後日談B 大公子息のその後
「うおおおぉぉっ!」
俺の剣に押されて、騎士団長の剣が落ちた。
溜息をついてヤツは言う。
「俺の負けです。お強くなられましたね、坊っちゃん」
「坊っちゃんはやめろ」
先日我が国の学院を卒業した俺は、王宮での夜会で正式な大公家の跡取りとして認められた。
最初からそうだったんだけど、儀礼を重んじて広く知らしめることも大切だからな。
その夜会で、女王陛下直々に俺とリュドミーラの婚約も発表していただけた。この国で彼女に妙なちょっかいを出すような奴は現れないだろう。もし現れたら、決闘するか闇討ちするか──親父にもっと大公家の裏の仕事も教えてもらわなくちゃな。
「……坊っちゃん坊っちゃん……」
「なんだよ」
騎士団長に肘で突かれて、俺は屋敷のほうを見た。
ここは王都にあるアダモフ大公邸の庭だ。
王宮へ行ったり領地へ戻ったりと跡取りの勉強で忙しい俺は、久しぶりの休日に王都配属の大公家騎士団の訓練に混ぜてもらっていた。普通の訓練で良かったのに、なぜか気がつくと俺が主役の勝ち抜き戦になっていた。まあ、ガキのころから勝てずにいた騎士団長に勝てたから良かったけど。
「リュドミーラ……」
屋敷の前に彼女がいた。
俺は休日だが、ふたつ年下の彼女は学院のある日だ。
授業が終わってすぐ俺に会いに来てくれたんだろうか。リュドミーラの側には礼儀作法の教師をお願いしている伯爵夫人もいる。
「坊っちゃん坊っちゃん」
「なんだよ」
「その汗だくの体で若奥様に抱き着くおつもりじゃないですよね?」
「うっ」
隣国に短期留学していたとき、俺は従兄のヴィーク達が受けていた騎士科の特別訓練には参加していなかった。
どこの国でも軍事技術は機密事項だ。強さを見せつけて圧倒するためでもなければ他国の人間には見せない。
俺にとってはヴィークが終わるまでリュドミーラと図書館で過ごせる楽しい時間だった。婚約者でない男女でも図書館で一緒に勉強しているのを咎められはしない。
ってか騎士団長、なんで俺が『坊っちゃん』でリュドミーラが『若奥様』なんだよ!
「水桶! だれか桶に水入れて坊っちゃんに持って来い!」
騎士団長が叫んで、見習い騎士のひとりが水桶を持ってきてくれた。
とりあえず頭から被って……おい、だれか拭くための布をくれ。
「イヴァン様」
「リュドミーラ?」
「うふふ、訓練の後は水を被られるのではないかと思って布をお持ちしました。婚約者なので濡れた髪をお拭きしますね」
「ありがとうございます」
気がつくと近くに来ていたリュドミーラに俺が礼を言った途端、周りの騎士団員達が吹き出した。
なんだよ。ちゃんと婚約して、うちの国に来てもらって、互いの休みが合うときは街へ出かけて、休みじゃなくても俺が王都にいるときは三日に一度はどちらかの館で一緒に食事をしていても、俺が丁寧語をやめられないのがそんなにおかしいのかよ。
仕方ないだろ!……怯えられたくないんだから。
「ポリーナ様とボ……ヴィーク様の訓練を見学に行ったときは皆様の声を聞いて怯えてしまったのですけれど、今のイヴァン様の雄叫びは怖くありませんでしたわ」
「そうですか」
俺の頭を拭きながら、リュドミーラが嬉しいことを言ってくれる。
だれかに濡れた髪を拭いてもらうなんて子どものころ以来だけど、なんだかとても温かくて幸せな時間だった。
悔しいが、彼女の元婚約者もこんな幸せを味わったことがあるんだよな。ヴィークがポリーナ嬢に頭を拭いてもらってたから、リュドミーラも一緒にあの男の頭を拭くことになったんだ。
……今度ヴィークと会ったら一発殴っとこう。
まあヴィークがリュドミーラの親友のポリーナ嬢と婚約してたから、俺がリュドミーラと知り合えたわけでもあるんだが。
などと考えているうちに、リュドミーラは濡れた髪を手際良く拭き終わった。
「イヴァン様の髪は滑らかで、とっても触り心地がいいです」
「貴女の髪も綺麗で柔らかくて素敵ですよ」
残念ながら、リュドミーラを称賛したのは俺ではなかった。
「……親父」
「愛しいイヴァンが休みだと聞いて、私も王宮での仕事を早目に切り上げてきました」
働けよ、アダモフ大公家当主。
女王陛下の補佐の仕事はなくたって、我が家が受け持っている裏の仕事はあるだろう? 親父は姉君である女王陛下のため、若いころは荒くれ王子の仮面の裏で、今は洒落者大公の仮面の裏で、この国の闇の部分を支配している。
ニコニコと微笑んで、親父はリュドミーラを後ろに下がらせた。
「親父?」
「なんですか、愛しいイヴァン」
「私はもう学院を卒業して婚約者もいるのですから、幼い子どものときのように愛しいとか言わないでください。それと、どうして剣をお持ちなのですか?」
「せっかくだから稽古をつけてあげましょう」
「え……」
さっき騎士団長には勝てたが、まだ親父に勝つ自信はない。
「せっかくのお申し出ですが騎士団の訓練は終わりました。私はもう水を浴びて汗も流しました」
「はい。これで汗や水が目に入りませんね」
元から親父は武術の訓練では容赦ない。
自分になにかあって俺がひとりになったときのことを案じてだろう。
リュドミーラと婚約して、彼女が我が国へ来てからはさらに稽古が苛烈になった。母上のこともあり、未来の妻を守れる男に育ててくれようとしているのだと思う。
思いはするのだけれど──たまの休日なんだから婚約者とイチャイチャする時間くらいくれよ!
彼女の前で親父に負ける情けない姿を見せるなんて冗談じゃないぞ!
それに親父の稽古を受けたら、終わっても体中が痛くて動けなくなる。骨は外されても嵌められるようになったけど!
「イヴァン様頑張ってください、応援しています」
「ありがとうございます」
満面の笑顔でリュドミーラが声援を送ってくれた。
じゃあ頑張るしかないなあ、と俺は剣を握り直した。
ところで親父、これは俺を思ってのことだよな? 自分は独り身なのに、息子が可愛い婚約者とイチャイチャしてるのが気に食わないからって八つ当たりしてるんじゃないよな? 母上は新しい奥方を見つけて幸せになってくださいって言い残したのに、再婚しなかったのは自分じゃん!
今ひとつ親父の愛が信じ切れない最近の俺なのだった。
 




