受け継ぐ者
グリナム王国の北部にある静かな森の奥、陽の光が大きく差し込む開けた場所に、その畑は作られていた。
もっとも、ただの畑ではない。
唯一の出入り口に重厚な二重の扉を備え付けられた、大きくて頑丈な魔鋼――魔力を帯びた鋼の檻の中にあるのだから。
作るだけでも金と手間がかかったであろうこの檻の厳重さが、その中に整然と並んで生えるそれの危険度を物語っていた。
「ギャアァァァァァッ!」
地面から引き抜かれた植物が、身の毛もよだつ悲鳴を発する。
魔術師や薬師の間では特に貴重な素材として扱われる魔草――マンドラゴラ。
その悲鳴を聞いたものは精神に異常をきたし、発狂して死ぬと言われている。
「あらあら、なかなか活きのいい鳴き声ね。大きさも手ごろだし、これは良質だわ」
だが、それを引き抜いた当の本人であるジーレは、その叫び声に笑みを浮かべて喜ぶ余裕ぶりである。
ジーレはマンドラゴラの悲鳴の効果を受け付けない。
当然である。
彼女の正体は生き血を吸って育ったマンドラゴラの変異――アルラウネなのだから。
ジーレは、今や自分の役目となったマンドラゴラの収穫作業に勤しんでいた。
順調に育ったマンドラゴラを次々に引き抜いていく。
その度に怨嗟の悲鳴が辺りに響くが、お構いなしである。
この畑を囲む檻には防壁と消音の付与魔法がかけられているから、通りがかりの野生動物に迷惑をかけることもない。
「これで終わり、と」
最後の一本を大きな籠に放り込み、ジーレは息をついた。
収穫したマンドラゴラは二〇〇本。
街で懇意にしている薬師が、相当な金額で全て買い取ってくれるのだ。
「さて、早く帰らないと」
畑の後片付けを手早く済ませると、相当な重量になっているはずの籠を軽々と背負い、畑の外に出る。
専用の魔法鍵で二重扉を間違いなく施錠したことを確認すると、ジーレは鼻歌交じりに家路についた
「今回も良いマンドラゴラがこんなにたくさん採れましたよ、ジーレさん」
途中、道の片隅に作られた墓に声をかけ、籠に入ったマンドラゴラを見せる。
それは、ジーレの元となった女性――本物のジーレの墓だった。
彼女は、既に故人となって久しい。
原因不明の病に倒れ、この世を去ったのだ。
その夫であり高名な魔術師にして薬師のレイオスは深く悲しみ、自分が管理し育てていたマンドラゴラの一つに彼女の血を与えた。
そうして、アルラウネのジーレは生まれたのである。
――君はジーレの姿と記憶を持って生まれたけれど、ジーレ本人とは違う。
――だから、君にはジーレという名の別人として、僕の傍に居て欲しいんだ。
レイオスは彼女に本物の代わりを求めなかった。
そのために自分は生み出されたのだと思っていたから、意外だった。
しかし、いつしかそれも気にならなくなった。
レイオスは気兼ねなく彼女をジーレと呼び、彼女がジーレと名乗ることを許したのである。
彼を助け、共に人生を歩み続けたい――思えば、それが今は亡きジーレの願いだった。
そしてそれは、今や自分の望みでもある。
だから、無理に知る必要はない。
望みのままに生きていられるのだから、このままでいいのだ。
「それにしても、私が生まれてから四〇年、か」
ジーレは感慨深げに呟いた。
その年月は、ジーレとレイオスに明確な変化の差をもたらしていた。
昔の姿のまま変わらぬアルラウネのジーレは、大地より精気を吸い上げることで、まだまだ長く生き続けられる。
一方のレイオスはというと、今や力仕事に体が堪えるようになってしまい、マンドラゴラ畑の管理をジーレに一任してしまっている。
人間として、時間の流れのままに老いてしまったのだ。
そのことをジーレは寂しく思う。
レイオスとともに過ごせる時間は、もうそれほど長くはないだろう。
本物のジーレの記憶を抜きにしても、彼には感謝しているのだ。
ともに手を取り合い、時にはともに苦難を乗り切って。
ともに喜び、そしてともに笑いながら、今まで生きてきた。
アルラウネとして生まれた偽者の自分に、こんなにも満ち足りた日々を与えてくれたのだ。
その彼を失うことを想像すると、胸が張り裂けそうになる。
彼がいなくなったら、自分はどうすればいいのだろうか。
「……まあ、今悩むことでもないか」
多分、もうしばらくは先のことだろうから、と。
この時のジーレはまだ、悠長に考えていた。
「ただいま……?」
自分達の住処――大きな木の下に建てられた簡素な掘っ立て小屋に帰ってきたジーレは、異変を感じていた。
レイオスの姿がない。
返事も、気配もない。
彼のことだからマンドラゴラ処理の準備を済ませ、近場で採取して乾燥させた薬草を擦り潰して時間を潰し、今頃はそれにも飽きてジーレの到着を待ち侘びてそわそわしているはずなのだ。
だから、落ち着いて小屋の中で待っていることなど、あり得ない。
不吉な予感がよぎる。
慌てて中へ駆け込んだジーレが目にしたもの、それは。
乾燥した薬草や、それを擦り潰した粉末などが床に盛大にばらまかれ、異常に散らかった室内と。
その中で倒れ伏す白髪の老人の姿だった。
「レイオス!」
急いで駆け寄り、抱き起こす。
血の匂いはしないから、怪我はしていない。
左手で胸を強く押さえているから、病んでいるのはそこなのか。
しわだらけの顔を苦悶の表情で歪ませて、辛そうに喘いでいた。
「……やあ、ジーレ」
だが、目を開けたレイオスはにこりと笑みを浮かべたのだ。
「良かった……間に合って、くれた。
さすが、僕の頼れる、ジーレだ……」
そこまで言ってレイオスは、うぐっ、と顔を歪める。
「今、薬を持ってくるから、しっかりして!」
立ち上がろうとしたジーレの手をレイオスが掴み、引き留めた。
「僕は、もう、駄目みたいだ。
君に、全てを託すよ……この家も、畑も、研究成果、も、全部」
「そんなこと言わないで!
絶対助けるから、諦めないで!」
必死で訴えるジーレの目の前で、レイオスの右手がゆっくりと天に向かって伸ばされた。
「ああ、ジーレ……
待たせて、しまった、ね……今、行く、よ」
直後。
うっ、と呻き声を上げたレイオスの身体が一瞬硬直し、その瞳から急速に生気が抜けて行った。
やがてレイオスの全身から力が失われ、伸ばしていた右手が力なく床に落ちた。
「そんな……!」
呼吸を確認しても、息をしていない。
胸を掴むレイオスの左手を退けて心音に耳を澄ませてみるも、あるべき鼓動がない。
それらが指し示す事実を、ジーレは信じられなかった。
「嘘……嘘よ……」
いや、信じたくなかったのだ。
彼がもう、この世にはいないなんて。
一縷の望みを信じて、ジーレはレイオスの肩を激しく揺さぶった。
「お願い、起きて!
起きるのよ、レイオス!」
だが、起きない。
何度も、何度も。
何度揺さぶっても。
レイオスは、やはり目を覚まさなかった。
「いや……いやぁぁぁ……」
いつしか、ジーレは泣いていた。
レイオスの体にしがみつき、慟哭した。
――僕は自分のために君を生み出した。
――だがこれは、人としてやってはいけないことだ。
――いずれ僕は、その報いを受けることになるかもしれないね。
ふと、レイオスが以前そんなことを言っていたのを思い出した。
これが報いだというのか。
これが罰だというのか。
だが、あまりにも早すぎる。
もっと長く、彼と共に過ごせるものだと思っていた。
それなのに、運命はこんなにも唐突にレイオスを奪っていった。
レイオスの死に顔は、意外にも穏やかなものだった。
自分に後を託し、看取られながら最愛の妻の元に旅立つことができたのは、彼にとっては救いだったかもしれない。
でも。
――残された私は、どうすればいいの?
レイオスを助けることこそが生き甲斐であったのだ。
この掘っ立て小屋も、苦心して作り上げたマンドラゴラ畑も、自分自身でさえも、彼が居なければ何の意味もない。
その彼を失った今、ジーレは自分の生きる理由を完全に見失っていた。
やがて泣き止み、顔を上げたジーレの表情は茫然自失そのものだ。
レイオスのいなくなったこの世界の全てが色褪せてしまっている。
虚ろな目で小屋の中を見渡すと、先ほど放り出した籠に視線が止まった。
籠は倒れ、中からマンドラゴラが床に投げ出されている。
そう、採ってきて間もないあのマンドラゴラだって、もう何の価値も――
ジーレはそこではっとした。
今、そのマンドラゴラにこそ価値がある。
「そうよ、呆けてる場合じゃ、ない」
まだ、間に合う。
毅然と、ジーレは立ち上がった。
奪われたならまた生み出せばいいのだ、新しいレイオスを。
他ならぬ自分が、そうして生まれた存在ではないか。
人がすべき所業ではないかもしれないが、そもそも自分はアルラウネなのだ。
文句を言われる筋合いは、ない。
「私のレイオスを……取り戻す!」
そこからのジーレは素早かった。
まず作業用のナイフを見つけて腰に差し、レイオスの遺体を肩に担ぐ。
普通の人間ならば重いと思うだろうが、アルラウネであるジーレにとっては大した重さではない。
最後に自分が採ってきたマンドラゴラを一本だけ引っ掴むと、今しがた帰ってきた道を突風のように駆け戻っていった。
あれから三〇日後。
ジーレの姿はマンドラゴラ畑の中にあった。
全て収穫し終えたはずの畑のど真ん中に、一本だけマンドラゴラが生えている。
その目の前で、ジーレはじっと見守っていた。
マンドラゴラは生命力の強い魔草だ。
土から掘り出されて悲鳴を上げたマンドラゴラは、体内に蓄えていた魔力のほとんどを使い果たしてしまう。
だが、それですぐ死に絶えるわけではない。
地面に触れて大地から精気を吸収すれば、再びその力を取り戻す。
あの後、マンドラゴラ畑に舞い戻ったジーレは引っ掴んできたマンドラゴラを畑に植え直した。
そして、担いできたレイオスに謝ってからナイフで手首に傷を付け、溢れ出た血をマンドラゴラに注いだのである。
マンドラゴラは、問題なく成長している。
いや、もうアルラウネと呼ぶべきだろう。
根はずいぶんと大きくなり、今にも土の中から出てきそうなほどに地面が盛り上がっている。
「もうそろそろ、かしらね」
そう、もうすぐだ。
成熟しきったマンドラゴラは自らの意志で地面から這い出てくる。
それは、アルラウネの場合も同様だ。
レイオスの血を受けたこのアルラウネは、彼の姿と記憶を持って生まれる。
ジーレの元に、レイオスが帰ってくるのだ。
それなのに。
「どうして……」
ジーレの顔は浮かなかった。
喜びが、思ったほどに湧いてこないのだ。
レイオスの顔を再び見ることができる。
レイオスの声を再び聞くことができる。
とても嬉しいことのはずなのに、どうして。
どうして、この喪失感は消えてなくならないの。
「……そういうことなんだね、レイオス」
はたと、ジーレは気づいた。
彼と同じ立場になって、思い知らされてしまった。
今、目の前で生まれようとしているのはレイオスではなく、その偽者でしかないのだ。
死んでしまった彼が蘇るわけではない。
どんなに同じ姿をして、同じ記憶を宿していたとしても、本物にはなりえない。
レイオスを失ったこの悲しみは、紛れもない本物なのだから。
だが、気づくのが遅すぎた。
もうすぐ、アルラウネのレイオスと目の前で対面することになるだろう。
偽者に代わりは求められない。
でも、彼と同じ姿のアルラウネを自分の手で処分するなど、できない。
どう向き合えばいいのか、ジーレは悩んだ。
――君はジーレの記憶を持って生まれたけれど、ジーレ本人とは違う。
――だから、君にはジーレという名の別人として、僕の傍に居て欲しいんだ。
不意に思い出したのは、かつてレイオスから告げられた言葉だった。
彼も自分の過ちに気づき、思い悩んだはずだ。
その上で、アルラウネのジーレという存在を認めてくれた。
偽者ではなく、名を受け継ぐ者として。
ああ、そうだ。
ジーレは答えを見出した。
アルラウネのレイオスにも、名を受け継いでもらえばいいのだ。
自分もそうだったではないか。
名を継ぎ、遺志を継ぎ。
いつの間にか自分は、ジーレという存在そのものを受け継いで生きている。
これから生まれるアルラウネのレイオスにも、そうして生きてもらいたい。
そして、レイオスがしたかったこと、やり残したことを一つづつ共に成し遂げていくのだ。
今は亡き二人の名を受け継ぐ同志として手を取り合えば、そこにレイオスとジーレの存在はきっと生き続けるだろうから。
胸の奥でつかえていた何かが、すっとどこかへ消えていく。
何ともすがすがしい気分になり、ジーレはぐるりと辺りを見渡した。
森の奥の開けた場所にある、魔鋼の檻に囲まれたマンドラゴラの畑。
レイオスがいなくなってから色褪せていた景色が今、鮮やかな彩りを取り戻していた。
と、その時。
足元のアルラウネがぐらりと揺れた。
もぞもぞと、地面が蠢いている。
いよいよだ。
アルラウネのレイオスとの初対面を前に、ジーレの胸は高鳴った。
まず、最初になんて言おうか。
感情に駆られたとはいえ、勝手にアルラウネを作り出してしまったのだ。
やはり、謝るのが一番だろう。
賢い彼のことだから、それで自分がどうなったかを理解してくれるだろう。
次に、レイオスの墓のことも言っておかなければならない。
亡きジーレの墓の隣に並べて作ったのである。
レイオスなら、きっとそうして欲しいと願っただろうから。
互いに言えなかったことも言い合おうか。
空の上で二人が恥ずかしがるかもしれないけれど、記憶を受け継いだ自分達の役得とさせてもらうとしよう。
それから、それから――
「ふふっ」
これから始まる新生活に思いを馳せて、思わず顔がほころぶジーレであった。