親愛なる爆弾魔
二作目です。
今回も限られた時間の中で楽しく描けました。
注:暗い展開が続きます
八年前の一月二十五日、東京で起きた平成最悪の爆破事件「首都圏連続爆破事件」
死者253人、行方不明者500人超の平成最悪の爆破テロ事件。
警察は当初敵対していたイランのテロだと仮定していたが、幾日経っても犯行声明が出されず、事件は民間人の何者かの犯行であると断定された。
そして丸8年経った今日まで犯人はおろか、痕跡すら見つけられていない始末だ。
各テレビ番組は『今日で八年経った』という代わり映えのしない大きな見出しで視聴者を惹きつけているようだが、どこの番組も言っていることはまるで同じ。
爆破されたのは首相官邸のすぐそばにある日本有数の大ホテルを2件、そして首都のど真ん中にある、日本の象徴とも言える超高層電波塔。あとは設置されているゴミ箱の中だったり細々としたところだ。犯人は未だに見つかっておらず、犯行は複数犯で行われた可能性が高いとのこと。
経済損失額は数兆円にも登り、いずれも復興されてはいるものの事故周辺は根も葉もない風評が流れ、誰も立ち入らないゴーストタウンと化していた。
そして最後に一つ、犯人と思われる人物が首相官邸に送った一通の手紙。その中身は次のようなものだった。
『僕らはお前らを絶対に許さない。都合の良い者だけが得をし、弱者は容赦なく排除される世の中は間違っている。これは「復讐」ではない。お前らが受けるべきである然るべき「粛清」なのだ』
ところどころ破れかかった、どこかにありそうな宝の地図のような歪な形をした紙片が手紙に貼られていた。
ゴーストタウンと化した夜の街を静かに貪っていた。外は雪さえ降っていないもののやはり寒い。吐き出した息は空気中で白く濁り、煙草の煙のようにひどく静かに消えていくような、そんな寒さだ。
車はおろか、通行人一人さえ通っていない東京の夜は静かだった。目の前を写すのはサッカーボールのように丸々とした月が意気揚々と地面と人一人住んでいない家を照らす、思わず心を奪われそうな妙に神秘的な光景だった。
夜に外を散歩するのはもはや習慣となっている。
目的は二つ。一つはもちろん、この光景を目に写すため。もう一つは...。
体は自然と目的の場所を目指し、目指した先にあるこじんまりとした公園のベンチへ体が向きを変えた。
ベンチには、飲むヨーグルトを片手に空を仰いでいる未だに寝癖をつけた凪がいる。
歩を進め、彼の元へと歩み寄る。
いつものようにこんばんは、と会釈をすると彼も軽く会釈を仕返した。彼はいつものようにヨレヨレのTシャツとくたびれたジーパンを着流していた。
自分もベンチに座ると、予め買っておいた飲むヨーグルトを得意げに取り出し、付属のストローをつけ、勢いよく飲んだ。
彼はこちらに依然として無関心なようで、まるで物思いに耽るかのように空を仰いでいる。
「今日は、飲むヨーグルトなんですね」
私が一言声をかけると、凪は静かに視線を移し、ええ、とうなづいた。
「今日は自分にとって特別な日なので、これにしました。久しぶりに飲むけどやっぱり美味しいですね」
彼の口調は軽快だったが、その裏に少し重みを感じられた。
彼のその日の体調、調子等はわずか一本の飲み物によって判断することができる。
調子が良い日は飲むヨーグルト、普通の日はいちごオレやバナナオレ、悪い日はブラックコーヒーだ。
未だにどのような心境でその日の飲み物を選んでいるのかはわからない。恐らくからの中にある無自覚な尺度がそうさせているのだろう。それがわかったのは、少なからず彼と過ごした時間の結晶体と言っても過言ではないだろう。少なくとも私はそう評価している。
凪と出会ったのはそうだな...。一年と少し前くらいだろうか。東京も少しずつ寒くなったほどのことだったか。
以前交際していた彼氏に浮気相手がいることが発覚し、一人泣きながらこの公園のベンチに座っていた時だった。いちごオレを持った彼が私の前に現れた。突然音もせず現れたものだから、当初は幽霊か何かだと勘違いした。
彼は何も言わずベンチに腰をかけると、それを飲み始めた。
声を抑えていたつもりだったが、抑えきれない嗚咽が凪に煩わしさを与えたのか、耐えかねた彼が大丈夫かと声をかけてきた。
普通面識のない相手には詳しい事情は話さないものだと思う。それは世間一般的にもそうだし、何より自分の意に反している。
だが抑えきれなかったその感情は、一気にまくし立てるように事の経緯を説明した。その間、凪は特に反応を示すわけでもなく、ただどこか一点を見つめるだけだった。今思えば本当に聞いているのかさえわからないほどだ。
話し終えると彼はそれを察知したのか、一言、大変でしたね、と、それだけ言い残した。
正直なんだこの男は、と憤りすら感じた。見ず知らずの女性が私事情を教えたっていうのにその反応か。
だがその考えはいとも簡単に吹き飛んだ。見ず知らずの男性にベラベラと私事情を語ったのは紛れもなく私だからだ。礼節を弁えていないのは寧ろ私の方だ。彼からしてみれば私はただのエゴイストに違いない。
既に嗚咽は止まり、鈴虫が数匹、夜の闇に紛れて静かにその身に余る鳴き声を辺りに呼応させていた。
静寂が妙に心苦しくて凪の顔を覗いた。男の顔は至って平凡。特段鼻が高いわけでもない、唇が厚いわけでもない、かと言って目が細いわけでもなければメガネもしていない。一言で言わせてもらうと、特徴がない、印象に残らない、影の薄そうな男、だ。自分から言わせればどこにでもいる「普通の男性」だった。その性格を除けば。
その後も何度か公園に顔を出したが、彼はいつもの定位置で何をしているわけでもなく、その身を据えるように座っていた。
当初はお互いその場に居合わせても、言葉を交わることはほとんどなかった。二人ともそれが目的でなかったからだ。
私達は沈黙の時間を貪り、そして謳歌していた。人っ子ひとり歩いていない道路に人の気配がすればそこに視線を移し、公園の草陰から物音がすればそこに耳を澄ました。私達は時間を共有し、もはや行動をシンクロさせているようだった。
そんな時間を過ごしていると不思議と相手のことが気になるのが人間の本分なのだが、私達はそれを生まれながらにして胎盤の中に置いたまま忘れていたようだった。二人ともどこか他人とずれていて、あるべき何かが明らかに欠けていた。
だからこそ私達は会うべくして会ったのだと思う。ただの偶然ではなく、限りなく必然的に、誰かが決めたわけではなく。あいにく神や仏や運命などという空虚なものは信じないタチなもので、神頼みという言葉のかの字も知らないような性格のせいで、人々は自分たちと違う私という忌み嫌い、迫害し、そして孤独へと追いやった。そしてこのゴーストタウンへ追いやられた。それに関してはあまり憤りは感じなかった。自分たちと違う人間を迫害することは至極当たり前のようなこと。むしろその感情を持ち合わせていることに羨ましさを覚えるほどだ。
私たちのような存在の全てが、自分がどのような立ち位置にいて、どのような存在であるべきかを把握し、肯定していると思っていた。
だが彼だけは違った。
彼は自分が異質な存在であるということを認めようとせず、人々の私たちに対するはっきりとした根底さえ見当たらない下らない固定概念から抜け出そうとしているように見えていた。それこそグリム童話の人魚姫のように、人魚から人間になりたいと願うようにだ。
彼のような生物は見たことがなかった。いや、後にも先にもからのような生物が生み出されるのは今後一切起こりえないだろう。所詮ただの人間は他の人間に迫害されないように他人色に染まるのがオチだろう。それは動物でも言える。村から取り残された動物はたった一匹では生きられない。だから本能的に仲間と共に行動し、その身を無難な場所へと無意識に避難させているのだ。
だが彼は自分の中に自分だけが知り得る自分だけの国を作り、一人でそこに佇んでいた。他人色に染まることもなく、一人寂しく玉座へ座っているのだ。全生物に共通して言える暗黙の了解を、彼はたった一人で無きものにしているのだ。
私はそんな彼に惹かれた。特にカリスマ性があるわけではないが、彼だけが持っている異様な人間性に惹かれたのだ。
もう少し話そうか。何があったか。そうだ。私と凪の、二人だけの小さい世界の話をしよう。
あれは確か前の彼氏に浮気をした理由を問い詰めた時だった。そいつは自分が生きてきた中で聞いたこともないような、今思い出すとひどく滑稽な理由を口にした。
「怖かった。性格どうこうではなく、人間的に。付き合ったのも体の関係が目的だった」と。
そいつはその場で殴り飛ばしてやったのだが、出会って数ヶ月経ったある日、いまだに名前さえ知らなかった彼に相談して見た。私は怖いのかと。当然怖くないと答えてくれると思ったのだが、彼は静かに微笑しながら、全てを見透かしたような目でこちらを見て、怖いよと答えた。自分と普通に会話することさえ普通の人は難しいからね、とそう返答した。彼の顔はどこか物足りないような、寂しげな顔をしていた。
私の力量では彼の言った言葉の重みを推し量ることはできない。それだけの器に達していない。だが確かに、彼が哀情の淵にいることだけは分かった。
こういう時にどうすればいいのかわからないから、取り敢えず彼を抱擁した。こんなことを考えるのは不謹慎かもしれないが、私はそれをしている最中、本当にこんなことをして良かったのか、彼に尻の軽い女と思われていないかなどと考えている自分に、嫌気がさすようなことばかり考えていた。
すると自分の懐の内で不意に嗚咽が聞こえた。必死に喉の奥で堪えているような嗚咽。聞く人が聞くと気に病んで狂乱してしまいそうになる程、暗くて怨念が地の底から這い上がってくるような嗚咽。刹那、耳を手で塞ぎたくなる衝動に駆られた。それを堪えて彼の方を一瞥すると、彼は私の着ているカーディガンの袖を握りしめて、顔をその下に潜り込ませて、溢れ出した涙は街灯の明かりに反射し銀色に輝きながら頬の上を歩んだ足跡を残しながら静かに伝っていた。
その時、私は初めて知った。彼は彼で苦悩しているんだ。私にはわからない何かに心が押しつぶされそうになっているんだ、と。
彼の艶やかな髪に手を置き、撫でた。大丈夫、と何度も繰り返しながら。それが私に彼に出来る最善の手だと思ったから。
嗚咽も次第に鳴り止み、袖を掴んでいた手も緩くなった。私もそれに合わせて腕を解きかけた。
そっと覗かせた彼の顔は艱苦の表情ともう一つ、激しい憎悪がくっきりと彼の顔に姿を現していた。ほんの一瞬覗かせただけの彼の顔に、私は自分でも驚くほど戦慄した。放っておくと、この男は何かしでかすかわからない。自分の中の第六感が私にそう直感させた。
解こうとした腕を再び強く引き寄せる。
それからどれほど経っただろうか。流石に腕が痺れてきて、固結びした紐を解くように私は腕を離した。彼の頬には流れ出た涙が伝った跡がはっきり残っていたが、先程見たような憎悪は全く感じ取れず、いつもの何を考えているのかわからない顔に変わっていた。
一息ついて、強張っていた体をベンチに沈めるように改めて深く腰掛けた。彼を一瞥するが、やはり何を考えているのかわからない。諦めて、月の光でほんの少し明るみがかった空を見上げた。街灯の明かりによって星はほとんど見えない。常々人間の産物の光は無くなってしまえばいいのにと思うが、街灯の光に衰えないほどの光を放っている星を見ると、生きていると実感させられるような、妙に官能的な気分になってしまった。
そんな面持ちでいる私を差し置いて、彼はまるで今思い出したかのような独り言を一人でに呟いた。
「凪、白川凪だ」
私は一つ、重要なことを履き違えていた。それは彼もこの世界の、残虐で卑劣で無慈悲で、それでいてこの上なく美しい、この地球の、三次元の住人だったのだ。それなのに私は人間から見たイエティや火星人のような視点で彼を見ていた。大きな誤解だ。彼はイエティでもなければ火星人でもない。純人間だ。そんなことも気づかず、名乗られた途端に、何を言っているんだと思った自分を呪いたい。
「凪...。素敵な名前ね」
「ああ、僕もそう思うよ。世界にひとつだけの僕だけの名前」
ええ、と答えたまま黙ってしまった。もっと他に言うべき言葉があるはずだろう。どんな意味なの?とかどんな漢字なの?とか。だがそんな単純明快で一縷の疑問さえ私の頭の中には思いつかない。仕方がない。どうせそのくらいの知能指数なのだろうから。
「君はなんて言うの?」
結局彼から言わせてしまった。少々嫌悪感に頭を悩ませながらも渋々答えた。
「惺、如月惺」
「しずか?漢字は?」
それでも彼は最も、人間らしい、聞こえは悪いが一般庶民的な疑問を持って、私にぶつけてくれた。私が少し落胆したのは言うまでもない。ならば私も答えようではないか、と身を乗り出しながら答えた。
「惺、りっしんべんに星って書くの。あんまり馴染みのない漢字かもしれないね。見たことある?ないでしょ?」
やっと普通の会話ができたと思う。軽く達成感を覚えた。
「ああ、あんまり見たことがないかもしれないな。割と漢字には自信があったのにな。ご両親はなんでその漢字に?」
彼は顔にうっすらと微笑を貼り付けながら聞いた。
「ああ、それはね両親が名前をつけようと思って考えてたの。どうやらしずかって名前は決めてたらしいんだけどね、肝心の漢字を何にしようか迷ってたらしいの」
肝心の漢字って、ギャグじゃないからねと笑いを取ろうと思ったが、彼は早く続きを言えたせがんだので、故意に膨れっ面になりながらも話を続けた。
「それで調べてたらこの漢字に行きついちゃって両親両方ともこの漢字に一目惚れしちゃって、語呂も良かったしこの漢字にするかってなったらしいの」
その話を初めて聞いた時には正直ショックを受けた。笑顔で話す両親に憤りも覚えた。だけど割とそんなもんじゃないのかと思う。多分両親からしてみれば、こんな子に育って欲しい、ってよりも自分の生き方を自分で探して欲しいって思ってたんじゃないかって、こういう人間になりたいって自分で思って欲しかったのかもなんて、今になってその行動を肯定することができた。
「両親…。親御さんは今、何処に?」
私は静かに人差し指を月光照らされてほんのり明るみがかった、僅かな音さえ無い寂しげな空を指差した。
「上だよ」
彼は首を傾げる。全く、何処までも感が鈍い。
「上は上。天国。死んだの。私の両親。丁度七年くらい前だったかしら?ある事件に巻き込まれてね」
「七年前。ある事件。まさか…」
ようやく察してくれたようだ。
「そう。私が高校二年の時だった。首都圏連続爆破事件に巻き込まれたの。二人とも務めていた職場が爆破場所から近くてね。今でも名目上行方不明ってことになってはいるけどね。事件から一、二年経つくらいまではずっと二人は生きている、私を驚かそうとしているってずっと自己暗示してた。けどある日思ってしまったの。二人は死んでしまったって。そんな考えなくなってしまえって心の底から思ったわ。私が諦めてどうするんだ。そう思って自我を保とうと思った。でも時間が経ちすぎてた。過ぎ去った年月は私の思っている以上に私自身を蝕んでいて、ボロ雑巾のようにしてたらしくて、どれだけ抗おうとしても為す術はもうなかった。そこからはもう受け入れるしかなかった。死んでしまったっていう残虐で冷酷な、たった一つの、私が行き着いた真実を」
彼は真っ直ぐ私を見つめたまま、静かにこちらに耳を傾けていた。
そしてそして視線を落とし、うつむきながら一言、
「ごめん」
そう言ったのだった。
その日以降私達はもっと会話をするようになった。(私が話してからは相槌を打つだけだった)正直親のことを話すのは引け目を感じたが、その後の彼の私に対する対応は変わらなく、同情ばかりされてきた私にとってはそれがひどく身軽で心地よかった。
彼は口に出さないだけで、きっと私を心配してくれているだろう。彼がさっき言ってくれた『特別な日だから』はきっと私の身を案じてくれた優しさの表れだと、私は勝手に自分の都合よくそう解釈している。
手元に置いてある空っぽの飲料容器を呆然と見つめながら、頬のそばかすを撫でる。小さな凹凸が指に触れ、嫌気がさす。自分のコンプレックス。彼に見られたくない。だけど触っていると余計注目される。それでも触っているとそれを隠せているような、変な安心感に浸れるのだから仕方がない。
だけど彼は、私を思っている以上に私を見ていない。認めたくないのだがそれが事実だ。
「もう…あれから八年だね」
彼が語りかけてきた。
遅い。どうせ私がいつまでたってもその話題に触れないから我慢できなくなったんだろう。ほんと、考えてることが手に取るようにわかる。
ええ、と適当に相槌を打つ。正直、どうでもいい。本当は悲しむべきなのかもしれない。だが悲しいのは悲しいが、言っても八年経ってる。聞こえは悪いが、慣れた。こんなところが少し他人とずれているのかもしれない。
「あと…二年か」
続けざまに言葉を漏らす。彼はハッとなってすぐに口を閉ざした。
正直無視したいのだが、そんな反応をされたら嫌でも気になる。何?と聞いたのだが一向に話そうとしない。まあ正直どうでもよかったので問いただすのはやめにした。
凪がおどおどしながら、節操ない様子で聞いてきた。
「両親のお墓にはもう行ったの?」
「うん、憎たらしいけど今日が毎日だもん。二人がいなくなったことに慣れたって言っても、やっぱり私の心にはまだ人間の心があったみたい」
彼は乾燥してひび割れた唇を然りに舐めながら相槌を打った。
お墓といってもその下には何もない。両親の遺体は今だに体の一部さえ見つかっていないからだ。あるのは如月隆、冴子没、享年四十九歳、四十三歳と彫られた、何の意味も持たない綺麗ないたずらをされた、私を幻滅させる無慈悲な石だけだ。本当にくだらない。政府が無償で建ててくれたのだが、何の気休めにもならない。あそこに立つとあの事件のことを思い出して、やり場のない怒りが無性に込み上げてくるだけだ。
私の瞳に激しい憎悪が映し出されるのを察知した彼は少し背後にたじろいだ。
「じゃあ僕はもう帰るよ」
彼の方を一瞥して頷いた。彼はまるでとらから逃げる小動物のように、逃げるようにその場から立ち去った。
私も溢れそうになる憎悪を抑圧させ大きく息を吐き出すと、空になった容器を公園に設置されたゴミ箱に放り投げた。放り投げられた空は綺麗な弧を描きながら、見事にゴミ箱の淵に当たって外に投げ返された。
それを見向きもせず立ち上がった。家路を辿る馴染みの道へ引き返した。
特に何を考えるわけでもなくいつもの道を歩く。
ここら一帯は八年前は血の海と化していた。人々の怒り、悲しみ、恐怖。そして享楽的な、狂気的な興味、関心。一切の感情が集中した場所。沢山映像として残された場所。沢山シャッター音が鳴り響いた場所。
今は過去のものは過去のものと、まるで今の社会をそのまま町並みとして表しているかのようだ。倒壊した建物の数々は早々と撤去され、新しくできた建物が、前にあった建物が開けた穴を固めるかのように設置されていた。なんだかひどく虚しく、どうしようもなく悲しい世界が眼下に広がっていた。どうにかしたいと思っても、どこをどうしたら良いのか分からないし、まず昔あったものを今のもので埋めろというのも至極難しいことだし、なんだかもう自分の無力さを呪いたい。
そろそろ見えてきた。ただのどこにでもあるこじんまりとしたアパートの壁に『かもめ荘』と無駄に馬鹿でかい文字が設置されたアパート。外観はラブホテルを彷彿させるピンク色のペンキが壁に塗りたくられ、煌びやかにイルミネーションの装飾が施され、見ている自分が恥ずかしくなってくる。そしてそんなところに住んでいる自分がひどく情けなく思える。
これは余談だが、昔ここには本当にラブホテルが建っていたらしい。だが自殺が相次いで、経営はままならなくなり倒産。そして新しく建てられたのがこのかもめ荘らしい。
だからからか、よく誰かの影が見えたり、誰も住んでいないはずの隣の部屋から話し声が聞こえたりする。
だがそれでも私が住んでいるのは、ここら一帯のアパートに比べて家賃が格安なのだ。それがなければ私だってこんなアパートになんて住まない。
このアパートに進んで住みたいのなんか、余程の物好きかどこかの変人くらいなものだろう。事実、このアパートの十部屋中、人が住んでいるのは私も含めてたったの三部屋だ。
その私を除いて二部屋の住人も只者ではない。いきなり奇声をあげる人。夜中にいきなり外に出てアパートの周辺を徘徊した後に草むしりを始める人。できれば関わりたくない。というか関わっていない。誰も関わりを持ちたいと思っていないのはとても心が軽い。
錆びた階段を上がっておくから二番目の部屋の鍵を開けて中に入る。
中は特に何か装飾が施されているわけでもない。ごく一般的なアパートの内装と言って良いだろうか。入って右手が二畳のキッチン、左手が風呂、トイレ(一緒になっている)、奥が五畳の和室になっている。まあ少し狭いくらいだろう。一人暮らしなのであまり気にしていない。
一人暮らしだからといって特別散らかっているわけでもない。かといって片付いていないわけでもない。少しラーメンの容器が散乱しているくらいだ。これくらい、なんてことはない。
夕食はとっくに済ませたので、あとは日記をつけて寝るだけだ。
生前両親からよく言われていた。あんたは物忘れが激しいから日記をつけて大事なことを書き留めておくと良い、と。毎日欠かさず書いている。
棚からボールペンを取り出して日記を書く。
『一月二十五日 多分お父さんとお母さんの命日。あれから八年経っているなんて少し信じられない。とりあえず墓参りには行った。安らかに眠ってくれることがせめてもの願いだ。犯人なんて捕まらなくても良いからこのまま穏便に全てが終わってくれれば良いな』
ペンを置いて日記を閉じた。長々と書くのは好まない。小学生の頃に毎日四百文字くらい日記を書かされていたのだが、今思えば三百文字や四百文字も書く日記なんて、もうそれは日記じゃなくてただの作文だ。
下手な持論を展開しながら自分を肯定する。別に肯定するのが悪いことなんて少しも思っていない。
日記をつけ始めたのは確か四年前の今日だったような気がする。
ようやく両親の仮のお墓に行く決心がついた日だった。
行き先のお店で買った花束と、二人が好きだったバウムクーヘンを携えてお墓に向かった。お墓といってもそんなに大層なものではない。山に囲まれた丘陵地に何百もの石が並べてある中の、その中のたった一つなだけだ。下手したら他の人と間違えてしまうほど何の装飾もないただの名前が彫られた石だ。
そんな石に必死こいて安らかに眠ってくれるように念じていた。念じ終わった後にふと我に返って、ただの石にそんなことをしている自分がひどくバカらしく思えて、早々とその場から立ち去ろうとしていた。
だがその時どこからともなく声が聴こえたのだ。目を周囲に向けながら、声の聞こえる場所を辿った。
周囲に人はいない。犬や猫もいなければ、虫一匹すら目の前に映らない。第一、周辺が山ばかりなのに、虫が一匹もいないなんてそれはそれでおかしい気もするが。とにかく何もいないはずなのだ。なのに愉快そうな声はいつまで経っても止まない。
もう一度耳をすます。目を閉じ、五感の全てを耳に集中させるつもりで臨んだ。
そしてある二つの違和感を覚えた。『如月』と彫られた目の前の石から声が聞こえるのだ。
そしてもう一つ感じた強烈な違和感。おかしいはずだ。なぜ死んだはずの母の声がするんだ?
普通の人間だったら藁にもすがる思いでその母の声に応答するだろう。今思えばそう感じる。だが当時は驚きのあまり正常な思考回路が欠如していたようだ。なんとなくだが目の前にある積み上げられた石を倒してしまいたいと思ってしまった。おそらくそんな幻想を自分に抱かせたその石に、無性に腹が立ったからだろう。ほぼ反射的にそう思っただけだ。口元が何故かにやけてしまって口角を下ろすのに苦労してしまった。目はおそらく殺人鬼のような目をしていたことだろう。
墓の石に手を伸ばした時に母は何か自分に語りかけた気がした。
日記はちゃんと書いてる?って。セリフも口調もマイペースな母にそっくりだ。
にやけとはまた違って、まるで思春期半ばの少年少女のように、笑っていいのか悪いのかわからなく、不器用に笑ってしまった。死んでしまったのに呑気だな、と落胆しながらも、少し、不謹慎かもしれないが安堵した。いつの間にか手はおろしていた。おろした手は行き場をなくして服をつかんだ。
久しぶりの母の声に少し頭がグラっとした。
いつまで経っても泣き虫だった私を、変わらない母親特有の柔らかい匂いをした服で包んでなだめかしてくれた(私はお母さんっ子だった)。横で微かに笑みを浮かべながら、どこか悔しそうな表情を浮かべる父。まるで聖母に抱えられたイエスと、その光景を見て僻む牧場民のような滑稽な光景だった。
あの事件が起きるまで全てが平和だったのだ。あの光景こそが二度と戻らない、我が家の全てだったのだ。
四年ぶりに泣きたくなった。事件後から一度たりとて泣いたことがなかった。もうこの先の人生で泣くことなんかないだろうと思っていた。だが案外あっけなく私は泣いてしまった。やはり私は泣き虫だった。
犯人を殺したくなった。母と父を殺した犯人をこの手で。いや、殺すだけでは飽き足らない。殺した後も呪ってやって地の底まで追い込んで死んだ後も苦しむ姿を見たいとさえ思った。だがそんなことを思ってもできない自分に対して腹が立って仕方がなくて足元の砂利を蹴飛ばして地団駄を踏んだ。
だがそんな時にあの声が聞こえる。
「惺、恨んではだめ。きっとお母さんが死んでしまうのも神様が作ってくれた運命なの。運命を恨んでは、だめ」
「じゃあ、この怒りはどこにぶつけたら良いの!?神様だったら人間を、お母さんを殺したって良いの?じゃあ私は神様だって殺してやる。お母さんを殺した神様を殺して、みじん切りにして、焼いて、豚にでも食わせてやる」
息が荒くなっていた。歯ぎしりの音が本当に明確に聞こえた。歯が折れそうだった。
「落ち着いて、惺。お母さんね、別に神様に心酔してるわけじゃないの。ただ死んだ後に悟ったのよね。もしかしたら私自身が神様だったんじゃなかったかって」
「ちょっと何言ってるのかわかんないんだけど」
「多分この世に誕生した瞬間に神様が私自身に憑依したんだと思う。私だけに限らない。あなたにも憑依してる。気がついてないだけ。あなたの行動も神様が生まれる前に作ったわけじゃない。自分に憑依した神様がその場で作り出したもの」
「新手の宗教勧誘かしら?悪いけど全然意味わかんないんだけど。まあ、取り敢えず聞き受けては置くけど私は仏教宗派だから、勘違いしないでね」
母の話を鼻で笑い飛ばした。だが見えない母は姿を見えないが微笑したように感じた。
あの時感じたあの声は、あの存在感は、私の脳が勝手に作り出した虚像だったのかもしれない。だがそれでもいいのだ。あの虚像が私にどれだけの影響を与え、どれだけの希望を生み出したかなんて、言葉にしようと思ってもできなくて、小さい子供みたいに大きく手を広げたところでわかってもらえないことなんて分かりきっている。
私にとっての幸せは間違いなくあの瞬間だったし、ありのままの私が許されたのもあの瞬間だけだった。他者からなんと軽蔑されようと、なんとコケにされようと、それは私の中にいつまでも変わらない一つの真実なのだ。
頬に一滴の涙が一筋の線を引いてこぼれた。もう泣き虫は治らないだろう。涙なんか、流したいときに流せばいいのだ。いつかの幼少期のように、我慢することなんてないのだ。悲しかったら泣いて、嬉しかったら泣いて、それが自分自身だ。
こぼれた涙を人差し指で拭い、立ち上がって押入れに収納している、長年使われすぎて薄っぺらい布と化した布団を引っ張り出して床に敷いた。
その上に飛び込んでなるようなことはしない。そんなことをしてしまったら体や頭を強打してしまう。寝れそうなのも寝れなくなる。
布団には不思議な力があるようで、布団に寝転んだ瞬間にすぐ眠気が私を襲ってくる。 その眠気に吸い込まれるように、その奥底に沈み込んだ。
あれから八年経った。事態は自分でも疑ってしまうほどうまく進行していた。
あの女の始末はどうしようか。一年の歳月をかけてじっくり育て上げた果実を何もせずに摘み取ってしまうのは、正直もったいない気がする。だからと言って、自分のことを詳しく知っている果実を摘み取らないでおくのは後々に影響してくるかもしれない。さて、どうしたものか…。
美しくて一人寂しい月夜に照らされた口元には笑みが浮かんでいる。気分が良くなって道端に落ちている小石を蹴り上げる。綺麗な弧を描いて、そのまま用水路に吸い込まれて行った。
最初は早歩きなった。そしてスキップ、ランニングと、家路への足取りはだんだん軽くなっていく。最後にはただのダッシュになった。それでもまだ興奮が冷めやまず、クルクルと、目的もなくその身を振り回して手を振り回した。
手に握っていた飲むヨーグルトの容器から、飲みかけの液体の一部が、容器の飲み口から飛び出した。そういえば蓋をするのを忘れていた。
特別取り乱すこともなく、その蓋をすぐに閉めて、平静を取り戻した。そして溢れ出てくる感情。羞恥、忌避、侮蔑。そのすべての感情を容器に託して、道端に放り投げた。
その容器から声が聞こえたような気がした。
「人殺し」
過去に投げかけられた言葉。ありとあらゆる感情を込めて投げかけられた最後の言葉。
それすら滑稽に思えてしまった。男は高らかと笑った。今なら月さえ掴めそうな気がして、幼児がおもちゃを欲しがるように、罪と、血と、爆弾と、そのすべてを握った右手を空高く伸ばした。
夜はもう、中盤にさしかかっていた。
ある夢を見た。
白くて澄み渡った広大な空間。どこまでも歩いて行けそうなその空間に、私と男の子が、ふたりポツンとただその空間に存在しているだけの夢。
男の子の眼球はえぐり取られていて、目が見えていないのか、フラフラしながらその空間の中を踊っているかのように歩いている。男の子に続いて私も歩く。
彼は乾燥して割れまくっていて、歯が一本も見当たらない口を、息切れさせることもなく、何かをつぶやいているようにパクパクさせている。聞き取ろうと思って距離を詰めようとしても、私の動きに合わせて離れていくから、一向に距離は縮まらない。
それは今までの夢だった。今日は違った。
男の子の方から私の方へ向かってきた。今までなら願ったり叶ったりだった。
そうだったはずなのだ。でも今日は怖くなった。勘違いして欲しくないのは、私は決して彼の顔が怖かったから逃げ出したわけではない。ただいつもと彼が違ったのだ。
確かに記憶に残っているのは、眼球のない目から涙を流していて、何か大きな声で叫んでいた。確か「助けて」だった。耳を塞ぎたくなった。彼の声はあまりに悲痛だった。思春期特有の、精神的に不安定になったから叫ぶそれとは明らかに違う。本当に感情があった。戦慄してしまうくらいの全ての負の感情が上乗せされていた。それが怖くて仕方がなくて、どうにかしようにもどうしょうもなくて、私は逃げたのだ。
お互い何度転ぼうと、靴が脱げようと、足の皮が剥がれて血が溢れ出そうとも、決して走るのを止めなかった。
けれど、夢の中といってもいつまでも走っていられるわけではない。先に足を止めたのは男の子の方だった。私も逃げるのをやめて立ち止まった。
流れる涙を加速させて、嗚咽を含んだ震える声で私に言った。
「君も僕を見捨てるんだね」
彼は笑った。その拍子に唇がまた切れていく。真紅の血が、出てくる。
「待って」
手のひらを返すようにそう叫んだが、もう彼は待ってくれずそのまま塵になって消えた。
読んでいただきありがとうございます。
続きをまた製作していきたいと思います。
更新には時間がかかります