第二話
あの御方との婚約が決まったことを父に知らされたのは、私が十五を過ぎた頃だった。顔を合わせたのは、それから一年後のデビュタントを迎えた後。
白金の髪に、琥珀色の瞳を携えた、まるで御伽噺から出てきた王子様のような麗しいお姿に、私は一目で恋に落ちた。
こんな素敵な方と一緒になれるだなんて、なんて幸せなのだろうと。父も母も、私を大切にはしてくださらなかったけれど、本当はきっと、心の奥底で私の幸せを願ってくれているのだと、柄にもなく燥いだ。
――それが、まあ、大外れだったのだけど。
「お前の縁談が決まった」
巻き戻ったあの日から一週間が経ったある日。父に呼び出され書斎を訪ねると、呼び出した父は手に持った書類から一切視線を上げることなく、淡々とそう告げた。
「……どなたとでしょうか」
「シルト公爵家の御嫡男、ギルバート・ゲヴィッセン卿だ」
その名を聞いて、思わず息が漏れる。
――本気、だったのね。
冗談だとは思っていなかったが、父の口から聞くとより、重さと現実味が増した。
小さくはいたはずの溜息に反応して、父がちらりと視線を上げる。自分と同じ、オリーブ色の瞳が冷たく光る。それだけで、全身が凍り付くような感覚に襲われた。
目を逸らすように瞼を伏せ、頭を下げる。
「承知いたしました」
私に、ノーと言う権利はない。言えばどうなるか、身を以って知っている。
――あの御方に嫁ぐより、よっぽどマシよ。
今までのやり直しとは大きく違う四回目。安堵と不安が渦巻く胸中を悟られないよう、平静を装いなが父の書斎室を後にした。
自室へと続く廊下を歩いていると、向こうからも人影が歩いてくるのが見えた。
春に咲く花の色に似た、柔らかいピンク色のドレス。細かいフリルをあしらったボリュームのあるスカートを揺らしながら歩いてくるのは、妹のミラだった。
「お姉さま!」
ミラは、私を視認した途端、ぱあっと表情を明るくし、人懐こい笑みを浮かべて駆け寄ってくる。ツインテールにした蜂蜜色の髪が、軽やかに揺れた。
「おはようございます!」
「……ええ、おはよう。ミラ」
私は挨拶を返しながら、ぎこちなく微笑む。
昔からなんとなく、ミラには苦手意識があった。気質が違うからだろうか。それとも、もっと他の理由か。
地味で可愛げのない私と、天真爛漫で、愛らしいミラ。その人懐こさ故か、両親や兄にもとても可愛がられている。お茶会に出ても、ミラはいつも人に囲まれ、笑っていた。
羨ましいのだろうか。妬ましいのだろうか。自分で自分の気持ちが、よくわからなかった。けれど、きっと、私はミラを家族として愛することはできないだろうなと思う。
「お姉さま、ご婚約が決まったのでしょう? おめでとうございます!」
「ありがとう」
「きっと、とっても素敵な人なんでしょうね!」
「さぁ、どうかしら」
「でも、なんだかちょっと寂しいわ。その方に、お姉さまを取られるみたいで……」
それでも、しゅんとするミラはやっぱり可愛くて、思わず苦笑しながら目線より少し低いところにある頭を撫でる。
「すぐに嫁ぐわけじゃないわ」
今の私は十四歳。ギルバート・ゲヴィッセン卿は確か十六歳で、今は王都の学院に通っている学生だ。婚姻を結ぶのは、ゲヴィッセン卿が卒業した後だろう。
ちなみに、王都の学院には、貴族子女であれば十二歳から入学できるが、私は父から許しが出なかった。行く必要がない、と言われれば、イエスと返す外なかった。一方でミラは、「お友達が欲しいの」と可愛らしく強請って、父から許しを得ていた。はしゃぎながら学院の制服姿を見せに来たミラを、あのときばかりは少しだけ、恨めしく思った。
今は長期休暇中で領地に戻ってきている。授業が始まるころにはまた、兄とミラは、母と共にタウンハウスへと戻るのが常だった。
「それで、お相手はどなたです?」
「……ギルバート・ゲヴィッセン卿だそうよ」
「……えっ……」
まあるく目を見開き、暫し固まったミラは、パチパチっと数回瞬きをしたかと思うと、一足飛びで近づいてきた。その勢いに思わず仰け反る私を腕を、可愛らしくない握力で掴む。
「ギルバート様!? 本当に!?」
「え、ええ」
「なぜ!?」
「なぜ、と言われても」
むしろ私がそれを聞きたいくらい、と口に出しかけた言葉は続かなかった。
ミラが来た方からぱたぱたと早足で来たメイドが、私を呼んだからだった。
「レイラお嬢様、お客様がお見えです」
お客様? そんな予定あっただろうか、と小首を傾げる。
「どなたが?」
「ギルバート・ゲヴィッセン様です」
私とミラは暫しフリーズした後、大慌てで応接室へと向かった。
玄関扉は既に開いていて、執事長が出迎えていた。
エントランスに着いてまず目についたのは、ギルバート・ゲヴィッセン卿が腕に抱えた大きな花束だった。
執事長と話していたゲヴィッセン卿がこちらに気づき、涼しげな目元をふっと和らげた。
「レイラ」
嬉しそうに名前を呼ばれ、思わず面食らう。しかしすぐに持ち直し、淑女の礼を取った。
「ごきげんよう、ゲヴィッセン卿」
「ああ」
頷いたゲヴィッセン卿は、執事長の横を通り過ぎ、私の前まで来ると、抱えていた花束を左腕に預け、開いた右手で、私の左手を掬い取った。
「突然連絡もなしに来てしまってすまない。どうにも浮かれてしまってね」
そう言いながら、ケヴィッセン卿は指を絡め、照れたように笑みを漏らす。隣から、小さな悲鳴が聞こえた気がした。
「レイラ、婚約の話、受けてくれてありがとう」
絡めた手を引き寄せて、指先にキスを落とす。あまりに気障ったらしい仕草に、再び硬直する。
――あ、あら? ケヴィッセン卿って、こんなだったかしら。
初対面があんなシーンだったから、もっと真面目でお堅い人かと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
イメージとの相違に困惑していると、ケヴィッセン卿は流れるように花束を渡してきた。
「アウフレーイングの街で一番美しい花を扱う店で作ってもらったんだ。受け取ってくれ」
アウフレーイングは、ハンデル領でもっとも商売が盛んで、活気にあふれている街だ。この屋敷から馬車で一時間もしないところにある。私はあまり行ったことがない。
受け取った花束は意外と重量があり、落とさないようにと慌てて腕に力を込める。
花束をもらうなんて、生まれて初めてのことだった。胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、腕に抱いた花束を見下ろす。白くて小さな鈴蘭と、花弁が幾重にも重なった、紫色の花。
「薔薇……ですか?」
「いや、ラナンキュラスというそうだ」
「ラナンキュラス……」
初めて聞く名前だった。
「かわいい」
むずむずする唇をきゅっと引き締め、お礼を言う。
「素敵なプレゼントを、ありがとうございます」
「喜んで貰えたようでよかった。実は、プレゼントはまだまだあるんだ。執事長に運んでもらうよう頼んでおいたから、後でゆっくり見るといい」
「……ええ。ありがとうございます」
ケヴィッセン家の従僕がせっせと荷物を玄関に運び入れている様子をあまり視界に入れないようにしながら、ケヴィッセン卿を見上げる。
「あの、もしお時間よろしければ、お茶を飲んでいきませんか」
「良いのか?」
「ええ。御礼には足りませんが、頂いてばかりでは申し訳ないですから」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
私は頷いて、腕に抱えた花束をメイドに渡した。部屋に飾っておくようにと指示をして、用意させておいた部屋へと足を向けた。
「では、ご案内します」