やさしい関係
「やっぱお前って変なヤツ。どっかおかしいんじゃねえの?」
「ひっどーい、颯一郎ったら! そんな言い方ないじゃない」
朝まだ早く、誰も来ない内に教室の花瓶の水を換えようとしていたところ、先客がいた。
クラスメートの関谷颯一郎。
珍しいこともあるものねと、聞けば、宿題の英語のノートを忘れていたから仕方なく早起きしてきたとのこと。
しかし、颯一郎はちゃっかり私のノートを写し始めたから、その傍でなんということもなく例の夢の話をしてみたところ。
開口一番、颯一郎のその反応。
私は、ちょっとふくれてみせる。
「悪りぃわりい。朝飯抜きで気がたってんだよ」
と、颯一郎はペンを投げ出した。
「でも柊美、昔からそういう変な夢、見てんだ
ろ? 今更、気にすることねーじゃん」
「でも……アルティシアだなんて」
「アルティシア、か。やっぱり人の名前っぽいよな。誰のことなんだろ」
「わかんない。この頃、まるで神殿みたいな大きな建物が出てくるようになったけど、見たことのない自然が広がるだけで、人は誰も出てこないもの」
「じゃあ。柊美が、アルティシア……てか」
颯一郎がそう呟いた時、私達は一瞬、互いの顔を見合わせてなんとなく沈黙してしまった。
思えば、それこそ『先触れ』とでも呼ぶべきものだったのかもしれない。
「だって、そんな……アルティシアだなんて何なのよ、一体!? 私、そんなの……」
「落ち着けよ、柊美」
なにそんなにムキになってんだよ、と颯一郎。
けれど、アルティシアなどという名には何の心当たりもない。
思えば、幼い頃から途切れ途切れに見続けてきた夢。
紫色の薄いもやに、白色の植物群。
この地球上にそんな植物が存在するだろうか。
色素を持たない植物なんて。
『もや』のようなものはどうやら彼の地の『大気』であるらしい。
そんな見たこともない植物や、有り得ない場所の夢を何故こうも見続ける?!
「んなマジに考えんなよ。よく見てるたかが夢だろ。どってことねえじゃん」
「人ごとだと思ってえ」
明らかに機嫌を悪くした私に、颯一郎は少し雰囲気を変えた。
「柊美はよ。元々、植物と通じ合ってっだろ。花だけじゃない。道端の草一本から木々にいたるまで、とにかく自然とさ。柊美の植物への愛情が高じて、そんな夢見せてんじゃねえの?お前実際、植物と『会話』できんだろ」
「颯一郎、その話は……」
「人前ではするなってんだろ。わかってるよ」
そろそろクラスメート達が登校してきている。
目配せした私に颯一郎は、誰も聞いてなんかいやしないさと相変わらずだ。
しかし、颯一郎のその言葉で私は、ふっと窓の外に目を遣った。
銀杏の大木が、ここからよく見える。
紅葉の季節も過ぎ、ほとんどその葉を落としてしまっているが、地にしっかりと根を生やし、寒さにも耐えていた。
私は席を立つと、窓際から身を乗り出すようにして改めて、外を見た。
”おはよう……”
呟きは、大気の波長に乗って伝わってゆく。
自然界の「気」もまた、私には優しい。
”オーーハヨ……うーーーーー…………”
”おは…………ヨ~~ぅ~~───── ”
窓の外では風もないのに、木々が微かにその枝葉を揺らし始めた。
『言葉』もないのに何故、通じ合えるのか。
それは、私にもわからない。
けれど確かに私は、モノ言わぬもの達と意志を交わすことができる。
或る意味、人間同士よりも遙かにずっと。
物心ついた時から既に、そうだった。
幼い頃は、よく蝶などとも戯れていたものだ。
私にとってはごく当たり前のことでしかなかったが、頻繁に動植物に向かって話しかける私を見て母は、独り言の癖が激しすぎると心配したらしい。
事ある度に注意され、彼らとの会話の内容を話しでもしたら、空想事をむやみに口にするものではありませんとたしなめられた。
誰に話しても信じてもらえない内に私は、ようやく自分の能力の特殊性に気づき始めた。
以来、その事実について固く口を閉ざすようになった。
この事は誰も知らないし、知られてはいけないことだと思っている。
「まあた会話してたんだろ」
「うん。まだ今朝はおはようって言ってなかったから……」
いつの間にか颯一郎が、写し終わった私のノートを片手に、背後に立っていた。
そう、唯一の例外がいた。
幼馴染みの颯一郎だけが、この秘密を知っている。
「なあ」
「なあに?」
「植物が日本語、喋るのか?」
「まさか」
「じゃあ、どうやって……」
「だから……感じるだけ。なんとなく。テレパシーっていうか、具体的な言葉じゃないんだけど、でも、『声』が聴こえるのよ。彼らにだってちゃんと意志はあるもの」
颯一郎は、わかったようなわからないような顔をしたまま、それ以上は何も言わなかった。
それは、何度となく繰り返してきた会話。
けれど、颯一郎は反論めいたことや、馬鹿にしたような態度もとらない。
昔からそうだ。
素直に驚き、そして、信じてくれたのは颯一郎だけだった。
それは今でも変わらないとみえる。
「おーい、関谷ぁ! ノート、ノート!! ノート貸してくれい」
「なんだよ、阿部。朝っぱらからうっさいヤツだなお前は」
男子にしては甲高い声を張り上げながら近づいてきたのは、颯一郎の悪友、阿部君だった。
「おっ!タイムリー。それそれ。俺、英文解釈すっげーニガテなんだよな。今日当たるんだけどわからんくってよお!……おい、関谷?!」
無造作に颯一郎の手にしているノートに手を伸ばした阿部君の手を、颯一郎はあっさりと振り払った。「
「誰が貸すっつった? これは柊美のノートなんだよ」
「益々ラッキーじゃん。柊美ちゃんの英語ならカンペキだもんな、颯一郎。お前のガチガチの日本語訳と違ってよ」
「阿部。お前今度からすーがく、自力でやるんだな。よーし、わかった」
颯一郎の一言に、阿部君はマジで顔色を変えている。
実際のところ、エーゴはともかく、物化・解析の類は颯一郎の助けがなかったら、私だって人ごとではない。
「さんきゅ! 恩に着るぜ、てわけでもないけどよ。いーこと教えてやるよ。おたくらのクラス、今日、転校生来るぜ」
「転校生だと!?」
「うそぉ、だってもうすぐ12月よ。こんな半端な時期に……?」
阿部君のその突然の情報はすぐには信じかねた。
言うのもなんだが私達の高校は、県内でもトップの合格率を誇る中・高一貫教育の私立受験校だ。その為、滅多なことでは転入生など入っては来ない。
編入試験がやたら難しいからだ。
それに……。
「うちのクラス……A室に、か?」
「そ。なんかすっげー秀才らしいぜ。もっとも、A室に編入してくること自体フツーじゃねえけどよ。なんたって『東大クラス』だもんな。俺とこのE室みたいな、その他大勢クラスとはわけが違う」
阿部君の言葉に、私と颯一郎は黙って顔を見合わせた。
『東大クラス』というのは生徒達の間で使われている別称だが、確かにA室は『特進クラス』という名の下に、学年で選りすぐりの生徒ばかりが集められているクラスだ。
ただでさえ難関の編入試験を潜り抜け、しかもA室に編入するなど、ちょっとそっとの芸当ではない。
しかも、こんな時期外れに転入してくるなんて、一体、どんな転校生なんだろう……?!
「でも、なんでお前がンなこと知ってんだよ?! マユツバじゃねえだろうな」
「昨日さ。職員室でちょっと耳にしたんだ。小池とウチの久保センが話してんの」
「で、女か?!」
かあいい娘だったらいいなあと言わんばかりに、颯一郎の顔は既ににやけている。
「そこまで知るかよ。ったく、お前は女となると見境ねえな。柊美ちゃん、こんな不誠実なヤツはさっさと見切りつけて、一度俺とデートしてよ」
「えっ、私? デート?!」
「関谷なんかほっといてさあ。今度の日曜、エーガでも……げっ、颯一郎やるかこいつうー?!」
「ダ・レ・ガ女に見境ないってか!? 不誠実はてめえだろ。学園中、イケテル女には片っ端から声かけてよー!」
阿部君の首を背後から締めにかかると、たちまちプロレスごっこの世界だ。
ほんとに幾つになっても変わらない、男のコって。この荒っぽさとゆうか、この幼稚さは!
私は、半ば呆れ顔で二人のじゃれあいを眺めていたが、その格闘シーンを目の当たりにする内にふと、幼い昔の出来事を思い出してしまった。
私が他の男の子に苛められると、必ず颯一郎が敵をとってくれた。
例え相手が自分より強くても、複数だろうとも、勝つまで立ち向かっていってくれた颯一郎。
私を守る為に……。
「わあーっ、ロープロープ! ギブアップだよ、ちくしょう!!」
先に音を上げたのは、果たしてかな阿部君の方だった。
「……ったく。くだらねえことばっか言ってないでお前もちったあベンキョー、しろよな。この前の中間、赤点みっつだろ。下手すりゃ留年するぞ」
片手でネクタイを緩め、肩で軽く息をしながら、颯一郎の声は結構マジになっていた。
「へいへい。心配しなくても親友の彼女にまで手えだしたりしねえよ」
「ばっ……! そんなんじゃねえぞ!!」
馬鹿野郎!と叫ぶ颯一郎の声を背に、阿部君は、ノート片手に笑いながら教室を出て行った。
何を考えているのか颯一郎は、不意に押し黙ってそっぽを向いた。
十七年近いつきあいになるものの、私と颯一郎はそんな関係じゃない。
あまりにも近しい、身近な存在でありすぎる為に私達は、意識するということがなかったのだ。
そう、十七になる。もうあと僅かな日々で。
けれど颯一郎は、きっと今までと変わらないだろうと信じている。
私達のやさしい関係はずっといつまでも、きっと……
そう信じていた、そんな頃─────
『彼』はやってきたのだ。