第四話
「――えさま、お姉さま!」
「……え?」
窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていると、ミラに呼ばれた。
ふと見ると、向かいに座る彼女と目が合って、彼女はふふ、と笑みを零す。
「お姉さまってば、領地を出てからずっと外を眺めてばっかり! そんなに面白い?」
「ごめんなさい。なんだか、不思議な気分で」
こんなに穏やかな気持ちで馬車に揺れらることなんて、これまで一度もなかったから。
「お姉さまはほとんど領地から出ないものね」
「……そうね」
ミラは、私が学院に通いたかったことも、父が私をあの邸に閉じ込めていたことも知らない。その代わり、父が私に対してとても過保護だと思っているようで、「お姉さまばっかり」と拗ねていることも偶にある。
小さく、息を吐いた。
ゲヴィッセン卿が進言してくれなければ、こんなこともなかっただろう。
――借りばかり作って、いつか返せる日は来るのかしら。
「でも私、ずっとお姉さまと王都に行きたかったの! ギルバート様だけじゃなくて、私ともデートしてくれるでしょう?」
上目遣いにこちらを見るミラに、ええ、もちろん、と答える。
ゲヴィッセン卿は、ああ言ってくれたけど、次期公爵様だから。そう頻繁には会えるほど暇ではないだろう。
私としては、こうしてエーアガイツ領から連れ出してくれただけでもありがたい。
愛想だけは着かされぬよう、できるだけ我儘は控えよう。紳士は、物静かで従順な淑女を好むというから。
そう決意を固めていると、斜め前、ミラの隣から視線を感じた。
母だ。
母とは、あまり話した記憶がない。昔から、母は私の問いかけにあまり答えてくれなかった。
ミラとはいつも、庭の東屋で微笑みながらお菓子を食べていたので、恐らく母は、私を嫌っていたと思う。
母の方を見ると、やはり彼女は表情をわずかに強張らせていた。それでも、しっかりと目が合う。いつも、逃げるように目を伏せていたのに。
何か言うわけでもなく、じっと見つめる彼女を、こちらも静かに見返した。
「なにか?」
「……いいえ」
問うと、そっと視線を外された。居心地の悪い空気が流れる中、ミラだけがにこにこと楽しそうに笑っている。無邪気なんだか、鈍いんだか。小さく息を漏らして、窓の外を見た。しばらくするとまた、母の視線を感じたけれど、私は気づかないふりをした。
ああ、早く、王都に着かないかしら。
王都へ着いたのは、辺境伯領を出て二週間後だった。
前回ぶりに訪れた王都は、シーズンでもないのにとても賑やかだった。
温かい色の石畳が敷かれ、天幕を張った露店が並び、騒がしく声が飛び交う。ふと路地の方を見ると、子供たちが集まって石畳に何かを描いている。隅に咲いた野花を摘んでいる少女や、駆けまわる少年たち。広場には、噴水の縁に腰かけて寄り添う男女や、ベンチで本を読む老人もいる。
通り過ぎていくその景色を眺めながら、私は少しだけ、羨ましく思った。
こんな素敵な青空の下を、あんな風に駆けまわれたらどんなに素敵だろう。石畳の隙間から芽吹く花は、どんなに愛おしいだろう。あのベンチに座って本を読む時間は、きっととても心地いいに違いない。
あんな風に、あんな風に……。胸の内からこぽこぽと沸き上がる妄想を、止められなかった。もし、私がエーアガイツに生まれていなければ。ハンデル辺境や、この王都に住むような、庶民の子供だったら。実を言えば、何度も何度も思ったことがある。けれど、考えれば考えるほど苦しくなってしまって、必死に考えないようにしていた。
――やっぱり、見れば羨ましくなってしまうけれど、前ほど胸が苦しくならないのは、ゲヴィッセン卿のお陰かしら。
「お姉さまがそんな風に笑うの、初めて見たわ……!」
ミラの声に振り返ると、彼女はやっぱりにこにこ笑っている。領地を出てから、ずっとこんな感じだった。私と王都へ来れたのが、よほど嬉しいらしい。
「……そう?」
そっと、自分の頬を触れ、首を捻った。
「ええ! すっごく嬉しそう!」
「あなたも嬉しそうよ」
「ええ、お姉さまが嬉しいと、私も嬉しい!」
「……そう」
邪気のないミラの言葉に微笑んで、また窓の外に目を向けた。
ほどなくして、エーアガイツのタウンハウスに到着した。立派な馬車回しで、護衛騎士の手を借りて車からおり、荷物も下ろした。
「お帰りなさいませ、奥様、ミラ様、そして――――レイラ様」
屋敷から出てきたのは、白灰のごとく染った髪をワックスで整えた、老齢の男だった。お仕着せをピシッと着た彼は、私を見ると穏やかに微笑む。
「私は家令のロンです」
ロンに会うのは、一度目のとき以来だった。
二巡目、三巡目のときは、すでに婚約が決まった後だったから。ここに来るのも、久しぶりだった。深い歴史と威厳を感じさせる堅牢な佇まいのエーアガイツ邸を見上げ、私は胸いっぱいに息を吸い込んだ。
とても懐かしい気がして、やっと、過去三回とは違う未来を歩いているのだと実感して、吐く息が震えた。鼻の奥がツンと痛くなって、堪えるように目を伏せる。
「お姉さま? もしかして、馬車に酔ったの?」
心配を顔に浮かべたミラが、顔を覗き込んだ。
「……いえ、大丈夫よ」
「そう、ならよかった。さあ、こっちよ!」
安堵したように微笑んだミラに手を引かれ、私たちを出迎えるために揃ったメイドや執事たちに温かく迎えられながら、屋敷に入る。
広い玄関ホールの中央には大きな階段があって、二階へと真っ直ぐ伸びている。階段を挟んだ左右には廊下があり、左の廊下は応接室やリビング、ダイニングにサロン、それから客室、右の廊下には使用人たちの仕事部屋や個室が並んでいる。
中央には、美しい中庭があったはずだ。
ミラは私の手を引いて、真っ直ぐ二階へ上っていく。二階は、ホールに面して半円に廊下があり、左右に二つずつ扉が並んでいる。たしか、護衛や執事たちの仮眠室と待機になっていたはず。
階段から真っ直ぐ穿つように廊下が伸びていて、天窓からの光が燦々と差し込む。左右にずらりと扉が並んでいるが、それらをスルーして中庭に面した廊下に出ると、また見えた階段をさらに上っていく。
エーアガイツのタウンハウスは三階建て。その三階部分が、エーアガイツ家の主な居住スペースだった。
前当主夫妻――つまり私たちの祖父母は、辺境伯領の穏やかな田舎町に移りするんでいるため、今ここに住んでいるのは使用人たちと、母、ミラ、そして兄のアイザックだ。あと、今日から私も。
「お姉さまの部屋はこちらよ!」
私の手を引いていたミラが立ち止まったのは、胡桃色の扉の前だった。早く開けて、目で訴えてくるミラに苦笑しながら暗い金のドアノブを握った。
扉を押し開けた途端、眩しさに思わず目を細める。中庭に面した部屋は、柔らかい日差しにとっぷりと浸かっていた。
落ち着いたフォレストグリーンの遮光カーテン。金のラインと花の柄が散るスプリンググリーンの壁紙。緑と金で統一された部屋は、一度目で過ごした部屋と随分、内装が違っている。
思わず固まっていると、ミラがふふふっと悪戯っ子のように笑った。
「素敵でしょう? 先に戻ったアイクお兄さまに調えてもらったの。と言っても、ほとんどアイクお兄さまが誂えたのだけど」
「……」
「どう? 気に入ってくれた?」
確かに、ミラと共にカントリーハウスに戻っていた兄は、仕事が溜まっているからと、私たちより先に王都に戻って行った。
そのときには既に、私がこちらに来ることが決まっていたから、ミラと話し合って、この部屋を準備してくれていたらしい。
「どうして……」
「うん?」
「私、緑が好きだなんて言ったこと、あったかしら」
私の言葉に、ミラは可笑しそうに笑った。
「何言ってるの。兄妹だもの。それくらい分かるわ!」
ミラの言葉に、息が苦しくなった。
――――ミラも私も幼くて、兄もまだ王都の学院に就学していなかった頃。私たちはカントリーハウスの中や、庭や、そばの森で、いつも一緒に遊んでいた。大人たちが呆れるくらい、仲が良かった。
それなのに、一体いつから、ミラや兄と距離を置くようになったのかしら。
四度もやり直したせいか、一度目の記憶や、幼い頃の記憶がはっきりとは思い出せなくなってしまった。
冷たい父や、私との対話を避ける母と同様に、兄もミラも、私に興味が無いのだと、思っていた。ミラは私によく懐いているように見えるけれど、彼女は誰に対してもこうだから。
――――だから、まさか、私の好みに気づいて、それを覚えていてくれるなんて。ましてやこんな風に、私のために部屋を調えてくれるだなんて、想像もしていなかった。
一度目のときは、こんなことはなかったはず。ピンクベージュで統一された、質素な部屋だった。なのに、どうして――――これも、ゲヴィッセン卿と婚約したから?
「……とっても、素敵な部屋ね」
翠玉の目を輝かせて私の感想を待つミラに、そっと微笑みを向ける。
「ありがとう」
告げた言葉は、紛れもない本心だった。