の踏み場もなかった」
「自分で考えた宗教に自分で入信していたところもよくなかったわ。一人で教祖と信者を交互にやっているのは滑稽だったし、なによりそんな茶番に付き合わされるのが本当に苦痛だった」
「ママの悪口が止まらないな」
「ママだから仕方ないでしょ? 近い場所にいるほど嫌なところが目につくのよ。遠くから眺めたらとても綺麗なお花だったとしても、顕微鏡で見てみたら虫みたいな表面をしていて気持ち悪いみたいなのと一緒よ」
「だけど、それがママだ」
「ええ、そして大事なことを忘れているわ」
「なんだ?」
「ママは私たちを愛していた」
「そうだな。たとえ不器用で不格好だったとしても、誰かを愛そうとしている奴に、俺たちは持てる限りの敬意と愛を示さなければならない。その誰かというのが自分たちである場合には、なおさら」
「私は幸せだわ。愛してくれる人がいて、そして愛している人がいて」
「なんだ急に」
「急にそう思っただけよ。本当にいつもありがとう、イーサン」
「そんなことを言うのは死ぬ間際にしておいたらどうだ?」
「愛することは簡単なことじゃない。何事もね、遠くから見ている分には他人事でいられるし、無責任でいられるの。近づけば近づくほど私たちは身体から生えた針でお互いに傷つけあってしまう。それでもね、どうしても私たちは近づいてしまう。身体にできた切り傷よりも、乾ききった孤独の方が、ずっと身体に悪いんだって、知っているから。
近づこうとする私たちが悪いわけではない。悪いのは、そんな欠陥を埋め込んだまま私たちを生み出した神様。だから私ね、今度神様にクレームを入れてやろうと思っているの。とりあえず手始めに、天に向かって唾を吐いてやるわ」
「今度それをやるときは俺の分もついでにやっといてくれ」
「善は急げよ。今この場でやってやるわ。3、2、1……発射! ブッブー!!(脚注2)」
「バカ! 操縦席の天窓にお前の唾をつけてどうする!!」
(脚注1)この表現にピンとこないのであればお前は幸せ者だ。ママが近くにいるなら、ありがとうの一言でも今すぐに言っておいた方がいい。
(脚注2)唾を天に向かって吐く音。食事中だったら本当にすまない。