第十一話B 大公子息は婚約を解消する
「リュドミーラ嬢」
懐かしい声に顔を上げると、そこには短期留学を終えて隣国へ戻ったはずのアダモフ子爵子息のイヴァン様がいらっしゃいました。
相変わらずの優雅な物腰で私の前の席にお座りになります。
かなりの長身でいらっしゃるのですが、所作が綺麗なせいか威圧されることはありません。ほかの方ですと、体が大きくていらっしゃるだけで恐ろしく感じてしまうこともあるのです。
「お久しぶりです、イヴァン様」
「今日は図書館にいらっしゃったのですね」
「裏庭の噴水は放課後だとだれもいらっしゃらないことがありますので、婚約者のいない身でひとりそんな場所へ行くのはよろしくないかと思いましたの」
ボリス様と過ごしたことを思い出しそうで辛かったのもあります。
ポリーナ様へはヴィーク様の髪が乾くまで図書館で待っていますときちんとお伝えしています。
イヴァン様が頷きました。濡れたような黒髪が揺れています。
「ご慧眼です。噴水のほうに良からぬものが歩いていくのを見ましたので、少々心配していたのです」
「まあ」
「ご安心ください。そちらには私の父が向かいました。貴女と入れ違いにならないようにふたりで手分けをしたのです」
「イヴァン様のお父様もいらっしゃっているのですか?」
「ちゃんと親子ともども校内に入る許可をいただいていますよ」
「ふふ。そんなことを疑っているのではありませんわ」
イヴァン様はとても真面目な方です。
いくら学習要綱が違うといっても、隣国の学院では最終学年だった方には学園の初年度の勉強など簡単過ぎてつまらないものでしょう。
それでも彼は毎日真面目にお勉強なさって、ふたつも年下の私にも頭を垂れて教えを乞うていました。国が隣り合っているといっても、やはり違っていることが多かったのでしょう。
「どうして……いいえ、なんでもありませんわ」
どうしてこの国にいらしたのかと聞きたくなりましたが、親友の婚約者の幼馴染、なんて関係の方にそこまで追求するのは不調法というものでしょう。
後でポリーナ様達に尋ねることにして、私は口を噤みました。
「おや、父が良からぬものを捕らえたようです。今日はこれで失礼いたしますね」
「あ」
図書館の窓の外を見て立ち上がったイヴァン様に、私は思わず手を伸ばしてしまいました。
よく考えると、さっき彼は私と入れ違いにならないように、とおっしゃっていました。
なにか私に用事があったのではないのでしょうか。
「……内緒ですよ……」
立ち上がったイヴァン様は唇に人差し指を当て、ポケットから出した小さな袋を手渡してくださいました。
甘い匂いがします。もしかしてイヴァン様のお手紙に書いてあった隣国の人気甘味処の焼き菓子でしょうか。
図書館は飲食禁止です。持ち込みもよろしくはありません。……これは内緒にしなくては!
「また参ります。詳しいことはそのときに」
そう言って出口へ向かうイヴァン様の背中を私はずっと見つめていました。
しばらくしてポリーナ様達が迎えに来てくださったので一緒に帰路に着きました。
今日は喫茶店へ寄ろうと話していたのですけれど、イヴァン様がいらしていたことを告げるとヴィーク様がご実家に確認されるとおっしゃったので、そのまま家へ戻ることになりました。ポリーナ様とヴィーク様のお時間を邪魔してしまったかしら。
イヴァン様にいただいた小さな袋の中には、色とりどりの砂糖で可愛い動物や花が描かれた焼き菓子が入っていました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「ギリオチーナ王女! 私という婚約者がありながら、クズネツォフ侯爵子息ボリスとの浮気に明け暮れていたのは許しがたいことです。私、アダモフ大公家の跡取りイヴァンは君との婚約を解消します!」
図書館で再会してから数日後、しばらく学園にいらっしゃっていなかったギリオチーナ王女殿下とボリス様が登校なさったと思ったら、臨時の学園集会が開催され、中庭に集められた生徒達の前でイヴァン様が宣言なさいました。
イヴァン様……アダモフ子爵家のご子息というのは世を忍ぶ仮のお姿だったのです。
王女殿下は以前のようにボリス様に絡みついてはいません。彼女の背後には“白薔薇”レナート様もいらっしゃいませんでした。取り巻きのご令嬢達も彼女から距離を置いているようです。
「はあ? 王家の血を引くとはいえ臣下に降った紛い物が、正当な王女である私に偉そうに! 私を娶れることに感謝してしかるべきでしょう? もしかして、お前が私の“白薔薇”になにかしたの? 北の塔を出てもいなかったのよ。私の“白薔薇”を返して!」
「ギ、ギリオチーナ様。隣国の大公子息に失礼です」
「失礼なのはあっちのほうでしょう? それにボリス、もう私を名前で呼ばないで。婚約者に捨てられたような情けない男に縋られたくはないわ!」
ボリス様は必死に王女殿下を窘めようとしているようですが、彼女は聞く耳を持っていないようです。
イヴァン様が溜息をついておっしゃいました。
「婚約者に捨てられたのは君もでしょう、ギリオチーナ王女。私はアダモフ大公家の血筋を絶やすような妻は必要としていません。……そして、ね?」
イヴァン様は、なんだかとても悪いお顔をなさいました。
笑顔でいらっしゃるのに怖いのです。短期留学なさっていたときはいつも優しく接してくださっていたので、彼を怖いと思ったのは初めてでした。
だけど怖いだけではなく、悪い笑顔のイヴァン様はどこか艶っぽくて、ぎゅっと心を鷲掴みにされるような雰囲気を漂わせていました。
「あんたは“白薔薇”ちゃんにも捨てられたんだよ、莫迦王女」




