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さらば満ち足りた日々よ

 ホロン、ホロン、と。

 木々がざわめく森の奥に、竪琴たてごとの調べが響く。

 巨木の根元に寄りかかるように座り、キヴェルテは曲を奏でていた。

 他には誰もこの場所にはいない。

 いるはずもないのだ。

 なぜなら、ここは本来人間が寄りつかない樹海の奥深くなのだから。


 ヒュージ樹海はシャード王国西部に広がる雄大な森林地帯である。

 数多くの獣が住み着き、珍しい草花や果実が所々に生える、自然に恵まれた秘境だ。

 しかし同時に、ここは奥に踏み入るのがとても危険な魔境でもある。

 地形が険しすぎるというわけではない。

 あまりに多くの木々が茂るがゆえに奥深い場所では周囲が似た景色となり、方角を見失うと完全に迷ってしまうのだ。

 森の奥に踏み入った多くの人々が、いまだに行方不明のまま帰ってきていない。

 数少ない帰還者の一人は、樹木の海に飲まれてしまった、などと語ったという。

 樹海と呼ばれるのは、それが所以なのだ。

 

 キヴェルテはなおも指を踊らせ、竪琴の弦を弾いている。

 目を閉じて、無心に、懸命に。

 だが、その調べはどこかたどたどしく、上手いとはとても言い難い。


 吟遊詩人として名を馳せるキヴェルテだったが、今はもう簡単な曲を弾くことすらままならなくなっていた。

 それほどに老いてしまったのだ。

 その姿はまだ優男と呼べるくらい若々しく、見た目に老いは現れていない。

 大地からの精気を糧に生き続けるアルラウネという存在なればこそだ。

 しかし、三〇〇年もの永き歳月を過ごしたその身体は限界に近づいていた。

 今ではもう大地の精気を吸い上げる力が急激に弱まり、身体の自由が利かなくなっている。

 その上、意識が飛んで気を失うことも多くなってきた。


 残された時間は、あとわずか。

 そう悟ったアルラウネのキヴェルテは最期の刻を迎えるべく、自分の生まれたこの地に帰ってきたのだった。





 三〇〇年前、キヴェルテという名の若き吟遊詩人の男が好奇心に駆られてヒュージ樹海の奥に入り、そのまま迷ってしまった。

 森の出口を探し回って数日さまよい歩き、手持ちの水と食料は尽き果てた。

 更に森の住人たる赤い狒々(レッドバブーン)に襲われ、止血もできないほどの深い傷を左腕に負ってしまった。

 何とか撃退することはできたが、このままでは生きてこの樹海を出られそうもない。

 心身ともに疲れ果てた彼は死を覚悟し、たまたま見つけた一本の若木の下に座り込んだ。


 そこで、根元に生えたマンドラゴラを見つけたのである。

 吟遊詩人として話の種を求めて本を読み漁ってきたキヴェルテは、魔草マンドラゴラを知っていた。

 もちろん、生き血を吸ったこの植物が血の主の姿形のみならず記憶をも備えたアルラウネとなる、という伝説のことも。


 死に瀕していたキヴェルテは、それに賭けることにした。

 深い傷口からとめどなく流れる自分の血を、そのマンドラゴラに与えたのである。

 自分の記憶と、技と、そして夢を託すために。

 体内の血が失われていく様を眺めながら、やがてキヴェルテは眠るようにそっと息を引き取った。






 彼の願いは届いた。

 二〇日後に地上に這い出たアルラウネのキヴェルテは伝説の通り、死ぬ前までのキヴェルテの記憶と技を有していたのである。

 傍らにあったキヴェルテの遺体は這い出た時にできた穴に埋め、簡単な墓を作って埋葬した。

 アルラウネの直感を頼りに樹海を抜け出すことにも成功し、吟遊詩人キヴェルテは再び各地に姿を現すようになった。


 幾つもの国を渡り歩き、多くの街を巡った。

 一所ひとところに長期間留まることはしなかった。

 老いを見せぬアルラウネであることを悟られぬよう、これは仕方のないことだった。

 ほとぼり冷めるまで同じ街には行かなかったから、キヴェルテの顔を覚えているものは少なかっただろう。 

 だが、それでも良かったのだ。

 キヴェルテの夢は、末永く歌い継がれる歌を残すことだったから。

 顔を売るつもりなど全くなかったのである。


 しかし、だからこそ。

 ふらっと現れ、心打つ詩を紡ぐ豊かな歌声と流麗な竪琴の演奏を披露し、颯爽さっそうと去っていくこの吟遊詩人の姿は人々の記憶に強く焼き付いた。

 いつしか吟遊詩人キヴェルテの名と歌は広まり、今や知らぬ者はほとんどいないほどになった。

 生前のキヴェルテとアルラウネのキヴェルテがともに積み上げてきた経験は、大きく実を結んだのである。


 見どころのある者を見つけ、何人か弟子も育てあげた。

 キヴェルテの技を後世に残すためだ。

 竪琴を教え、詩と曲を作るコツを教え、今まで作り上げた歌を伝えた。

 もっとも、一人前になって巣立たせた後は二度と会うこともなかったが。

 風の噂では吟遊詩人として名を上げたり、宮廷楽師に取り立てられた者もいたという。

 その多くは人としての天寿を全うし、既にこの世にはいないはずだ。

 それでも、キヴェルテの技はきっと彼らの後進に受け継がれていることだろう。


 長きに渡り、吟遊詩人としての絶頂を謳歌した。

 亡きキヴェルテがやりたかったことも、全てやり遂げることができた。

 これ以上望むべくは、もう何もない。






 竪琴の音の余韻が消え、森の中に再び静寂が戻った。

 何とか最後まで曲を弾き終えたアルラウネのキヴェルテだったが、それで全ての力を使い果たしてしまったようだ。


 もう、身体が動かない。

 指一本動かすこともできなくなった。

 生命の灯火が完全に消え失せるのも時間の問題であろう。


 僅かに上を向くキヴェルテの視線の先に、覆い繁る緑が映る。

 かつての若木は天を隠せるほどに大きく育ち、ヒュージ樹海を代表する長老達の仲間入りを果たしていた。

 そばに作ったはずの墓をも飲み込み、今やこの巨木こそが亡きキヴェルテの墓標と言ってよい。


 ――君の血を受けられて良かったよ。


 心の声で、今は亡き彼に語りかける。

 さわさわと、樹々がざわめいた。


 本当に良かった。

 亡きキヴェルテの全てを受け継ぎ、彼が送るはずだった生涯を歩むことができた。

 悪党の偽者となって哀れな最期を遂げた他のアルラウネと違い、自分は恵まれた楽しい日々を過ごすことができた。

 十分に幸せを与えてもらった。

 その恩を今、ここに返そう。

 元より、この地に帰ってきたのはそのためなのだから。

  

 今日、吟遊詩人キヴェルテはこの世を去る。

 その正体が、長きを生きたアルラウネであったことを秘したままに。

 ヒュージ樹海の奥地で、誰にも看取られることなく。


 これからも、三〇〇年もの間各地に現れ続けた神出鬼没の吟遊詩人の来訪を信じ、人々は待ち続けるだろう。

 あるいは他の誰かがキヴェルテの名をかたり、これまで生み出した詩を歌い始めるかもしれない。

 だが、それでいい。

 それでこそ、吟遊詩人キヴェルテの名と詩は伝説となる。

 アルラウネのキヴェルテが生きた全てが、人間キヴェルテの伝説として語り継がれていくのである。

 

 ――これが僕にできる、せめてもの礼だ。


 ざわりと、樹々のざわめきが一瞬大きくなった気がした。

 わずかに笑みを浮かべようとしたキヴェルテだったが、そこで意識が急激に遠のき始めた。

 悠久と思えた日々にも、いよいよ終わりの刻が来たようだ。


 ――吟遊詩人キヴェルテよ、永遠なれ。


 最後の願いを残して、キヴェルテは意識を手放した。

 支える力を失った彼の腕からこぼれ落ちた竪琴が地面に落ち、がらん、とむなしい不協和音を辺りに響かせた。






 三〇〇歳という年経たアルラウネが、人知れず静かに逝った。

 かつて、この樹海で命を落とした吟遊詩人の男と同じ場所で、そして同じような死にざまで。

 だが、その最期の顔だけはとても誇らしげに笑みをたたえていた。

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