私が幸せであるために その1
昼下がり、バートリー伯爵邸の広大な庭園はいつもと変わらぬ美しさを湛えていた。
色とりどりの花々が広い園内を鮮やかに飾り咲き誇るさまは、訪れる客人達が感嘆の声を上げてしまうほどだ。
特に、中央にある東屋からの眺めは見事というよりほかない。
「うぅっ……」
だが、その東屋で今、リアーナはテーブルに顔を伏せてすすり泣いていた。
バートリー伯爵夫妻の一人娘である彼女は夫妻から目に入れても痛くないほどに可愛がられ、美しく可憐に育った。
そして一六になる今年の初頭、お忍びで庭園を見にやってきたシャード王家のイングス王太子に見初められ、婚約することになったのだ。
王太子からの求婚に、リアーナも伯爵夫妻も大いに喜んだものだった。
しかし、事件は三〇日前に起きた。
その日も庭園で花を愛でていたリアーナは何者かに襲われ、腕と背中を斬りつけられたのだ。
幸い、近くで花の手入れをしていた庭師の青年オリオが彼女の上げた悲鳴に気づき駆けつけたため、襲撃者はすぐに身を翻し、軽々と塀を飛び越えて逃げ去った。
傷は思ったほど深くなかったが刃に毒が塗られていたらしく、ほどなくどす黒く腫れあがり、リアーナは高熱と激痛に見舞われて数日間苦しんだ。
その後、熱は下がり痛みも治まったが、醜い傷痕が消えることはなかった。
医者が言うには、毒が肌に根深く浸透しているため、取り除くには深く皮膚を抉り取らなければならないという。
それゆえに、施術の痕はずっと残ってしまうだろう、とも。
リアーナは悲しみに暮れた。
自分の美しさが失われたことに、ではない。
この醜い傷痕を見た王太子から蔑まれて婚約を破棄されてしまったら両親に申し訳が立たない、そう思ったからだ。
今は急病による療養中と称して社交の場に出るのを断っているが、このままずっと隠し通すことはできない。
いったい、どうすればいいのか。
お気に入りの場所だったこの東屋は今や、彼女が一人嘆き苦しむ場所となってしまったのである。
その様子を、庭の片隅で花の手入れをしているオリオはそっと眺めていた。
物心つく前に母を亡くした彼は、五つの頃に庭師だった父に連れられてこの伯爵邸に住まわせてもらえることになった。
専属庭師となった父に駆り出され、小さい頃から仕事の手伝いをしていた。
父の指導のもとで庭師の技を仕込まれ、オリオが一五になった頃には一人前の庭師だと認められた。
その父が急病で亡くなり、齢一八という若さで庭園の管理を受け継ぐことになった。
それから一年、父が手掛けたこの庭園のあるべき姿を守るべく、オリオは毎日花の手入れを欠かさなかった。
この庭園は、元々リアーナ嬢のためのものなのである。
小さい頃から花が好きだった彼女のために、伯爵は殺風景だった庭を作り変えることに決めたのだ。
庭園が完成し、初めて見せた時の彼女は大いに感動し、喜びに満ちた笑顔を見せてくれた。
その笑顔を絶やさぬために、父も自分も頑張ってきたのだ。
それなのに。
三〇日前のあの日、リアーナ嬢の好きなクッキーと紅茶を用意しようと侍女のメディアがしばらく離れた隙を、侵入者に狙われた。
白昼堂々と庭園に侵入した覆面の襲撃者は咲き乱れる美しい花々には目もくれることなく踏みにじり、彼女を傷つけて去っていった。
美しい肌には醜い傷痕が残り、心に刻まれた深い傷は今も癒えてはいない。
そしてあれ以来、晴れ渡るような笑顔が戻ることもない。
地面に膝をつき、斬られた腕に手を当てて痛みに顔を歪ませるリアーナお嬢様。
その手の間からは赤い鮮血が漏れ、細腕を伝って花壇へと流れ落ちていく。
背中にもまた深い傷が大きく刻まれ、そこから流れるおびただしい血は彼女の淡い桃色のドレスを赤く染めてしまっている。
そして、鋸のようにギザギザな刃の剣を血に濡らし、お嬢様を冷たく見下ろして佇む黒ずくめの侵入者。
目に焼きついて離れないあの時の光景を再び思い出したオリオは、思わず拳を強く握りしめた。
許せない。
あんな出来事が無ければ、伯爵家は今も笑顔の絶えない幸せな日々が続いていたはずなのだ。
それを全て壊したあの襲撃者を、絶対に許すことはできない。
できるならこの手で仕返ししてやりたい。
だが、剣すらまともに扱えない無力な自分にはとても無理な話だ。
できるとすれば、神頼みすることぐらいだろうか。
(主よ、どうか。
どうかリアーナお嬢様の心を癒し、バートリー伯爵家に仇なす悪しき者に天罰をお与えください)
もちろん、その願いが今すぐ叶うはずもない。
今更ながら仕事の手を止めてしまっていることを思い出し、オリオは仕方なく花の手入れを再開しようとした。
だが、そこでふと異変に感づいた。
(……今、花が動いていなかったか?)
視線を向けると、そこはかつて逃げようとしたリアーナ嬢が襲撃者に斬りつけられた、まさしくその場所。
いつの間にか背丈が低い草花が生えている地面が大きく盛り上がり、もぞもぞと蠢いている。
ミミズとかモグラとか、普通に地中で暮らす生き物の動きではない。
ぞくり、と。
オリオの背筋に寒気が走る。
襲撃者の置き土産か、あるいは化け物の類なのか。
わからないが、リアーナお嬢様にこれ以上何かあってはたまらない。
蠢く地面から目を離さぬようにそろそろと後ずさりしながら、東屋に繋がる道を阻める位置に移動する。
「オリオさん、なにかあったのですか……?」
その様子を不審に思ったのだろう、リアーナ嬢のそばに今も控えている侍女のメディアがおずおずと訊ねてきた。
「あちらに得体の知れない何かがいます。
リアーナお嬢様、メディアさん、お気をつけください」
警戒するべき場所を指さして言いながら、オリオは首だけ回して肩越しに後ろを見た。
すでに泣くのをやめてわずかに顔をあげていたリアーナ嬢は、オリオの指し示す場所を見ると驚き、弾かれたように立ち上がった。
その彼女を安心させるように、そして守るように、メディアが深く抱きしめる。
あの二人には絶対に近づけさせまいと、オリオは手にしていた植木鋏を構える。
それにしても、あの花は一体何なのか。
この庭園の管理を一手に担うオリオは、どこに何を植えたのか全て把握している。
だから、あんな花が咲くように種を撒いた覚えはない。
だが見覚えはある。
確か、そう。
父が愛用し、今は自分が所蔵している植物図鑑で見たのだ。
魔草の一種であり、大きく育った根は自ら地上に這い出て人を襲うこともある、という説明が印象的だった。
その植物の名は、マンドラゴラ。
――そういえば、忌まわしい事件のあの時。
リアーナ嬢の血が流れ落ちた場所は、まさにあの辺りではなかったか。
「そんな……まさか」
図鑑の説明にはまだ続きがあったのだ。
成育途中のマンドラゴラが血を受けるとアルラウネという魔物に変異する、と。
そしてその根が形どる姿は……
オリオがそれに思い至った、その直後。
ぼこり、と。
不意に土の中から突き出されたのは、人間の右腕だった。
ひっ、と女性二人のこわばった声が背後から聞こえてくる。
続けて左腕も突き出されると、揃った両腕がその場の土を払いのけていく。
そして、ついに。
土の中から這い出てきたそれが、おもむろに立ち上がった。
「え……?」
――図鑑にも魔物と記されていた、かの伝説のアルラウネ。
その容姿を見たリアーナ嬢とメディアは、思わず目を疑ったことだろう。
実際に目の当たりにしたオリオもまた、あまりの衝撃に言葉を失っていた。
「ここは……庭園?
オリオ、どうして私はこんなところにいたのかしら。
……え、あそこにいるのは、私?」
なぜならその姿は、今オリオの後ろにいるはずのリアーナ嬢そのものだったのだから。




