涙
私は部屋でのんびり読書をしていた。学校を休む前に図書室で借りた本だ。一日中部屋にいるのは退屈極まりない。気を紛らわせるものがあってよかった。
物語が丁度佳境に差し掛かった時、部屋をノックする音がした。
(いいところだったのに)
この音にはもううんざりだ。私はつくづく一人が向いている人間だと思う。人に予定を崩されるのが煩わしくて仕方ない。
「ノルバートでございます」
「どうぞ」
最近よくこの部屋に訪れる様になった男爵の執事はいつになく顔色が悪かった。
「リズ様、部屋を移動頂きます。急いでくださいませ」
「一体何事なの」
「スペンサリア公爵閣下がいらっしゃいました。リズ様にお会いしたいそうです」
(成る程、こんなみすぼらしい部屋じゃね)
それにしても、スペンサリア公爵に会うのはとても緊張する。
執事が、そのままの格好で良いので急げと急かすので、私は今着ているワンピースの上に軽くショールを羽織った。そして、執事の後をついて歩く。打撲した箇所は、まだ本調子とはいかず、歩く際は痛みが走る。それでも執事は私に気にかけることなく早足で進むので、我慢しながら精一杯ついて行く。執事は本館への通路を渡り、足を止めた場所はダリア姉様の部屋の前だった。
「公爵閣下との面談中は、ここをお嬢様のお部屋として振る舞い頂きます様お願いします」
(あぁ、公爵様が来ている間だけここが私の部屋だと口裏合わせしろってことね)
「わかりました」
私が扉を開けようとしたその時、内側から勢いよく扉が開いた。
「はぁ!?私の部屋を平民に使わせろですって!?嫌に決まっているでしょう!!お母様に言いつけてやるわ」
「お嬢様、何卒ご協力頂きます様お願いします」
メイド長がダリア姉様に嘆願する。
「平民なんて直接応接室まで歩かせてやればいいじゃないの。そこまで遠いわけでも無いでしょう!……あら?」
ダリア姉様はそこで漸く私に気がついた。
「いたの、平民。気がつかなかったわ。そういうことで、いくらお父様の頼みでもわたくしの部屋には入れないし、わたくしのドレスだって貸さないわ。平民臭くなったら使えないじゃない?厚かましいのよ」
さらりと、侮辱をうけたが、別にわたしが使わせてくれと頼んだわけでは無い。それどころか痛いのを我慢してきた私にとってはとんだ無駄足である。
「だ、そうです。客室にでも行きますか?」
調度品や装いから、『私の部屋』ではなく明らかに『客室』になるのだが、特段困ったことはないはずだ。
私は執事に提案するが、彼は困った顔をしダリア姉様を説得をする。
「ダリアお嬢様、しばしの間だけです。それだけで、この男爵家がようやく日の目を浴びることが出来るかもしれません。お嬢様の嫁ぎ先も良いところに決まる可能性もあるのですよ」
「ふん。それだったら、わたくしにだってスペンサリア公爵様と同等の方を用意して下さらないと」
「お嬢様、あまり私共を困らせないで下さい」
「ほら、やっぱり無理じゃない……。ん?あ、そうよ!平民がわたくしにスペンサリア公爵様を紹介すればいいんだわ」
ダリア姉様はさもいい案が浮かんだとばかりに顔を輝かせた。
「ね?そうじゃない?だって別に平民でもわたくしでも、家の為になるのでしょう?早速お母様に相談に……」
「公爵様はあなたに興味を持たないと思いますけど」
ダリア姉様が、というより普通のご令嬢が、といった方が正しい。恐らくどんな名家のご令嬢でもどんな美人でも公爵の好奇心を満たせなければ、彼にとっては何の価値もないのだ。
「なんですって!随分自分に自信があるのね?」
ダリアは再び私に詰め寄った。その勢いに思わず後ずさる。すると、ふくらはぎが背後にあった花台にぶつかった。
「いっ……!」
そこは打撲して痛みがある箇所で、しかも予期せぬ障害物だったため、私はその場で尻餅をついて倒れてしまった。
その拍子に花台も倒れ、上に乗っていた花瓶は地面に直撃し大きな音を立てて割れてしまった。
その場が静まり返る。
「あははは。あなたって本当に情けない人ね。そうやって床に這いつくばってるのがお似合いよ」
花瓶の水が私の着ているワンピースを濡らす。
執事を筆頭に、屋敷で働いている者は
あわあわと私とダリア姉様を交互に見ている。
「騒がしい。一体何なの?」
扇子を広げ優雅に現れたのは男爵夫人だ。
ダリア姉様は夫人に甘える様にくっついた。
「お母様、お父様が酷いのです。あの平民ばかり特別扱いして、わたくしに我慢を強いるのです」
さめざめと泣くダリアを夫人は抱きしめる。
「あぁ、可哀想なダリア。どうしてアルフはあいつばかり可愛がるのだろうね」
「しかもあの平民、わたくしとスペンサリア公爵を会わせようともしないのです。自分ばかり幸せになろうとするなんて……」
夫人は私を鋭い目で見る。
「あなたはそんな醜い姿で、公爵様に会う気だったのかしら?」
痣のことだろうか、服のことだろうか。
(多分両方だろうな)
私が黙っていると、執事が応接室でした話を説明をした。
「奥様、公爵閣下がリズ様に会っていかれると仰ったのです」
「黙りなさい、ノルバート。それで馬鹿正直にあの娘を出してどうします。今こそ、我が家の正当な血筋を持つダリアを公爵様に見初めて貰うチャンスでしょう」
「ですが、奥様……。とてもダリアお嬢様をご紹介させて頂くような雰囲気では……」
「わたくしが直接参ります。あなたはその小汚い娘を別館に閉じ込めておきなさい」
ダリア姉様は勝ち誇った顔で、私を見下ろした。
「あぁ、その水片付けておきなさいよね。平民。あははははは……は……は」
愉快そうに高笑いしたダリア姉様の声が急に途切れた。そして、その顔はどんどん青くなっていく。
(なに?)
「大丈夫?リゼ」
優しい声に振り返るとそこにはスペンサリア公爵と、男爵、それに見た事もない貴人が数人。
こんな所で大騒ぎしていたのだ。恐らく、応接室まで響いたのだろう。
手が差し出され、私はどうするか迷う。先日、振り払った手がまた優しく私に伸ばされている。
公爵をチラリと見てみれば、不安げな顔をして私を見ていることがわかった。
こんな顔をされては私も忍びない。
(ここは学校じゃないし)
私は差し出された手にそっと手を置く。
「ありがとうございます」
公爵は優しく笑って私を起こした。
「っ……!」
いきなり引き上げられたので体に痛みが走る。よろけた私は公爵の胸に抱きとめられた。
「どうしたの?大丈夫?」
「どうもしません。少し、勢い余っただけです」
私はそっと離れたが、公爵は私の腕や首などの露出した部分を見て眉をひそめる。
そこにある痣に気がついたのだろう。
「男爵、これは?」
「ははは。お見苦しい所をお見せして申し訳有りません。我が家は姉妹仲がどうも宜しくないようで、こうして喧嘩に発展することもあるのです」
「それにしては随分一方的な様に見えたが……」
ダリアお姉様も慌てて弁解に走る。
「全て誤解でございます、公爵様。たまたまその様な場面だっただけで」
「そうなのかい、リゼ?」
ここで正直に答えたところで、私に得るものは何もない。男爵家の恨みを買うだけだ。はい、とそう答えれば言えばいい。
「……っ」
しかし、私の声は口を開いても音にならない。
(どうして)
私が話さないことを確信した夫人が代わりに言葉を紡ぐ。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。公爵様。この子は気に入らないことがあると、こうして偶に我が家で暴れるのです」
「へぇ」
空気が一瞬でも凍ったのがわかった。
(怒ってる?)
夫人は多少怖気付いたものの、主張を続けた。
「ですから、公爵様。この娘ではなく長女のダリアこそが公爵様にこそ相応しいかと。この子ならキチンと躾けられておりますし、年の頃も公爵様と釣り合いが取れるかと……」
「我がスペンサリア家に男爵家の娘が相応しいと。そう言っているのかい?」
夫人の顔はカァっと赤くなる。
私とダリア姉様を比べるあまり、公爵との身分差など頭から吹き飛んでいたようだ。
ダリア姉様の方は酷く驚いた顔をしていた。
「何故です?何故あの子は良くてわたくしは駄目なのですか?」
「逆に聞きたいけれど、君はどうして僕が顔も名前も知らない令嬢に好意を持つと思ったんだい?」
「折角知り合えたんですもの。これから知っていけば良いではありませんか」
「僕は君みたいな人間に時間を取られるのが一番嫌いなんだ」
スペンサリア公爵の冷笑にダリア姉様は呆然とする。
貴族社会でこんなはっきりと拒絶するのは彼くらいだろう。
「僕にはリズが傷つけられている様にしか見えない」
公爵の言葉に控えていた3人が頷いた。
「リズ。君が助けを求めているなら、僕が必ず力になる。僕は全力で君を守ろう」
「どう、やって……?守るなんてそんな簡単に言わないで下さい」
そんな上手い話がある訳がない。
もし仮にそうだとしても、いつ見捨てられるかもわからないのに。なんの保証もないのに。
そんな話に乗るほど私は愚かじゃない。
「君を我が家に迎え入れよう」
「……私の新しいお父様にでもなるつもりですか」
私が目を細めて不満げに言うと、公爵は苦笑した。
「それも悪くないけど、出来れば僕は君を妻として迎えたい」
「なっ……!!」
想像もしていなかった言葉に私の頭は真っ白になる。
(わたしがこの人と結婚?)
不意に涙がほろほろとこぼれ落ちた。
「リズ!?」
公爵はギョッとして私から離れた。
「ごめん、嫌だった?」
「違うんです。でも、何故涙が出るのか、私もわからなくって」
悲しいんじゃない。痛いんじゃない。それなのになんで涙が溢れるのかわからなかった。
あぁ、そうだ。そういえば、本で読んだことある。
人は嬉しくても涙が出るのだと。
(そうか、私は嬉しいんだ)
この温かい人の側にずっといられることが。公爵が私を求めてくれることが。
とめどなく涙は溢れる。
それと同時に髪がキラキラと宝石の様に煌めいた。
公爵はそんな私をオロオロとしながら見ていた。その姿を微笑ましく思ってしまうのはどうしてだろうか。
「スペンサリア公爵様、どうか私を助けてください」




