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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

異世界恋愛系(短編)

夢の終わりに雨を待つ。

この作品は、『白蛇さまの花嫁は、奪われていた名前を取り戻し幸せな道を歩む~餌付けされて売り飛ばされると思っていたら、待っていたのは蕩けるような溺愛でした~』(https://ncode.syosetu.com/n4142hr/)の正妻視点の物語です。単体でも読めるように書いたつもりですが、上記を読了済みでないとわかりにくい部分がある可能性があります。

正妻に事情はありつつも、自分の行いの報いが返ってくる話ですので救いがありません。苦手な方はご注意ください。

「お前のせいで土地神が消え、雨が降らなくなった。このままでは全滅だ。せめてもの罪滅ぼしに、雨を呼ぶ贄となれ」


 思い思いの武器を手に取り、近隣の住民たちが屋敷に押しかけてきた。荒縄で両手を縛られ、乱暴に外に引きずり出される。このまま神社のあった場所で、雨乞いの儀式を始めるのだろう。


 家は打ち壊され、家財道具は庭に投げ捨てられていた。よく手入れされていた庭は見る影もない。紫陽花も大手毬も銀梅花も酷いありさまだ。いっそどこぞに売り払えばその金で水を買えただろうに。


 長年この土地を治めてきた立花家もこれで終わりだ。後継だった娘はふたりともいなくなり、当主である夫はつい先日死亡が確認された。前当主夫妻も既に亡くなっている。


 立花の分家はあるものの、みな火の粉をかぶるまいと逃げ始めていた。神の怒りに触れたとある地方の一族は、結婚や養子縁組をして一族の戸籍から抜けるまで祟られ続けたと聞いているから、彼らは賢いと言える。


「さっさと歩け」


 わざとなのだろう、時折、不規則に縄を引っ張られる。その度に地べたに転がる私を見て、彼らは口元をにやつかせていた。


 私ごときの命で、雨を呼ぶことなどできるものか。それよりも早く立花家に代わる家をたて、新たな土地神を招くべきだ。


 けれどそれを伝えてやる義理はない。祝言をあげたあの日から、私はこの土地を守りたいとはどうしても思えなかったのだから。



 ***


 

 私と夫は家柄のみで決められた政略結婚だった。大和(やまと)の国で暮らす華族であれば、取り立てて珍しいものではない。それでもそれなりの関係を築くつもりでいた。誰が好き好んで冷えきった夫婦仲になることを願うだろうか。


 元々一人娘として婿を取る予定が、年の離れた弟が生まれたおかげで急遽嫁に行くことになった私。この年になって婚約者を選び直した訳あり女をもらってくれる相手など、自分以上に訳ありでしかないことにどうして思い至らなかったのだろう。


 祝言の日、夫はおもむろに小声で「お前を愛することはない」と言った。それは、三三九度を交わす直前に言わなければいけない台詞だったのか。蔑ろにされることに慣れていたはずの心がつぶれた気がした。おそらく私はあのときにすっかり壊れてしまったのだ。


「わたしには別に愛する女がいる。正妻としてお前を娶ったが、それは家の存続に必要だったからだ。わたしは、お前を必要としていない。今後、こちらを煩わせることのないように」


 大和の国は、神との距離がとても近い。だから偽りを誓うことなどできなかったと言えば聞こえはいいが、おそらく夫は自分の心に嘘をつきたくなかったのだ。


 そして男が妾を囲うのは当然と考えている人間は残念ながら多い。ここで騒ぎ立てれば、叱責されるのは私ひとりだけ。


 だから耐えた。この世で一番幸せな花嫁に見えることだけを考えて、静かに微笑む。


 いびつな笑みを浮かべたものの、傍目には御しやすい貞淑な花嫁に見えたらしい。夫の両親は満足そうにうなずいていた。


 滞りなく初夜が行われたことだけは幸いだった。政略結婚なのだ、夫の子どもを産むことができなければ、私は役立たずの烙印を押されることになる。実りの有無は畑の問題とは限らないけれど、こんな時に槍玉に挙げられるのは大抵嫁のほうなのだから。

 


 ***



 夫の生活の中心は本宅ではなく、妾の家だった。この地を治める立花家の跡取りの嫁が、ただの平民では体裁が悪い。そう考えた姑たちによって勧められた縁談だったのだから当然だ。


 だからこそ腹に赤子がいるとわかったとき、私は何かが変わるかもしれないと期待してしまった。そんな都合の良い奇跡など、私の人生で一度たりとて起きたことなどなかったのに。


 そして私は賭けに負けた。


 私が妊娠したことを告げてからも、夫は本宅に戻ってくることはなかった。時を同じくして、妾の女も妊娠がわかったらしい。つわりに苦しむ時期どころか、産み月になっても、そして陣痛が来た当日も夫は私の隣にはいなかった。


 痛みをこらえながらひとりぼっちで過ごしたあの時間を、私はきっと忘れられない。


 妾が住むこぢんまりとした家とは異なり、立派な産室があつらえられ、有能な産婆や乳母が待機していた。それでも、生まれたばかりの赤子を抱きしめながら、母親としての幸せを感じるどころか心はますます冷たくなるばかりだった。


 さらに私は、もうひとつの賭けにも負けてしまっていた。生まれてきた子どもは女の子だった。私は跡取りを産むことすらできなかったのである。

 


 ***



 だが、そこで千載一遇の好機に恵まれた。なんと妾のうちにやっていた産婆が、妾の子どもを抱えて帰ってきたのだ。産婆いわく、あの女は赤子こそ無事に産み落としたものの、出血が酷く意識が戻らないまま病院に運ばれたらしい。妾の家にいた夫は、子どもを産婆に預けそのまま女に付き添ったのだという。


 本当に愚かな男だ。産婆が自分の味方だとどうして思えたのだろう。そして正妻が、夫が心から愛していた女の赤子を見つけたらどうするか。そんなことすら考えられなかったのか。


 少し力を加えればすぐに息絶える子どもを前に、私は最高の復讐を思いついた。妾の産んだ子どももまた女児だった。ちょうどいい、子どもを入れ替えてやろうではないか。


 ついでに、妾の産んだ子どもの名前を奪ってやった。大和の国では、名前は神から与えられるもの。その名前こそが加護となり、力となる。名を奪うことが禁忌だということは重々承知していた。けれど、私が祈り助けを求めたとき、神は私に手を差し伸べてはくれなかった。ならば、禁を破ったところで何が問題になるだろうか。既に私は修羅にいる。


 雨音(あまね)という名前だった妾の娘は(おと)と名付け、奪った雨の一文字は我が子の名前に付け足してやった。「有子(ゆうこ)」は「有雨子(ゆうこ)」となった。「雨が有る」のだ。土地を守り治める、立花の娘にふさわしい名前と言えるだろう。


 産婆に私の産んだ子どもを預けると、後日夫が妾の子として連れ帰ってきた。夫の腕の中ですやすやと眠る我が子を見て、結婚してから初めて安らかな気持ちになったのをよく覚えている。


 それから私はずっと、妾の子どもとして私の娘を可愛がり、私の子どもとして妾の娘を突き放してきた。鈍い夫の前で妾の子どもをいたぶってやれば、傷ついた心が癒されるような気がするのだ。何も知らない夫との家族ごっこは、気が狂いそうなほど心地よかった。


 妾の娘は、成長するにつれてどんどんあの女に似ていく。それにも関わらず娘を無視し、私の子どもを一心に可愛がる夫の姿はひどく滑稽だった。妾の娘はこのまま一生使用人として飼殺しにしてやろう。よそに嫁にやるなどそんな勿体ないことを誰がするものか。


 そう思っていたはずなのに、妾の娘はとびきり大きな魚を釣り上げてみせた。さすが、あの女の血を引いているだけのことはある。おとなしそうな見た目で、男を手玉に取るのはお得意のようだ。そして私の復讐はあっけなく幕を閉じた。


 愛されない私と、愛されていたあの女。愛されているあの娘。やはり私はどうあがいても、幸せにはなれないようだった。



 ***


 

 妾の娘がいなくなってからの、家族の崩壊はあっという間だった。もともとまやかしだったのだから、驚くようなことでもないのだろう。


「あんたのせいよ。あんたが、(おと)を虐めるからこんなことになったんじゃない。わたしは悪くないのに。どうして。どうしてわたしがこんな目に!」


 妾の娘が土地神と姿を消したあの日、娘は夫と百貨店に出かけていた。そこで突然倒れたのだ。あの電話は、実の娘が病院にかつぎこまれたことを知らせるものだった。


 奪われた名前を取り戻した(おと)は健康になった。それならば、今まで(おと)の力を奪っていた有子(ゆうこ)はどうなるのか。その答えは病院に到着してすぐにわかった。少女とはとても思えない老いさらばえた身体。娘は自身の寿命で今までのツケを払わされていた。


「全部、あんたが勝手にやったことじゃない。わたしを巻き込まないでよ。こんな目に遭うなんて。あんたの子どもになんか生まれるんじゃなかった。もっとちゃんとした親が欲しかった。あんたが死ねばよかったのに!」


 戸籍上は義理の娘という関係になっていたが、私は実の娘である有子(ゆうこ)を愛情深く育てたつもりだ。多少わがままなところはあるものの、それすらも可愛く愛おしく感じていた。だが、その結果がこれなのか。心がぽっきりと折れた気がした。結局私は、親にも夫にも子どもにも愛されなかったということなのだろう。


 病院でできる治療はなく、私は娘を家に連れ帰った。(おと)がいなくなってから、もともと少なかった雨は完全に降らなくなってしまった。土地神を祀っていたはずの神社もまるで最初から何もなかったかのようにがらんどうだ。


 立花家の出来損ないと言われていた娘と土地神が共にいなくなり、両親に可愛がられていたはずの娘は老女のような姿になった。それだけでも察するに余りあるというのに、夫はすべて私が仕組んだことなのだと隣近所に訴え出たらしい。本当の娘を探してくれと頼むつもりだったようだが、彼は袋叩きにあったのだという。


 土地の者たちは、立花家に責任を取るように言い募った。自分たちの行いで土地神を失ったというのなら、贄となり雨を呼べと。


 飲まず食わずで干からびるか、山の獣に喰らわれるか。はたまた山の上で火炙りになるか。どう転んでも穏やかな死に方はできなさそうだった。


 生贄に選ばれずとも、急激な老化で身体を動かすこともままならない有子(ゆうこ)は、私が面倒を見なければ近いうちに命を落とすだろう。だったら寝台の上で逝かせてやりたい。枕を顔に押しあてたのは、確かに親心だった。濁った声で恨み言を撒き散らすのではなく、ただ母と呼んでくれたなら、代わりに死んでもいいと思えるくらい愛していた。


 夫は怒り狂っていた。


 普段口答えをしたことがない私だったが、今回ばかりは言いたいことを言わせてもらった。口で私に勝てないからか、夫には散々殴られた。夫が怒れば怒るほど滑稽でつい吹き出してしまい、さらに酷く頬を打たれる羽目になったが後悔はしていない。


 それほどまでにあの女の子どもが大事だったというのなら、どうして十何年も一緒にいて気がつかなかったのか。確かに私はあの女の子どもと、自分の子どもを入れ替えた。けれど、夫がふたりの子どもを分け隔てなく育てていたならば、こんなことにはならなかったのだ。


 可愛がっていたはずの有子(ゆうこ)があんな姿になっても、我が身の不幸を嘆くばかり。きっとこの男には、人間として大切なものが欠けているいるのだろう。


 愛した女を忘れられず、いなくなった娘をただひたすら探し続けた夫は、ある日かつて神社があった場所で死体となって見つかった。


 どうしてそんなところに入り込んだのか、小さな穴蔵に身体をねじ込んでいたらしい。もともとは蛇の巣穴だったのだろう、いたる所を蛇に噛まれ、生前の面影はどこにもなかった。


 そしてたったひとり立花家に残っていた私は屋敷が襲撃された際に怒れる男たちに捕まり、贄として枯れ井戸に放り込まれたのだ。



 ***

 


 痛む身体を無理矢理ひねれば、遥か遠くに青い空が見える。井戸の底から見える空はあまりに小さい。


 一体、どれくらいの時間が経ったのか。口の中で乾燥してねばつき、舌がはりついている。それでも雨が降ればいいとは思えなかった。


 死にかけのまま、私はひとり考える。隣人たちはすべてを私のせいにしたけれど、本当に私だけが悪いのだろうか。


 (おと)がまともな扱いを受けていないことは、我が家に出入りする使用人の口を通して、そこら中に知れ渡っていたはずだ。だからこそ、音は華族の娘でありながら多くの平民たちにも軽んじられてきた。


 (おと)の不遇を見て見ぬふりをしてきた人間たちは、どうして被害者面をできるだろう。(おと)の隣に立ち、彼女の境遇を憐れみ、彼女の人生を救うべく立ち上がった者以外に、私は非難される筋合いなどない。


 だからいっそ、この土地は枯れ果ててしまえばいいのだ。祟ることは意外と簡単だ。それがわかるくらいには、私は今とても死に近い場所にいる。


 恨み辛みを吐き出そうとしたその時、目の前に誰かが立っていることに気がついた。おかしな話だ。枯れているとはいえ、ここは井戸の底。そう簡単に入ってこれるような場所ではないのに。


 異国の服を身にまとった美しい男だった。人間とは思えないその美貌には、見覚えがある。(おと)を連れていなくなった土地神だ。


「面白いものを見つけたので拾いに来てみれば。また面倒な存在に成り果てて。この土地はもうどうにも立ち行かぬな」


 男は独り言を呟きながら、ビー玉をふたつ弄んでいた。ビー玉といえば澄んだガラス玉を想像するものだが、それはほんのりと青白く、そしてどこかどろりと濁っている。あまり綺麗だとは思えなかったが、男はどことなく嬉しそうだ。


 ビー玉同士をぶつけ続けていると、それは激しい赤色になった。


「一丁前に怒るとは」


 さらに強くぶつけ続けると、今度は次第に濃い青に染まっていく。先ほどの状態が怒っているというのなら、これは割れるのを恐れて怯えているということなのだろうか。


 ビー玉に感情があるのは初めて知ったが、ひとならざるものが好ましいと思う逸品なのかもしれない。いっそ割れてしまったらどうなるのか、試してみるのも一興だろう。


「自業自得だと笑いにきたの? 残念だけれど、私は後悔なんてしていないわ。何度あの日に立ち返ったとしても同じことを繰り返すはずよ。私が傷ついた分、あの娘だって傷つくべきだわ。親の因果が子に報いる、当然のことよね」


 私の言葉を聞き、男は馬鹿にしたように鼻で笑った。


「死んで楽になれると思うなよ」


  男の言葉に、今度は私が笑った。だって私の人生は、生きながらにして地獄のようなものだったから。愛されることのない日々。実の娘にさえ、てのひらを返された。本物の地獄に落ちたとして、何が変わるというのか。


 私の答えに、男は蛇結茨(じゃけついばら)を振りかざした。あれは茎や葉の軸に(トゲ)があるのだ。私を痛めつけようというのか。怯むことなく睨みつけてやれば、ふわりと黄色の花弁が舞い落ちた。同時に、ふわふわとした小さくて柔らかい、あたたかな何かが私の中を通りすぎていく。甘く優しいこの匂い、これは一体いつ嗅いだものだったか。


 ――おかあさま、だいすき――


 懐かしい声は、小さく幼い(おと)の姿をしていた。

 


 ***

 


 驚きで目を丸くする私の上に、後から後から黄色の花弁が降り積もる。それは私の凍りついていた心を溶かすように、奥深くに押し隠して見ないようにしていた好意を引っ張りだしてきた。


 ああ、愛されていた。私は確かに愛されていた。


 愛を乞い続けた私を愛してくれていたのは、憎み邪険にしていたはずのあの女の娘だった。


 (おと)の優しさが不愉快だったのは、彼女だけが純粋に私を愛してくれていたからだ。


 (おと)もまた、ただ家族の愛を求めていた。私が欲しがり、手に入れられず、(おと)から奪ったもの。愛を乞い続けた私たち。


  私たちは同じだったのかもしれない。寂しくて、苦しくて、愛されたくて必死に誰かを愛していた。だが、自分はあの子どもに何をした。戸籍上の母である私に疎まれたあの子は、今までどうやって生きてきた?


 足元が大きく崩れていくような気がした。耳鳴りと目眩がする。吐き気が止まらない。


(おと)、ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 溢れる涙は頬を伝い、枯れ井戸の底に落ちていく。それは地面の上にとどまることなく、みるみる吸い込まれてしまった。その瞬間、泣いていた理由がわからなくなる。


 どうして?


 口の中に砂が入り込んだような気持ち悪さ。呆然とへたり込む私を横目に、男が面倒くさそうに髪をかきあげた。


雨音(あまね)にお前たちは必要ない」


 何を言われているかわからず、男の顔を見つめた。


「だが喜ぶといい。お前の中身が空っぽになれば身体は朽ち果てる。くびきから解放されれば、地獄の底から抜け出すことも叶うだろうよ。お前の夫や実の娘と違ってな」


 男は、ポケットを叩いてそう言った。もしやあれはビー玉などではなく、夫と娘の魂だったのか。輪廻転生から外された彼らと、(おと)への執着を失くせば成仏できると言われた私。扱いの違いの意味を考えてみて、そっとかぶりを振った。


(おと)は私を捨てたの?」

「黙れ。(おと)などという娘は存在しない」


 実際に手を触れられたわけではないというのに、ひゅっと喉を立てたあと息ができなくなった。気道に何かが詰まっているような、息を吐くことも吸うこともできず静かに恐ろしさがこみ上げる。あのときと同じだ。


 ようやっと本当に大切なものが何だったのか気がついたのに。涙でぼやけた向こう側で、男は蛇によく似た目を細めて嘲笑っていた。


「お前が悔い改めたことが、雨音(あまね)の役に立つのか? 何の得になる? 雨音(あまね)はお前たちとの繋がりなど捨てて幸せになるべきだ」


 雨音(あまね)と呼ぼうとした。口の中に甘露のように広がる愛しい娘の名前。けれど、私の口からはその名前は紡がれない。声に出すことを許されていないのだ。


 あの子に知らせないまま、この男はすべてを終わらせようとしているのだとわかった。とても優しい娘だったから、私が手を伸ばせばきっと握り返してしまうから。


「忘れたくなければ、いつまでもそこにいるがいい。自分が何者であるかを、亡者が覚えていられると思うのならばな」


 男は振り返ることなく、消え失せた。雨音(あまね)の元に帰ったらしい。大和の神々は気に入った相手は驚くほど大切にする。鬱陶しくなるほどに愛されているに違いない。心に傷を抱えた雨音(あまね)にはそれくらいでちょうどいいのだろう。


 雨音(あまね)との縁が切られてしまった。それは当然のことだというのに、私は涙を止められない。後から後からあふれてきて、地面に吸い込まれた。気がつかない間に私を支え、形作っていた雨音(あまね)の優しい心は、あっという間にてのひらからこぼれ落ち消えていく。


 愛されたいと願い、愛を乞い続けた愚かな私は、気がつかない間に手にしていたたくさんの愛を拒み、踏みつけにし、自ら壊してしまっていた。



 ***



 今日も地べたにはいつくばり、ただ空を見上げている。どうしてここにいるのかさえも思い出せないが、おそらく雨乞いの贄として差し出されたのだろう。雨を乞うために捧げられたと思われる供物が、そこかしこに転がっていた。


 一体どんな罪を犯したのか、この井戸の底から離れられぬまま、雨が降るのをただ待っている。


 ――……――


 何かを言いかけて、口ごもる。大切な何かを忘れてしまった。目の端に小さな女の子が見えたような気がしたが、振り返らなかった。探せば消えてしまうのは、もう十分に理解していた。けれどおずおずと手を握られたような感触がして、そっと繋ぎ返してみる。


 雨乞いのために井戸に投げ込まれるような女だ、覚えていなくても己の所業がわかるというもの。そのような鬼畜が母であるはずがないから、小さな女の子ははぐれた母を求めさまよい、私の元に迷い込んだのだろう。愛おしく、あまりに哀れだった。


 ふと、すぐそばにすり鉢状の小さな穴が開いていることに気がついた。穴の底では、砂色の虫がうごめいている。


 蟻地獄だ。この不恰好な生き物は、大人になると薄衣(うすぎぬ)のような羽で空を飛ぶことができるらしい。まるで極楽に向かう天女のように美しいそうだ。


 成虫になればもはや死ぬばかりだとわかっていても、天へと昇りたいものだろうか。それでも空は美しいのだろうか。私にはわからない。ただ、ここにいなければいけないと思うばかりだ。


 ぎらぎらと照りつける太陽に目がくらむ。いっそ私を焼き尽くしてくれたらいいのに。


 どうして、雨が恋しいのか。

 どうして、雨が愛しいのか。


 喉が渇いてたまらない。遠い空をただじっと見上げる。目の端にうつる子どもに、一口でいいから水を与えてやりたかった。


 雨はまだ、降らない。

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i000000 バナークリックで、 『白蛇さまの花嫁は、奪われていた名前を取り戻し幸せな道を歩む~餌付けされて売り飛ばされると思っていたら、待っていたのは蕩けるような溺愛でした~』に飛びます。 2023年5月31日、一迅社さまより発売されておりますアンソロジー『虐げられ乙女の幸せな嫁入り』2巻収録作品です。 また、2023年10月1日よりブックライブさまにて単話配信も始まりました。単話配信記念の作品はこちら。 『声を失くした薄幸乙女は、一途な元軍人に愛される~不幸を招くと恐れられて家から追い出されましたが、実際は幸せを運ぶお手伝いをしていました~』 何卒よろしくお願いいたします。
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