遠い記憶
小春日和の土曜日の午後、試験続きで疲れた頭を休めようと、私は植物園に来ていた。
大きな温室の暖かいガラス戸の中には、この辺りでは珍しいラベンダーの花が一面に栽培されている。
その香りに包まれていると私は、時の経つのも忘れてしまう。
種々の植物達の中でもラベンダーと私は、特に相性がいい。
淡いその紫色は、私の一番好きな色だからかもしれない。
彼女達はいつも静かに、優しく語りかけてくる。 その声を聴くと私は、なんだかとても素直な、幸せな気持ちになれる気がする。
そういえば……と、その時ふと改めて気がついた事実が、私の心に小さな波紋を投げかけた。
あの夢の中の大気。
あれもまた限りなく薄い紫色をしている。
この、ラベンダーと同じに……。
だから、あんなにも懐かしく感じるのだろうか。
柔らかな陽の射し込む植物園には、いつも数える程の人しか見あたらない。
今日も遠くのベンチに、老夫婦らしき人達が、気持ちよさそうに日向ぼっこしているその姿が見られるだけだ。
周囲は閑散として、実にひっそりと静まりかえっている。
それを確かめてから私は、私に微笑みかける無数のラベンダーへと徐に語りかけた。
「ねえ……とても不思議な転校生が来たのよ。北欧貴族のハーフだなんて噂されてるくらいカッコよくって、しかも颯一郎以上に頭もいいの。もう一躍有名人よ。それでね。例の夢の声、と……」
その時、不意に私はその場の『気』が変わったことに気付いて、言葉を止めた。
何が起こったのか一瞬ではわからなかった。
が、それでも大気の波長は変わらず優しかったので、 私はゆっくりと振り返ってみた。
「─────加川君……!」
しかしそこには、まさにその彼が、期せずして立っていたのだ。
「有名人。て、僕の事かな」
彼は穏やかに言葉を投じた。
「か、加川君……いつ、ここへ……?」
つい今し方まで、確かにここには誰もいなかったのだ。
なのに、まるで瞬間移動でもしてきたかのように、彼は突然、私の前に現れたのだった。
呆然と彼を唯見つめる私を見下ろしながら、
「よくここには来るの?」
と、彼が問う。
静かな声。
夢の中と同じ……。
「え、ええ。植物達が優しいから」
つい、そう答えてしまい、しまった!と思った。
植物を擬人化するなんて、普通の人には奇妙に感じられるだろう。
ところが、彼の反応は予想外のものだったのだ。
「君は植物と会話が出来るんだね。違う?」
その問いに、すぐには言葉が出なかった。
ただ、まじまじと彼の顔を見つめる。
「そう驚かなくてもいいよ」
一瞬、クッと彼は笑みをこぼしたが、再び理知的な表情に戻り、そして続けた。
「僕にもわかるんだ。彼らの声が」
「加川君……!?」
それ以上は言葉にならなかった。
そんなことを言う人は初めてだ。
しかも、あの加川君が──────
「ここは、いい所だね。静かで緑が生い茂っていて。空気も綺麗だ」
彼が呟く。
遠い目をしている。
私はなんと言っていいかわからないまま、思いついたことを口にした。
「こんな街外れの植物園、よくわかったわね。誰かに聞いたの?」
「いや……」
「じゃあ、何故? 越してきたばかりでしょ」
「─────君が、呼んだんだ。この僕を」
瞬間、目を見張った。
どういう意味……?!
加川君……!
「君に逢えて良かったよ」
私を見つめる。
「加川君……」
どうして。
どうして、そんなに懐かしい瞳をしているの。
そして、その声。
間近で聴くと、あの夢の中にいるような気がしてくる。
真摯な瞳で、彼は更にたたみかけた。
「君は。もっと雄大な自然に囲まれて暮らしたいと思わないかい? 人工的な緑ではなくて」
「それは……緑は好きだわ。でも……」
言おうか、言うまいか。
暫し躊躇っている
しかし、彼は言ったではないか。
植物達の言葉がわかると。
私は思いきって口を開いた。
「都会の木々は無口だわ。車の排気ガスと雑踏の埃にまみれて萎縮してしまっている。誰かが、わかってあげなきゃ。愛情を示してあげなきゃ。あまりにも可哀想で、放っておけないのよ、私……」
彼はやはり不審がることもなく黙って聞いていたが、おもむろに呟いた。
「じゃあ。……君を待っている植物達がいるとしたら?」
「え……?」
「君を愛し、君を必要としている植物達が君を待っているとしたら、君は……」
私には彼が何を言おうとしているのかわからなかった。
彼の顔を凝視する。
彼も私のことを見つめている。
あの懐かしい瞳で。
──────私は彼を識っている……?
いつか何処かで逢ったことがある。
遠い、とおい昔の記憶だ。
”アルティシア”
彼は私をそう呼んでいたのではないか……?!
しかし一体いつ、何処で……
私は生まれた時からこの街にいた。
私の名前は、「杉室柊美」だ。
夢の中の呼び声と同じ声を持ち、懐かしい瞳をし彼─────『加川ルカ』。
彼は一体『誰』なんだろう……。
ほのかなラベンダーの香りに包まれながら、彼と私は無言のまま、いつまでも見つめ合っていた。