『黄金樹』6
6
伊藤たちはテントから少し離れた広い原っぱに移動した。ニ十冊以上あるノートが重い。
「腕が千切れそうだ」
「大丈夫だよ。ただのノートだから」
「そうじゃなくて、重いって言っているんだ」
「そりゃまあ、ニ十冊もあればね」
そう言う麻來鴉が手に持っていたのは、軽そうな皮袋だけだ。むっとしながらも、伊藤は草の上にノートが入った紙袋を降ろした。空は晴れていて月明りが強い。おかげで夜でもよく見える。
「で、まず何をするんだ」
「降霊術に必要なのは三つ。魔術を実行する術者、霊とこの世を接続するための魔法陣、そして霊を呼び寄せるための縁」
「術者が君で、縁はこのノートか。で、魔法陣ってのは?」
「焦らない、焦らない」
麻來鴉は懐から紙に包まれた小さなものを取り出した。紙はとてつもなく古そうで、何かの文字が無数に書かれている。
「それは?」
「これは魔法陣を閉じ込めたチョーク。不死鳥の卵の殻から作ったと言われている」
「不死鳥?」
「わたしも見た事はない。いるのは知っているけど」
言いながら、麻來鴉はチョークの包みを取り、その先を原っぱのほうへと向けた。まるで指揮棒か何かのように、麻來鴉がチョークを振るうと、先端からオレンジ色の光が放たれ、みるみるうちに、草の上に模様を描いていく。
オレンジ色の光線が描く大きな円の中に、複雑な幾何学模様が描かれる。ランプのようなオレンジの光が明るく周囲を照らしている。
「すごい……」
伊藤は思わず、そう言ってしまった。
いつの間にか、魔法陣を挟んで反対側に、オボロとヨミチの二人が経っていた。
「これで魔法陣は完成。次に縁を」
言いながら、麻來鴉がさっと手を振ると、さながら鳥の群れが飛び立ったかのように、ノートが次々と紙袋から飛び出して魔法陣の上で広がる。
「っ……」
伊藤は息を呑んだ。
「伊藤さん、ごめん。ちょっと手を貸して」
「手?」
言いながら、伊藤が右手の掌を麻來鴉に向けると、途端に掌が何かに切り付けられたかのように、痛みが走った。
「っ! 何を――」
「ごめんね。ちょっと伊藤さんの血が欲しくて。大丈夫、傷はすぐに塞がるから」
飛び出した伊藤の血液は、麻來鴉が手に持った皮袋の中に吸い込まれていった。
「その袋……」
よく見れば、袋は、あの俄者髑髏とかいう怪物の砂を麻來鴉が回収した時に使っていたものだ。
「そう。この中の霊砂には、あなたのお祖母さんの情念が込められている。血筋である伊藤さんの血液と、情念が込められた遺物を使い、彼女の霊魂を呼び出す」
血と砂が入った皮袋を勢いよく振り回すと、麻來鴉は袋を放り投げた。ちょうど魔法陣の中心に落ちた袋の口から、少し砂が零れた。
「伊藤さん、傷をつけた掌を魔法陣に向けていて」
いつの間にか、麻來鴉の瞳がターコイズブルーに輝いている。言われるがまま、伊藤は掌を魔法陣に向けた。痛みはすでに感じていない。
「お祖母さんの名前は?」
「みつ子。伊藤みつ子だ」
「オーケー。じゃあ、ここから気を付けてね」
気を付ける? と、問い返す間もなく、麻來鴉の目が爛と光るのと同時に、魔法陣の輝きが増した。
「死者の国に至る途上に、魂は迷う。未だ生者の世界に欲するものがあるのならば来たれ。安らぎがそこにないのなら、今一度立ち寄るがいい」
魔法陣の上のノートのページが、風もないのにぱらぱらとめくれた。
麻來鴉の指先が、複雑な模様を描く。魔法陣が明滅する。
「重ねて告げる。未だ生者の世界に欲するものがあるのならば来たれ。伊藤みつ子。芯治の血筋。黄金樹の担い手」
月明りに雲が差す。どのノートもばらばらとめくれて、嵐のような音を立てる。幽砂の入った布袋が、まるで心臓のように脈打つ。
「おい、これ……やばいんじゃないか」
「やばいよ」
うろたえた伊藤に、こともなげにオボロが答える。
「降霊術は、本来開けなくてもよい扉を開ける術。死者の眠りを覚まし、異界を呼び起こす術」
淡々と、ヨミチが言った。
「特に今回は、死者の生前の情念が籠ったものを縁にしている。呼び出された霊が持つ呪力は相当なもののはず」
異様な緊張感に、伊藤の体は包まれていた。何者かの息遣いを首筋に感じる。いや、目の前にも、足元にも誰かの気配がする。いるのだ。見えないが、すぐ近くに。
「なあ、もしかして……もう」
そう言いかけて、伊藤は周囲の景色が一変している事に気が付いた。月は雲に隠れ、魔法陣の光もなく、冷気が満ちた原っぱはさながら墓所のような暗い影に支配されていた。青白い、人間ではない者たちが伊藤を見ていた。はっきりと見えていた。宙に浮かぶ髪の長い女性。憎しみの籠った目でこちらを睨む中年の男性。腕を組んだ女子学生の首から上は黒い靄がかかり、小さな子どもが伊藤の顔を氷のような冷たさの手で叩いている。
「伊藤さん」
「うわっ!?」
魔女の声がすぐ耳元でして、伊藤は思わず飛び退いた。顔を叩いていた青白い子どもはどこかに行ったが、伊藤の目にはまだはっきりと他の連中がこちらを見つめているのが見えた。
「魔女……なあ、これ」
「幽霊だよ。死者の国にちょっと近付いたからね。まあ、わたしがいれば平気だよ」
麻來鴉は伊藤の肩を抱き、虚空に指を動かした。
「悪いけど、用があるのはあなたたちじゃない。そろそろ出て来るんだ、伊藤みつ子」
視界がおかしくなっていく。目は魔女の指の動きを追っているはずなのに、どんどんこちらに迫ってくる青白い幽霊たちの顔が同時にフォーカスされる。学校の教室。どこかの工事現場。オフィス。カメラが切り替わるように次々と見えるこの光景なんだろう。そういえば、何だか空気が薄い。青白い者たちが迫ってくる。
「姿を現せ――……」
魔女の声。それから。
「芯ちゃんはね。あんな風になっちゃ駄目だよ」
気が付けば、伊藤は夕暮れのスクランブル交差点に立っていた。
こんな時間に伊藤が一人で出歩く事はない。何故なら、伊藤はまだ小学生だからだ。外に出る時は必ず祖母と手を繋いで出る。今、この時のように。
「芯ちゃんはね。この世界で汚されてはいけないんだ」
交差点を行き交うサラリーマンや学生や親子連れを憎々し気に睨み付けながら、祖母は言った。
「世界はね、汚くなってしまったんだよ。お金を稼ぐために自然を次々と潰してビルや街に変えてしまった。だから、今の世界の人間は、魂が汚れてしまっているんだ」
祖母が、伊藤の右手をぎゅっと握る。掌がむずむずする。
「おばあちゃんが守ってあげる。おばあちゃんが芯ちゃんを綺麗なままにしておいてあげる。芯ちゃんはおばあちゃんの言う事をよく聞いておくんだよ。大丈夫、黄金樹様が守ってくれるからね」
祖母の瞳が伊藤を見る。いつも通りの目。優しい目。優しいと、そう思っていた――……
「ずぅっと生きていられるんだ。ずぅっと、ずぅっと……」
次の瞬間、顔面に拳を食らって、伊藤は床に倒れ込んだ。
祖母はもう傍にはいなかった。伊藤は高校生だった。何かの理由で因縁をつけられて、名前も覚えていない同級生に殴られたのだった。同級生は馬乗りになって、伊藤の顔を力いっぱい殴った。痛い。本当に痛い。だが、頭のどこかで、この出来事を他人事のように捉えている自分がいる。この世界は汚れている。だから、汚れた空気を吸った人間が何をしたとしても不思議ではない。
「伊藤さあ、お前%$#&」
汚れた人間の言葉は音が歪んでいて、うまく聞き取れない。
「あんま調子乗$#&%%#」
捨て台詞を吐いて、同級生らはどこかに行ってしまう。
血が流れる。口の中が切れ、頬骨が痛み、鼻が折れている。
それでも自分という存在が遠い。
「伊藤君」
また場所が変わっている。高校を卒業後、ほんの少しだけ興味を覚えてやったバイト先だ。店長の男が意味の理解出来ない言葉をひっきりなしに喋っていた。それは店の売上の事や、伊藤の接客態度についてや、社会人としての心構えというものについてだった。言葉はわかる。だが、意味は理解できない。
思えば、自分は世界と解離していたのだと、伊藤は唐突に悟った。周囲の人間に興味が持てなかったのは、つまりそういう事だったのだ。この世界と、伊藤芯治という人間とは、お互いに解離した存在だった。だから、この世界で伊藤はどこにも行く事が出来ないし、世界の住人であるほかの人間たちが話す事も理解できない。
「ちょっと、伊藤君さあ! さっきから聞いてんの、ねえ!?」
いきり立った店長が机に拳を叩きつける。伊藤は踵を返す。覚えている。この時は、一人で怒り出した店長を置いて、黙って店を出たのだ。
「――え?」
ドアを開けたその向こうに、店内の景色はなかった。
「芯治」
懐かしい声がした。
「どうしたの? 次はコーヒーカップに乗るんでしょ」
黒い髪が揺れる。女の人が伊藤を見ている。そう確か、来週からは小学校に行くので、それで今日は遊園地に行こうと。家族三人で。お父さんと自分と、それから――
「お母さん……」
母が伊藤に手を差し出し、伊藤はその柔らかな掌を握り返す。先で待っていた父が心配そうに伊藤の頭を撫でる。
「芯治、大丈夫か。気分でも悪いのか?」
「ううん。僕、大丈夫だよ」
そう言って、幼い伊藤は父と母の手を握る。
確かにあった。確かに、幼い日に両親と三人で出かけた思い出が。どうして今まで忘れていたのだろう。両親と話した記憶なんて、少しも思い出せなかったというのに。
「なあ、芯治は大きくなったら何になりたいんだ?」
「もう決まってるのよね。この間ママに話してくれたもんね」
「うん! 僕ね、大きくなったらコックさんになる!」
意気揚々と幼い自分が答える。自分の口から出た言葉なのに、まるで他人の言葉を聞いたかのようだ。コックさん? 何で。昔の自分はそんな事を思っていたのか? まるで思い出せない。
「コックさんか! そりゃすごい。父さんは料理が出来ないから、将来は芯治に作ってもらえるな!」
「もう。あなたもせめて目玉焼きくらいは作れるようになってよ」
父と母と、そして幼い自分が楽しそうに笑う。疑いようもなく楽しいと感じている自分と、その様子を遠くから見ている自分の両方が同時に存在していて、伊藤は自分の意識の置き場がどこにあるのか戸惑った。今、この目に見えている景色は、かつて自分が体験した出来事なのだろうか。それとも、こうあってほしかったと望む自分が造り出した幻なのか。
コーヒーカップへと続く通路の先に、奇妙な物が見えた。
植木鉢だ。見覚えがある。植木鉢から生えた小さな木。傾き始めた西日を受けて光る、黄金の実。
両親の手の温かさが唐突に氷のように冷たくなった。
はっと気付いたその瞬間には、傍らに両親の姿はなかった。遊園地の通路に二枚の布団が敷かれ、顔に白い布を掛けられた二人の人間が、その中で横たわっている。
いつの間にか、幼い伊藤は家の中に戻っていた。目の前で眠っているのが自分の両親だというのは理解していた。理解していて、それ以上は考えられなかった。
「芯ちゃんはね。こいつらとは違うからね」
祖母の細い指が芯治の肩を抱く。耳元に祖母の吐息を感じる。
「ずぅっと生きていられるんだよ。汚い世界じゃなくて、この綺麗な家で。ずうっと、ね」
黄金樹が新たな実をつける。家の中に紙幣が溢れていく。植木に注がれる水のように、大量の紙幣が小さな団地の一室を、両親の死体を、伊藤自身を埋もれさせていく。
まるで海の底に沈んでいくかの如く、伊藤の呼吸は止まりつつあった。苦しい。が、体が動かない。紙幣の重みで身動きが取れない。意識が薄れる。
不意に、右の掌に鋭い痛みが走った。体中を覆っていた紙の重みが消え、供給が途絶えかかっていた空気を肺に取り込む。
右の掌にナイフで切られたような傷があった。痛みのせいで意識が少しだけ自分の元に戻ってきたような気がした。怪我をした事は何となく覚えているが、どうして怪我をしたのかは覚えていない。
家の中には誰もいなかった。永遠の命を囁く祖母も、命が絶えてしまった両親もいない。伊藤を窒息させかけた紙幣の山も掻き消えていた。
黄金樹も、ない。
玄関のドアが開いていて、伊藤はそちらに足を向けた。血が、掌から滴り落ちて、伊藤の足跡を残していく。
団地の廊下は住人で溢れていた。皆、好奇の目をこちらに向けているのが伊藤にはわかった。
「何で働いていないの」「どうやって生活しているの」「ずっと家にいるよね」「何もしていなんじゃないの」「遺産があるんじゃない」「異常だよ」「謎だよね」……
自分が、こうした目で見られている事はわかっていた。わかっていたつもりだった。しかし、今、こうして言葉を向けられてみて感じるものは恥辱と苛立ちと不快感だった。伊藤はどのような生き方をして、どのように振る舞っていようと、他人に累が及ばない限りは口を出される筋合いはなかった。
これが世界の汚れなのだ。現世が発している悪臭なのだ。彼らが他人に向ける好奇の感情が、そのまま彼らの内部を腐らせ、死へと追いやっているのだ。
人々の声の波が両耳を埋め尽くす。耳を押さえても、人の声が入ってくるのを止められない。
団地を出た。ようやく人の声が遠ざかった。外は昼でもなく、夜でもなかった。ただ白と黒に色分けされた世界だった。
花の香りがする。
ああ、そうだ。あの人を探さないと。汚れた世界の中で、ただ一人伊藤が欲しいと思った女性。あの人を探そう。そうして、二人で夕食を食べよう。
そう思って、花の香りがするほうへ足を向けた時だった。
「その先には何もないよ」
後ろから声がした。
振り返れば、人くらいの大きさの、漆黒の鳥が立っていた。
いや、鳥ではない。嘴に見えたのは先の折れたとんがり帽、翼に見えたのは裾の長い黒マント。
魔女だ。鴉の魔女。屍肉を食らう汚れた鳥。
「探したよ。伊藤さん」
青く輝く瞳で、魔女が言った。
「探した……?」
伊藤は、半ば自動的にオウム返しをした。頭が働かない。
「ここは魂と記憶の世界。精神だけが存在出来る世界。永遠に彷徨を続ける明晰夢の中。生きた人間が長く留まってはいけない」
「夢……」
魔女が右手を差し出した。
「帰ろう。記憶に縛られて出られなくなる前に」
「帰る――」
花の香りは、魔女がいる側とは反対から香っている。
「帰った先に、あの人はいる?」
血が掌から滴る。ぼうっと靄のかかった頭で、伊藤は魔女に尋ねる。
魔女の目が険しくなった。
「あなたをあいつに会わせるわけにはいかない」
――ああ、何だよ。
伊藤の胸中に明確な苛立ちが走った。
――こいつも同じか。余計な事しか言わないのか。
「それなら、僕は帰らない」
伊藤は踵を返して、花の芳香が強くなるほうへと歩き出した。行く先は暗闇だったが、香りが導いてくれる。
「駄目。待って――」
魔女が追ってくる。そうとわかって、伊藤は走り出した。
「オボロ、ヨミチ! 雄鶏の役割を果たせ!」
魔女が叫ぶ。指を鳴らす音が聞こえる。何かが爆発したかのような轟音が耳をつんざく。
伊藤はただ一心に闇の中へと駆け込んだ。
気が付くと、伊藤は団地の前で息を切らせて電柱にもたれかかっていた。全身から汗が噴き出している。夜風は冷たく、体は少し震えている。
さっきまでうすぼんやりとしていた意識が、今ははっきりとしていた。明確に、ここが現実の世界だというのがわかった。右手から血は出ておらず、傷は塞がっていた。
むせ返るほどの花の香りが、周囲に漂っている。
わかる。伊藤にはわかっている。急いで団地の中に入り、階段を駆け上がる。薄暗い廊下には誰もいない。ここには、伊藤を苛む者は一人もいない。
自分の家が見えた。鍵穴に鍵を入れて、回そうとしたところで伊藤は違和感に気付いた。開いている。
自分が興奮しているのがわかる。団地中が植物園にでもなったかのように、花の香りが充満している。
ドアノブを回して、中に入る。
暗い部屋の中に、真っ赤な服を着た女性がいる。
「おかえりなさい。伊藤さん」
ボブカットが微かに揺れて、彼女が微笑む。
「ただいま。桐緒さん」
世界があるべき姿になったと、伊藤は思った。