正義か忠義か その1
苦い。
口の中に血の味が広がり、不快極まりない。
腹部に深手を負い、地べたに這わされているとなれば、尚更である。
「残念だよ、騎士アンギル・グード。
君を――エインジア帝国の次代を担うべき優秀な騎士を、この手に掛けねばならんとはな」
哀しい目で自分を見下ろすその男の名を、アンギルは知っていた。
「バルワッド・ヴィラング将軍、どうして貴方がここに……」
まるでわけがわからなかった。
騎士アンギル・グードは、齢二四という若さながら卓越した剣技で帝国騎士団の隊長格にまでのし上がった男である。
部下への面倒見も良く、品行の悪い騎士や従卒も多い軍部の中で彼の従える部隊は特に規律正しいことでも評判だった。
困った人々を見ればこれを助け、悪行を見ればこれを正す。
まさに騎士の中の騎士、そう呼ばれるほどに人気を博していた。
今日は帝国に従属した北の隣国フィーレンと繋がる山道に蔓延っている山賊の情報を得て、五〇人の部下を引き連れてはるばる討伐にやってきたのだ。
だが、これは一体どうしたことか。
情報では三〇人前後と知らされていた山賊の規模は一〇〇人以上だった。
しかも山賊にしてはよく訓練されており、中には正統の剣術の太刀筋を見せる者も多数混じっていたのだ。
部下達は次々に討たれ、最後に残されたのはアンギルただ一人のみ。
なおも孤軍奮闘し続けた彼だったが、今しがた左脇腹を貫かれ、ついに力尽きた。
その一撃を受けた相手こそ、エインジア帝国にその人ありと謳われた将軍バルワッド・ヴィラングだったのである。
齢一五という若い頃から単身で戦に参加していたバルワッドは、三〇年の長きを戦いに捧げ数々の武勲を上げてきた、生粋の武人である。
その栄誉を称えられ、将軍位を賜ったのが一〇年前の事だ。
それからも彼は子飼いの軍勢を引き連れて戦場を駆け回り、エインジア帝国に数々の勝利をもたらした。
今の帝国が大陸最大にして最強の国家となったのは、彼のおかげだといっても過言ではない。
アンギルにとっても、バルワッドは憧れの人だった。
幼い頃に見た、敵国との戦いに勝利し凱旋してきた彼の雄姿は、今もこの目に焼き付いている。
その英雄が、なぜ山賊の頭領となって自分達に剣を向けるのか。
「なぜなのですか、閣下!」
「命令だよ、グード君。
上層部は、君の死をお望みなのだ」
バルワッドは懐から一枚の書状を取り出し、アンギルに向けて見せた。
「そんな、まさか」
アンギルには信じられなかった。
それは命令書だったのだ。
《騎士アンギル・グードの抹殺指令》を示す文章の下には、皇帝の刻印まで為されている。
すなわち、勅命だ。
今まで国を想い、正義の騎士となるべく努力し働いてきた。
帝国に背くことなど、断じてしてはいない。
一体なぜ、自分が死ななければならないのか。
「わからぬのも無理はない。
我々は、君達が山賊討伐の任務でやってくることも、その人数も全て知らされていた。
謀られたのだよ、君は」
命令書を懐にしまいながらバルワッド将軍が告げた事実は、あまりに衝撃的だった。
ここに至ってアンギルは理解した。
今しがた戦っていた敵が、山賊などではなかったことに。
相手は、山賊に扮したバルワッド将軍麾下の精鋭達だったのだ。
彼らを使ってまで、上層部は自分を始末しようとしているのだ。
「君の騎士道は確かに正しい。
だが、あまりに正しすぎたのだよ。
帝国の上層部は不正と汚職にまみれ、私腹を肥やす者達で溢れている。
そんな彼らにとって、正義を掲げて日に日に名声を高める君の存在は目障り極まりなかったのだろうな。
ゆえに、君はここで葬り去られるのだ。
下賤な山賊どもに無様に討たれた、騎士の名折れとしてな」
何ということだ。
悔しさのあまり、アンギルは思わずぎりっと歯を食いしばった。
正義を貫いたがゆえに死なねばならぬとは。
そのために、己を慕ってくれた部下達まで巻き添えにされた。
彼らはただ、ともに戦ってくれただけだ。
ただそれだけの理由で、全員殺されてしまった。
理不尽だ。
理不尽すぎる。
「君には同情の念を禁じ得ない。
だが、しかし。
帝国に忠義を捧げる者として、私は役目を果たさねばならぬ」
言いながら、バルワッドは血塗れの剣を頭上に掲げ、上段に構えた。
「もはや問答無用。
せめてもの情けだ、一思いに楽にしてやろう」
戦わなければ、とアンギルは立ち上がろうとするも、身体に力が入らない。
腹の深い傷から流れ出た大量の血と共に、力までもが抜け出てしまったようだ。
もはや、あがくことすらできない。
(我ながら、なんと不甲斐ないことか……!)
これから訪れるであろう死を前にしながらも、アンギルは自分の無力さに悪態をつかずにはいられなかった。
「さらば、騎士アンギル・グード」
無慈悲な刃が振り下ろされ、そこでアンギルの意識は途絶えた。
「――ッ!」
思わず、ハッと目が覚めてしまった。
何ということだ。
アンギルは自分自身に呆れ果てた。
なんと生々しい夢か。
まさか自分が殺される場面を見てしまうとは。
しかも、その相手がよりにもよって尊敬するバルワッド・ヴィラング将軍とは。
自分には被虐癖でもあるというのか、とアンギルは無意識に額に手を当てようとして――気づいた。
腕が、思うように動かせない。
足もだ。
直立した状態で、まるで狭い場所に閉じ込められたかのように、身体を自由に動かすことができない。
そもそも、目を開けているのに辺りは真っ暗だ。
ここは一体、どこだ?
不思議に思いながらもアンギルが身体をよじっていると、次第に身体の周囲の壁が崩れ、少しずつ空間ができてきた。
鼻を利かせてみると、どうにも土臭い。
そして、頭の上だけがやけに軽い。
(もしや、土の中なのか)
そう判断したアンギルは、まず狭い中で何とか腕を動かし、頭上に向けて両手を押し上げた。
あっさりと自分の身体に覆いかぶさるものを突き抜け、手はその先にある空を撫でた。
さらに手を掻き分けて邪魔なものを払うと、やがて中天からの眩い陽の光が差し込んできた。
やはり、自分は地面の下に埋められていたようだ。
それも横に寝かせてではなく、わざわざ直立するように、である。
誰が、何のために?
アンギルは不思議に思いながらも、穴の中から抜け出した。
「……ここは」
見覚えのある場所だった。
山道の途中、脇にある開けた広場。
今しがた見た夢の、まさにその場所ではないか。
「どういうことだ……?」
体に被る土を払い落としながら、アンギルは考えた。
夢が事実だったとすれば、自分は偶然にも生きていたということになる。
死んだと判断されて、そのまま埋められたのだろうか。
しかし、剣で深く刺されたはずの腹部に傷がない。
剥ぎ取られてしまったのだろう、アンギルが装備していた剣と鎧が手元にはないのは、まあ分かる。
だが、激戦だったにも関わらず、身に着けた紺色の軍服には傷や汚れが何一つがないのだ。
これもまた不可思議であった。
やはり、よくわからない。
無意識に頭に手を当てようとして、さわ、と何かに手が触れた。
感触からすると、何かの草か。
それが、頭に生えている。
ゆさゆさと揺り動かしていると、ぷつり、とそれが取れた。
「……何だ、これは」
鮮やかな緑の葉を広げる、背丈の低い野草。
アンギルが初めて見るものだった。
だが、今はこんな草にかまけている場合ではない。
自分の現状がわからないことの方が問題だった。
どうでもいいものを持っていても仕方ないと、アンギルは頭に生えていた草を無造作に投げ捨て、辺りを散策するべくその場を去った。
アンギルにはわからなかったのだ。
その投げ捨てた草がマンドラゴラという魔草で、今の自分はその根がアンギル本人の血を吸って成長したアルラウネという魔物であるということを。